自由は神の恵み

1956年4月10日


様々な機会をとらえて、皆さんに、福音書のあの感動的な場面を思い起こすよう勧めてきました。イエスは、つい先ほど人々に話しかけられたところ、ペトロの舟に乗っておられます。付き従ってくる群衆を見て、人々の救いを思い、心は燃え上がってきました。そこで、神である先生は、弟子たちにも同じ熱意をもたせようと望み、「沖に漕ぎ出しなさい」1と命じ、その後、ペトロに網を降ろせと仰せになりました。

 この場面から多くの教訓を引き出すことができますが、いま詳しく考えるつもりはありません。それよりも、奇跡を目の当たりにして、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪人です」2と叫んだ、使徒の頭ペトロの反応について考えてみたいと思います。ペトロの言葉が、私たち一人ひとりに当てはまることに疑いの余地はありません。しかしながら、今まで、人々の手を通して成就された数多くの恩寵の働きを見てきた私は、こう叫びたい気持ちでいっぱいになります。「主よ、私から離れないでください。あなたの助けがなくては、何一つ良いことはできませんから」。しかも、この傾向は日増しに強くなる一方です。

 だからこそ、ヒポナの司教の口をついて出た言葉、自由を称えるあの素晴らしい歌がよく理解できるのです。「神は汝なしに汝を創造されたが、汝なしに汝を救うことはなさらぬ」3。悲しいことではありますが、神に反旗をひるがえしたり、おそらく行いで神を拒絶したり、あるいは、「神の支配を望まない」4と叫んだりすることが、私たちにはありうるのです。

生命を選ぶ

万物は、神によって、神のために、無から造られたことを知り、感謝せずにはいられません。私たちが招かれている幸せがどのようなものかを感じとることができるからです。被造物の中には、しばしば失うとはいえ、理性の働きをもつ人間と、理性をもたないものとがあります。後者の中には、地の面をかけ巡るもの、地の下に住むもの、また大空を横切るもの、さらに真正面から太陽を見つめることのできるものさえいます。しかし、この驚くほど多様な被造物の中で、天使を除けば、自由を行使することによって創造主に一致できるのは人間だけです。生きとし生けるものの創造主に対して、創造主にふさわしい栄光を帰することができるのも、またそれを否むことができるのも人間だけです。

 このような両極端の可能性をもっているからこそ、人間の自由には明暗両面があると言われます。深い愛である主は、私たちを招いておられる。善いものを選べとおっしゃるのです。「見よ、今日、わたしは生命と幸福、死と不幸を指し示した。もし、今日、わたしの命じる主の掟に従って、神なる主を愛し、その道をたどり、その掟と定めと法を守り行えば、おまえは生きるだろう。生命を選びとれ、生きるために」5。

 <生命>を選ぶ固い決心がありますか。聖性に向かえと励ます愛すべき神の声を聞くとき、進んで「はい」と答えているでしょうか。よく考えてみてください。私も良心の糾明をしています。もう一度イエスに目を戻して、パレスチナの町や村でお話しになる様子を眺めてみましょう。主は強制をなさいません。「もし完全になりたいなら…」6と、あの金持ちの若者に言われました。金持ちの青年は主の誘いを拒みます。福音書には、「悲しそうに立ち去って行った」7と記されています。そこで、私は何度かあの若者のことを<哀れな鳥>と呼びました。あの若者は、自由を神に捧げるのを拒否したために、飛ぶことができず、喜びを失ってしまったのです。

大天使はいと高き御者の計画を聖マリアに告げました。その荘厳な瞬間について考えてみましょう。私たちの御母はまず耳を傾け、次いで、主の要求をさらに深く理解するために質問なさいます。その後、はっきりと、「なれかし」8、お言葉の通りにこの身になりますように、とお答えになりました。これこそ神に自らを捧げる決意です。最高の自由をもつ人の返事です。

