神の母、私たちの母

1964年10月11日 神の母マリアの祝日


私たちの貴婦人>の祝日はたくさんありますが、いずれも大祝日と言えます。聖マリアを愛する心を行いで示すために、教会が提供する機会ですから。ところで、どうしても祝日のうちから一つを選ばなければならないとすれば、私は「神の母」の祝日を選びます。

本日の祝日は、私たちの信仰の中心となる秘義を思い出させてくれます。聖三位一体の三つのペルソナの御働きである<みことば>の受肉を黙想せよと勧めているのです。汚れない胎内に主を宿す御父の娘は、聖霊の花嫁、神の御子の母であります。

聖母は、創造主の計画に自ら二つ返事で答えましたが、そのとたんに、<みことば>は、聖マリアのいとも清い胎内で形成された肉体と理性的魂、つまり人間性をおとりになり、その結果、神性と人性が唯一のペルソナのもとに結ばれました。真の神イエス・キリストはそのときから真の人間になり、御父の永遠の独り子はその瞬間、本当にマリアの子になられたのです。こうして私たちの貴婦人は、神性と混同することなく人間性を有する三位一体の第二のペルソナ、つまり受肉された<みことば>の母となられました。そこで私たちは、尊厳を表す言葉、「神の母」を聖母に対する最高の賛辞として、声高らかに歌うことができるのです。

キリストの民の信仰

いつの時代にも、これこそ確実な信仰でした。この信仰を否定する者に対し、エフェソの公会議は次のように宣言しています。「なんぴとかが以下のことを告白しないならば、その者は破門される。すなわち、エンマヌエルは真の神である。それゆえ聖マリアは神の母である。なぜなら受肉された神の<みことば>を人間としてお生みになったから」1。

史実によれば、この明白で疑う余地のない決定を聞いたとき、皆が信じていた事柄を再確認したに過ぎないにもかかわらず、信者は喜びに湧きかえりました。「エフェソの町全体は早朝から夜まで公会議の結果を今か今かと待ちわびていた。冒涜の張本人が罷免されたと知ると、全市民は声をひとつにして神を賛美し、公会議を称え始めた。信仰の敵が倒されたからである。教会を出るやいなや、松明をかかげた群衆が我々を取り囲み家まで送ってくれた。すでに夜であったが、喜びに溢れた町全体は明々と照らし出されていた」2。聖キリルスはこう書いています。十六世紀を隔てた今も、あの人々の敬虔な振舞いに深く心を打たれずにはいられません。

これと同じ信仰が私たちの心にも燃え上がり、感謝の歌が心からほとばしり出るのを、主なる神はお望みです。三位一体の神は、私たちと同じ人間キリストの母としてマリアをお選びになったそのときに、私たち一人ひとりを御母のマントの庇護の下に置いてくださったからです。

聖母をかざる完全性と特権のもとはいずれも、神の母としての特権です。この称号のゆえにマリアは、無原罪で生まれ、恩寵に満たされ、常に処女性を保ち、肉体と霊魂ともども天にあげられ、天使と諸聖人にまさる全被造物の女王として戴冠されました。聖母に勝るはただ神のみです。「神の母であるがために、聖母はある意味において無限の尊厳と無限の善、つまり神を所有される」3と言われますが、誇張する危険はありません。このえも言われぬ秘義を悟り尽くすことは決してできないでしょうし、三位一体の神と、これほど親しく交わることができるようにしてくださった御母に、充分に感謝することさえできないでしょう。

私たちはかつて罪人であり、神の敵でありましたが、キリストの贖いのおかげで、罪から解放されただけでなく、主と和解することもできました。私たちは子にしていただいた上に、<みことば>に人性を与えた御方を母とすることさえできたのです。これ以上の愛、溢れんばかりの愛を注ぐことができるでしょうか。人間の救いを切に望む神は、無限の知恵であらせられ、み旨を実現する方法はいくらでも持っておられた。しかし、そのうちの一つを選び、人間の救いと栄光について疑う余地のないようにしてくださいました。「最初のアダムが男と女から生まれず土から造られたごとく、アダムの罪の傷を癒すべき第二のアダムは処女の胎内において形造られた肉体をおとりになった。それは、体に関する限り、罪を犯した者たちと同じになるためであった」4。

甘美な愛の御母

「わたしはぶどうの木のように美しく若枝を出し、花は栄光と富の実を結ぶ」5という聖書の言葉を聴いたばかりです。聖母信心の放つ甘美な香りがキリスト信者すべての魂を満たし、絶えず見守っていてくださる御方を、より一層深く信頼することができますように。