 カトリック信仰の秘義のいずれをみても、このように自由を称えています。至聖なる三位一体は、尽きることのない豊かなみ心の愛を注ぎ、世界と人類を創造されました。<みことば>は天よりくだり、人間の体をおとりになりましたが、それはご自分の自由を御父の意志の中に見事に封じ込めることによってでありました。「わたしについて巻き物に記されているとおり、神よ、わたしはあなたのみ旨を行うために来た」9。人間を罪の状態から救い出すために、神がお定めになった時が訪れたのです。ゲッセマニの園で血の汗を流すほど苦しむ10イエス、しかし最後には、御父の望みどおりの<いけにえ>として、心静かに、自発的に自らを捧げ、「屠所に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように」11、素直にみ旨に従うイエスを黙想しましょう。主は聖心を開いてお話しになり、ご自分こそ御父に近づくための唯一の道であることを弟子たちに教えられましたが、そのときすでに受難を予告しておかれました。「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」12。

自由の意味

イエス・キリストの愛と同じく、無限の自由を完全に理解することは決してできないでしょう。しかし、主のこの上なく貴重な宝、すなわち寛大な燔祭を見ると、尋ねないわけにはいきません。なぜあなたは、私がみ跡に従うことも、あなたに逆らうこともできるようにしてくださったのですか。このように問いかければ、自由の使い方の正否を判断できるようになります。人が善に向かうなら、その自由の使い方は正しいが、愛のなかの愛を忘れて神から離れるなら、自由の行使において誤ったしるしです。ひとりの人間としての自由、私はこの自由を、今も、いつまでも、力の限り弁護するつもりですが、とにかくこの自由のおかげで、自分の弱さを知りつつも、大船に乗ったような気持ちで主に申し上げることができるのです。「主よ、何をお望みかおっしゃってください。そして、私が進んでそれを果たせますように」。

 キリストは答えてくださいます。「真理はあなたたちを自由な者とするだろう」13。ところで、生涯を貫く、この自由の道の始まりであり、終わりである真理とは、一体どのような真理のことなのでしょう。神と人間の関係を知れば当然もちうる、喜びと確信に満ちた答えを要約してみましょう。ここでいう真理とは、私たちが神のみ手から生まれ、至聖なる三位一体の深い愛の対象となり、かくも偉大な御父の子であるということ。この真理をよく自覚し、日々味わう決心ができるよう、主にお願いしましょう。そうすれば、自由な人間にふさわしい生き方ができます。しっかりと心に刻み込んでおいてください。神の子であることを知らない人なら、自分に最も近しい真理を知らないわけですから、何ものにもまして主を愛する人らしく、自らを支配し、自らに打ち勝つことはできないでしょう。

 天国を勝ち取るためには、ためらわず、たゆみなく、全く自発的に決意して、自由に道を切り拓いてゆかねばなりません。しかし、自由意志だけでは充分でなく、道標なり道案内なりが必要です。「魂が歩みを進めるためには、導き手がいる。それゆえ魂は、悪魔ではなく、キリストを王とすることのできるよう贖われたのである。悪魔の支配は耐え難いが、キリストのくびきは快く、その荷は軽い(マタイ11・30)」14。

 自由、自由、と声を大にして叫ぶ人々の欺瞞を退けなさい。そのような叫びは悲しむべき奴隷状態に陥っている証拠であることが多いのです。過ちを選べても自由であるとは言えません。私たちを自由にすることがおできになるのはキリストだけです15。主のみ、道であり、真理、生命です16から。

再び、神に問いかけてみましょう。主よ、何のためにこのような能力を与えてくださったのですか。なぜ、選んだり、拒否したりする力をお与えになったのですか。私がこの能力を正しく使うことをお望みです。しかし、私は何をすればよいのでしょうか17。すると、ためらいを許さぬ適確な答えが返ってきます。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」18。

 お分かりでしょうか。自由が本当の意味をもつのは、救いをもたらす真理を得るために使うとき、あらゆる種類の奴隷状態から解き放つ神の無限の愛を、疲れをいとわず求めるときなのです。キリスト者が有するこの測り知れない宝、つまり「神の子らの光栄の自由」19を大声で人々に告げ知らせたいという気持ちが日毎に強くなります。聖パウロの言葉には、「善悪を識別した後に善」を追求するという、「善き意志」20についての教えが要約されています。

 良心の負うべき大切な責任について黙想して欲しいと思います。誰一人として私たちの代わりに選択することはできません。「善に向かって自己を導くのは、自分自身であって他人ではないということ、ここにこそ、人間の最高の尊厳がある」21。カトリックの信仰を両親から受け継いできた人は大勢います。神の恵みによって、生まれて間もなく洗礼を受けたとき、超自然の生命が芽生えました。しかし、全生涯を通じて、いや毎日、何にもまして神を愛するという決意を新たにしなければなりません。「神の御独り子である<みことば>の支配を無条件に受け入れる者こそ、キリスト信者、つまり真の信者である」22。そして、この恭順には、「神である主を拝み、ただ主に仕えよ」23と言われたキリストと同じ態度で悪魔の誘惑に立ち向かう心構えが伴っていなければなりません。

自由と献身

神の愛は妬み深く、呼びかけに条件づきで応えても満足してはくださいません。すべてを捧げよ、超自然の賜物と恩寵の喜びの邪魔をする正体の明らかでない障害を、心からとり払いなさい。主はこのように、もどかしげに、待っておいでになります。ところで、神の愛に無条件に応えると、自由を失うことになりはしないかと心配する人もいるでしょう。

 この祈りのひとときを見守ってくださっている主の助けと光のおかげで、いま黙想中のテーマが一層明らかに理解できればと思います。主キリストに仕えるのなら、苦痛と疲れを避けることができないことは、経験によってすでに知っています。このような事実を否定する人は、まだ神と出会っていない人でしょう。愛に溢れた人なら、たとえ苦しみに襲われても、その苦しみは永続するものではなく、荷も軽く快いものであることがすぐに分かるはずです。人間の永遠の幸福がかかっているとき、十字架を抱きしめてくださったように24、主は自ら重荷を担ってくださいます。しかし、これが理解できない人もいます。弱々しく、悲しくもけちな反抗ではあるが、創造主に反旗をひるがえし、詩編に出てくるあの意味のない不満の声を盲目的に繰り返すのです。「彼らの枷を打ち砕き、くびきを投げ捨てよう」25(1972年典礼委員会訳)。反抗を続けたり、毎日の仕事の辛さを見せびらかしたり、不平をこぼしたりするばかりで、黙々と自然な態度ですべてを果たそうとしません。たとえ苦しみと痛みが伴っても神のみ旨を果たすなら、神ご自身と神の計画の中にしか存在しない自由を自分のものにできることが理解できない人々です。

このような人たちは、<自由を通せん坊>しています。間違いなく自由を持ちながら、自由、自由と叫ぶだけで自由を行使せず、浅はかな理解力に頼って泥の偶像をこねあげ、安置して眺める。これが自由と言えるでしょうか。真剣に努力して人生を歩まなければ、たとえ自由という宝を持っていても、宝の持ち腐れというものです。そんなことになれば、人間の品位と尊厳に反してしまいます。この地上でどう歩むかを示す道と確かな道順を知らないからです。皆さんも出会ったことがあるでしよう。このような人々はいずれも、虚栄心や自負心が子供のように強くて、利己主義や快楽に引きずられるままになってしまいます。

 彼らの言う自由とは不毛であることがすぐに暴露されるか、あるいは人間的にみても馬鹿げた実を結ぶほかありません。正しい行動の規範を自ら自由に選ばなければ、遅かれ早かれ、他人の支配下に落ち、寄生虫のように他人任せで、無感覚な人生を送るはめに陥ることでしょう。風のままになびき、いつも他人に事を決めてもらう。このような人たちは、「風に追われて雨を降らさぬ雲、実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木」26。だから、絶えまないお喋りと取繕いで時を過ごし、人格と勇気と誠実さに欠けた状態を覆い隠そうとする。