「わたしは美しい愛と畏れとの母、また知識と清らかな希望の母である」6。これが本日、聖マリアのお与えになる教えです。清い愛と清浄な生活、敏感で熱烈な心についての教えで、どうすれば忠実に教会に仕えられるかを教わることができます。ただの愛ではない、唯一の愛。この愛のあるところ、裏切りなく、打算なく、忘却もない。完全な美、無限の善、偉大さそのもの、三重に聖である神だけを始まりとし目的とする、甘美な愛ですから。

ところで、畏れにも触れています。私には神の愛から離れ去る恐れ以外の恐れは想像できません。意気地なしや小胆、中途半端な献身などは、主なる神のお望みではない。勇敢で精気に溢れ、細やかな心を備えた私たちを必要としておられます。聖書の言う畏れについて考えると、聖書の別の嘆きを思い出します。「夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても、求めても、見つかりません」7。

神を愛するとはどういうことかを本当に理解していないと、こういうことが起こりうる。そんな時、心は引きずられるままに主から離れ、ついには主を見失う。ある時、お隠れになるのは主かもしれない。しかし、主は、訳あってそうなさる。私たちが必死になって主を捜し求め、主を見つけたとき、歓喜の叫びを上げるためです。「恋い慕う人が見つかりました。つかまえました、もう離しません」8と。

ミサの福音朗読は、神殿で教えるためにエルサレムにお残りになったイエスのあの感動的な話を伝えています。「マリアとヨセフは(…)一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した」9。自分が過失を犯したわけではないのに、聖母は御子を見失った。必死になって御子を捜し求め、見つかると、この上ない喜びを経験された。私たちが不注意や罪のためにキリストをはっきり見分けられないとき、歩いた道を引き返し、改めるべきところを改めるための力を、聖母はお与えになるでしょう。そうして、再び主を腕に抱き、喜びにむせびつつ、もう二度とあなたを見失うことはありません、申し上げるのです。

マリアは知恵の母。聖母の助けがあれば最も大切なことを学ぶことができる。主のお傍にいないなら、何をする値うちもない。万一、心に生き生きとした愛の焔が燃え上がらず、真の祖国での終わりない愛の前金である聖なる希望の徳の光が照り輝かないなら、大きな野心も、この世ではいかに素晴らしいことも、全く役に立たないことを学びとることができるのです。

「わたしのうちに、教えと真理の恩寵、生命と力のあらゆる希望を見出すだろう」10。教会は賢明にもこの言葉を聖母の口にのせました。キリスト者がこの教えを決して忘れないようにという思いからです。聖母のもとにいれば安全です。御母は決してお見捨てにならない愛、いつでも入れる避難所、常に愛撫し慰めてくださる御方ですから。

初代教父の一人11は、神の母の生涯を順序よくまとめ、心と知恵に畳み込んでおくよう勧めています。皆さんは医学や数学など授業のメモをとり、何度となくそれらに目を通した経験があるでしょう。そのようなメモには、急ぐときの解決法や失敗を避ける方法が書きこんでありました。

私たちも聖母について耳に挟んだことすべてを、何度も念祷で、心静かに、じっくりと黙想したいものです。聖母のご生涯の要約が、徐々にではあっても心の中で澱のように溜まっていくはずです。そうしておけば、特に打つ手のなくなったときにも、まっすぐに聖母のもとに馳せ寄るときに役立つことでしょう。このような態度は身勝手ではないだろうか。確かに。けれども、子供たちが普段はあまり注意を向けないくせに、本当に窮したときにだけ助けを求めるからといって、母親たちは知らぬ顔をしたりするでしょうか。母親というものは、そのことを充分承知しているので、決して苦にしないものです。苦にしないからこそ母親と言えるのではないでしょうか。没我的な愛があればこそ、私たちの自己中心の態度の中にも、子としての愛、確かな信頼の心を感じとってくれるのです。

私自身にもあなたがたにも、聖母信心を切羽詰まった時のみに限れというつもりはさらさらない。しかしながら、万一そうなってしまったとしても、決して恥ずべきことではないと思うのです。母親が子供の愛情表現を事細かに勘定するようなことはありません。けちけちした尺度をふりまわして、愛情の重さや長さを測るようなことはしない。ちょっとした愛の仕草も母親にとっては蜜のように甘く、受けたものを何倍にもして返してやろうとするものです。世の母親でさえこうであるなら、聖母マリアに期待しすぎることは決してないでしょう。

教会の

この世で主は、生涯の大半を聖母と共に過ごされましたが、聖母が、幼い主の世話を焼き、口づけし、あやす様子が目に浮かびます。その歳月に思いを巡らすと、この世での父ヨセフと聖母の愛に満ちた視線を受けてすくすくと成長して行く少年イエス。この上なく優しく細やかな愛の心で幼いイエスの世話をしながら、お二人は沈黙のうちに次々と多くを学びとったことでしょう。両親の魂は、人であり神である御子の魂とひとつになっていく。それゆえ、聖母、その次には聖ヨセフが他の誰にもましてキリストの聖心をご存じだったに違いない。お二人こそ、救い主のもとへ行くための最もよい道、ひいては唯一の道と言っても差しつかえないと思うのです。