 誰からも、どのような強制も受けていないと、しつこく繰り返す。しかし、自ら自由に決定を下し、そこから生ずる結果に対して責任をとる勇気も中身もない自由は、あらゆる種類の束縛を受けているのです。神の愛のないところでは、個人の自由を各自が責任をもって行使することなどできません。見かけはどうあれ、すべてのものから強制を受けます。物事をはっきりさせない優柔不断な人は、鋳型のままに形が変わる粘土ですから、誰にでも簡単に、好きなように形を変えられてしまいます。なかでも、原罪の傷を負う本性の情欲と悪への傾きには、簡単に負けてしまうのです。

タラントンの喩え話を思い出してください。一タラントンを受け取った使いは、同僚と同じように、自分の才能を活かして預かったタラントンをうまく活用し、利益を引き出すことができたはずです。何を考えていたのでしょう。タラントンを失っては大変だと心配します。それはそれで悪くはありません。しかし、その後で何をしましたか。タラントンを地に埋めた27ので、なんらの利益を上げることもできませんでした。

 逃げの態度をとってしまい、仕事の能力、知性、意志を使う、つまり全身全霊を込めて事に当たることをしなかったのです。忘れないでおきたい喩えです。あの哀れな男は考えました。「タラントンは埋めよう。これで自分の自由は確保できる」。ところが、そうはいきません。あの召使いの自由は、いかにも貧しくて不毛なものに向かってしまいました。自分で方法を選ぶほかなかったので、確かに選びはしましたが、失敗します。

 自由と献身は両立しないと考えるほど愚かなことはありません。献身は自由の結果として生まれるのです。たとえば、母親が自分の子供たちのために自らを犠牲にするのは、自分で自由に選択したからです。愛の大小に比例して、自由の大小が決まります。愛が大きければ、多くの実を結ぶでしょう。子供たちの善は、献身を意味する幸いな自由と、本物の自由である幸いな献身から生まれるものです。

しかし、やがて、全霊を込めて愛するものを手に入れれば、もうそれ以上は探し求めなくなるのではないか、自由は消えてしまうのではないかと、危惧されるかもしれません。実は、その時こそ、自由は一層自由になったと言えます。本当の愛があれば、習慣的に義務を果たすことで満足することもなければ、不快感を味わうことも、無関心に陥ることもないからです。愛するとは、毎日仕え直すこと、愛情のこもった行いを実行することです。

 皆さん一人ひとりの心に、火と燃える文字で深く刻み込んで欲しいので、重ねて申し上げたい。自由と献身は決して矛盾するものではない、かえって互いに助け合うものであると。愛があってこそ、自由を捧げることができます。愛がなければ、自由を捧げることはできないのです。当たらずとも遠からず式に言葉を弄んでいるわけではありません。自ら進んで献身するなら、、献身は自由の結果ですから、一つひとつのの献身の行為が愛を新たにすることになります。そして、献身を新たにするとは、若さと寛大さを失わず、大きな理想をもち続けて、大きな犠牲を払う力を維持することです。ポルトガル語で若者のことを<新しい人たち>と呼ぶと知ったとき、たいそう嬉しかったことを覚えています。若者とは実に<新しい人>のことです。このような話をするのは、私自身もうかなりの歳ですが、「わたしの若さを喜びで満たす神」28に向かって祭壇のもとで祈るとき、本当に若々しい力を感じるからです。自分が年寄りだと思ったことはありません。忠実に神に留まるなら、神の愛は私を絶えず生き生きとさせ、鷲のような若さを保たせてくださいます29。

 自由を愛するがゆえに我が身を縛る。高慢になったときのみ、このような状態を鎖のように重たく感じるようになります。心の柔和で謙遜なキリストは、真実の謙遜についてお教えになりましたが、本当に謙遜であれば、主のくびきは快くその荷は軽い30こと、またそのくびきこそ自由であり、愛、一致であり、生命であること、くびきこそ主が十字架上で勝ち得てくださった宝であることが理解できるはずです。

良心の自由

長年の司祭生活を通じて私は、個人の自由への愛を、説くというより、むしろ大声で叫んできました。そういうとき、自由を擁護すると、信仰に害を与えるかのように、人々の顔に不信の色が浮かぶのに気づきました。このような臆病な態度が消え去るように願ってやみません。信仰に害を加えるのは、誤って解釈された自由、目的も客観的規準も原理も責任ももたない自由、一言でいうなら、わがままだけです。不幸にもある人々が守ろうとしているのは放縦、つまりわがままです。そのような意味での自由を回復することこそ、信仰を傷つけると言わなければなりません。

 というわけで、神を拒否することが道徳的に善であるというに等しい、誤れる<良心の自由>について話すことは正しくありません。主の救いの計画には反抗することもできると言いましたが、たとえできるとしても、そのようなことはすべきではありません。万一誰かが故意にこのような態度をとるなら、「あなたの神である主を、全力を尽くして愛しなさい」31という、最も根本的な第一の掟に反する罪を犯すことになります。

 私はもうひとつの「良心(複数)の自由」32を擁護します。人々の神礼拝を阻むものは、なんぴとに対しても、それは違法であると全力を挙げて教えます。真理を求める正当な心を尊重しなければなりません。人間は、主を探し求め、主を知り、主を礼拝するという重大な義務を負っています。しかし、この地上ではいかなる人も信仰の実践を隣人から強制されるべきではありません。同じように誰も、神を信じる人に害を加える権利はありません。

母なる教会は、常に自由を守るために発言してきましたし、時代を問わずあらゆる種類の宿命論を排斥してきました。目的の善悪にかかわらず、人それぞれが自分の運命を決定すべきであると、教会は常に教えてきたのです。「善から遠ざからない者は永遠の生命に至り、悪を犯すものは永遠の火に入るであろう」33。人間の高貴さのしるしでもあり、誰もが有するこの驚くべき能力には、いつになっても圧倒される思いがします。「罪は全く意志による悪であって、意志的でなければ、いかなる仕方によっても罪は生じないのである。このことは充分以上に明らかであって、賢者も無学な者も、これに反対はしない」34。

 わが主、わが神に向かって、再び感謝の意を表したいと思います。罪を犯しえない私たちを造り、有無を言わさず善に向かわせることもできたのに、そうはせず、「自由に仕える召使いの方が良いと判断された」35からです。御父の愛と慈しみの深さには、感嘆するほかありません。ご自分の子供たちへの想像を絶するほど大きな神の愛を前にして、父である神、子である神、聖霊である神を称え続けるために、幾千幾万もの口と心をもちたいと思います。摂理によって宇宙を統治される全能の御方は、強制されて動く奴隷ではなく、自由な子供をお望みになりました。私たちは人祖の堕罪により罪への傾きをもって生まれますが、神は一人ひとりの魂の中にご自分の無限の知性の閃きと、善に心惹かれ、永続する平和を切なく恋焦がれる能力とを、注ぎ入れてくださいました。そのおかげで、真理と幸福と自由を得るのは、心の中で永遠の生命が芽を出すように努力するときであることが分かるのです。

神に「否」と答えて、新たな幸福のもとを決定的に拒む。人間にはこんな力が与えられました。しかし、そのような力を使うと、神の子であることを止め、奴隷になりさがってしまいます。「ものはそれぞれ、自己が従うべき本性に合わないものを求めて動くとき、自己に固有の存在様式にではなく、外部からの刺激によって行動していることになる。これは隷属を意味する。人は本性において理性的存在である。人間は理性に従って行動するとき、人間独自の振舞いをすると言える。これは自由を有する人間に固有な働き方である。罪を犯すとき、人間は理性に反して行動しているのであって、そのときには、敵の領地に引きずりこまれ、他からの刺激に従って働くことになる。それゆえ、罪を受け入れる者は、罪の奴隷である (ヨハネ8・34)」36。

 何度も繰り返すことをお許しください。歴然とした事実であり、自他の経験に照らして見ればすぐ確認できます。すなわち、何ものにも隷属していない人はいない、ということ。ある者は富の前に平伏し、ある者は権力を崇める。ある者は懐疑主義という見せかけの平穏に、またある者は官能の快楽に宝を求める。同じようなことは、もっと貴いことにおいても起こります。仕事に、まずまずの規模の事業に、学問、芸術、文学、あるいは宗教関係の仕事遂行に一所懸命に力を注ぎます。努力を傾けるなら、真の情熱をもっているなら、自らが没頭するものの奴隷のようになり、自らの仕事のために進んで身を粉にして働きます。

知ってか知らずか、何かに隷属するのが人間の定めです。色々な隷属状態を秤にかけてみると、隷属するのであれば、愛ゆえに神の奴隷になるほど素晴らしいことはありません。その瞬間に隷属状態から免れ、神の友、神の子になることができるからです。違いはこの辺にあらわれます。まっとうな仕事に対しては周囲の人と同じ情熱、同じ熱意を注いで対処しますが、魂の奥底にある平和を失うことはありません。逆境に陥っても、喜びと落ち着きをもって事に当たり、過ぎゆくものにではなく、永遠に残るものに信を置きます。「わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子である」37からです。

 この自由はどこから来るのでしょうか。私たちの主キリストから来ます。主は私たちを自由によって贖ってくださいましたが、その同じ自由が与えられたのです38。ですから神は、「子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」39と仰せになったのです。キリスト信者はこの自由という恵みの真の意味について誰にも教えを乞う必要はありません。人を救うことのできる唯一の自由は、キリストに由来するからです。

 私は好んで自由という冒険について話します。私たちの一生は正に自由の織りなす冒険です。重ねて申しますが、奴隷ではなく、自由な子として、主のお示しになった道を歩みます。自由で軽快な歩みを神の賜物として味わうのです。

 誰の強制も受けず、自由に、自ら望むという理由だけで、私は神を選ぶことに決めました。わが主キリストを愛するがゆえに、私の一生を奉仕、つまり、隣人に仕える生活にする決心をします。このような自由をもつからこそ、勇気を出して、この世では何ものもキリストの愛から私を離せない40、と叫ぶことができるのです。

神に対する責任

「主が初めに人間を造られたとき、自分で判断する力をお与えになった(シラ書15・14)。人間に自由選択の力がなかったとしたら、このことはありえなかったであろう」41。私たちは、自由に行う行為すべてについて、神の前で責任を負わねばなりません。匿名は認められないのです。人は主の前に立っており、神の友として生きるか敵として生きるかの決定は、自分の意志ひとつで決まるからです。こうして心の戦いが始まります。そして、その戦いは一生の続きます。この世での歩みを続けている間は、完全な自由を得る人はいないからです。

 さらに、キリスト教の信仰があれば、信仰を提示するときに、あらゆる種類のごまかしと強制を避けると同時に、すべての人々の自由を保証することができます。「もしキリストのもとに引きずられて行くなら、いやいやながら信じることになる。そのとき用いられるのは自由ではなく暴力である。望まなくても、人は教会の一員になることができ、祭壇に近づくこともできる。欲せずとも、秘跡にあずかることさえできるだろう。しかし、信じることができるのは、自ら望むものだけである」42。分別のつく年齢に達した人が教会の一員になるためには、また、主の絶え間ない呼びかけに応えるには、自由に決意すべきであることは明らかです。

宴会に招かれた人たちの喩えの中で、晩餐に出席すべき人々の幾人かは、理由にならない理由をあげて招待を断りました。すると家長は召使いに命令します。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来なさい」43。これは強制ではないでしょうか。各々が有する良心の正当な自由を無視して、暴力を用いるに等しいと言うべきではないでしょうか。

 福音書をよく読み、イエスの教えを深く黙想してみると、家長の命令は決して強制ではないことが分かるでしょう。キリストが、いつも、どのような方法で勧めをお与えになるかをごらんなさい。「もしあなたが完全になりたいなら…」、「もし私の跡に従いたいと思うなら…」、仰せになります。この章句の「無理にでも連れて来なさい」という命令は、物理的強制でも精神的強制でもありません。信者の強い模範の力を示すところです。キリスト者の行いのうちに神の力が働くことを示しているのです。「御父がどのように人を引きつけられるかを見よ。無理に引き寄せるのではなく、喜んで教えることによって、人をお引き寄せになるのだ」44。

 このように自由な雰囲気のなかで呼吸するなら、悪を行うことは、解放ではなく、隷属であることが明らかになります。「神に対して罪を犯すものは、強制からの自由という意味では自由意志を持ち続けるが、罪からの自由という点ではそれを失う」45。自分の好みに従って行動したのだ、言えるかもしれませんが、真の自由を享受するには至らないでしょう。神不在、つまり最悪のものを選んだわけで、自由になるどころか、最悪なものの奴隷になり下がったわけですから。

重ねて申し上げます。神の愛への隷属以外の隷属を受け入れることはできません。他の機会に説明したように、宗教とは、獣のような生き方には甘んじたくないという人間、創造主と交わり、主を知るまでは満足できず、良心の安らぎを覚えることもない人間の、最大の反抗であるからです。あらゆる束縛から解き放たれた反乱分子になって欲しいのです。キリストがそうお望みですが、私も皆さんには神の子であって欲しいのです。奴隷になるか、神の子になるか―これこそ人間のジレンマです。神の子になるか、さもなければ、多くの霊魂が陥る高慢と官能と虚しい利己主義の奴隷となるか。ほかに道はありません。

 愛である神が真理と正義と善の道を示してくださいます。主に向かって、「私の自由はあなたのために」と応える決心をするなら、卑小なことや馬鹿げた心配事やけちな野心に自分を縛りつけていた鎖がことごとく外れます。そして、測り知れない値打ちのある宝、豚に投げ与えるにはあまりにも高価で素晴らしい真珠46に等しい自由を、余すところなく、善の実行のために使うことができるのです47。これこそ、神の子らの光栄ある自由です。神の言葉に耳を貸さない者の放縦を前にして、万一、キリスト信者が影響を受けてびくびくしたり、妬みにかられたりするなら、それこそ、信仰についてみすぼらしい考えしかもっていないことを自ら暴露することになります。本当にキリストの掟を守るなら、というより、いつも上手くいくとは限りませんから<掟を守る>努力をするなら、人間の尊厳のもっとも完全な意味をあちこち探しまわる必要もなく、凛々しい精神を与えられている自分の姿に気づくことでしょう。

 私たちの信仰は重荷でも制限でもありません。そう考えるようなら、キリスト教の真理について実に貧しい考えしかもっていない証拠です。神を選ぶ決心をすると、何一つ失うことなく、すべてを得ることができます。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」48。

 私たちは一等賞・切り札を引き当てたのです。このことがはっきりと分からないときには、何かが邪魔をしているわけですから、心の内を糾明してみましょう。おそらく、信仰が薄く、神との個人的な付き合いや祈りが足りない毎日を送っているからでしょう。主の御母であり私たちの母である聖母の執り成しを通して、私たちの愛を増してくださるよう、また、主の現存がもたらす甘美さを味わうことのできるよう、主にお願いしましょう。愛するときのみ、最も完璧な自由を享受することができます。私たちの愛の対象を、永遠に見失わず、決して捨てないための自由を得ることができるのです。

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