聖アンブロジウスはこう書いています。「あなたたち一人ひとりには、マリアの心で主を称えてもらいたい。各々がマリアの精神で主において楽しむように」。この教父はさらに、一見したところ大胆な表現ですが、実はキリスト信者の生活にとって、明らかに霊的意味を含む考えを付け加えています。「人間的に言うならば、キリストの御母はお一人のみ、信仰によれば、キリストは我々全員の実りである」12と。

マリアと心をひとつにし、聖母の数々の徳を真似るなら、恩寵によって、大勢の人々の魂にキリストを生まれさせ、聖霊の働きのもとにキリストとひとつになるための手助けができるでしょう。マリアを真似るなら、なんらかの仕方で聖母の霊的な母性にあずかることができます。<我らの貴婦人>のように、口数も少なく目立たずに、信者としての首尾一貫した生き方を示し、私たちと神との間だけの合言葉「なれかし」を、間断なく心の底から繰り返すのです。

聖母への熱烈な愛はあるが、充分な神学の知識の不足している善良な信者さんが私に話してくれたことを披露しましょう。その純朴な心を考えれば、充分に教育を受けていない人ならそう考えて当然と思われます。

こんな風に言っていたのです。まあ、愚痴と思って聞いてください。近頃起こったことを二、三考えるにつけ感じる私の悲しみを察して欲しい。今回の公会議準備中と開始後も、聖母を<議題>の一つに数えることが提案されました。<議題>ですよ。子供が母親についてこんな口の利き方をするでしょうか。これが、信者が常に告白してきた信仰なのでしょうか。いったい、いつから聖母への愛が<議題>になって、その是非を云々することが許されるようになったのでしょう。

その人の話は続きます。愛と相容れないものがあるとすれば、それはけちな心です。はっきり言わせてもらいます。でないと、聖母を侮辱することになると思うのです。聖マリアを教会の母と呼ぶことは適当かどうかについて議論されたのですよ。あまり細かなことに触れたくはありませんが、神の母、それゆえすべての信者の母である御方が、洗礼を受けてマリアの御子キリストのうちに生まれかわった人々の集い、つまり、教会の母でないなんてことがありますか。

話はまだ終わりません。神の母という称号で聖母を賛美するのを渋るような心がいったいどこから出てくるのか、私には分からない。教会の信仰からずいぶんとかけ離れていることは確かでしょう。聖母を <議題>にするなんて。自分の母への愛を<議題>として扱うなどもってのほかです。子供は母を愛する、それで充分じゃないですか。よい子供なら<多く>愛する。<議題>や<案>というものは、無情で冷やかに研究する第三者の口にする言葉です。以上の打ち明け話は、純真素朴で信仰の篤い人の悪気のない敬虔な愚痴ですが、そこまで言えば、言いすぎになるでしょう。

無言の祈りのうちに「神の母」マリアの秘義を黙想しましょう。そして、「処女である神の母よ、天の国を超える御者が人となるために、あなたの胎内に宿り給うた」13と心の奥から繰り返すのです。

本日の典礼の祈りに耳を傾けてください。「永遠の御父の御子を宿した、処女マリアの胎は幸いである」14。これは、古く新しい、人間的かつ神的な叫び、この叫びには、ある地方で今も使われている褒め言葉と同じ意味があります。「あなたをお生みになった御母は祝せられますように」。

信仰・希望・愛の

「教会に信者が生まれるよう、聖母は愛をもってキリストに協力したが、教会メンバーの頭であるキリストは、肉体的にはマリアを母としている」15。マリアは母として、静かに教えてくださる。聖母が言葉よりも行いで教えてくださることを理解できない人は、優しく細やかな心をもっていないのでしょう。

信仰の先生であるマリア。「信じた方は、なんと幸い」16。聖母が山道を辿って訪問したとき、従姉のエリザベトはこう叫びました。実に聖母マリアの信仰は驚嘆すべきもの。「わたしは主のしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」17。御子の降誕に際して、地上における神の偉大さを黙想する。天使は合唱し、地上の権力者も羊飼いも御子を礼拝に来る。聖家族は、ヘロデの殺意から逃れるためにエジプトヘ逃げなければならなくなる。それからあとは、沈黙。そして、ガリラヤの寒村での三十年にわたる慎ましく平凡な家族生活が続くのです。

福音書を見ると、どうすれば聖母マリアの模範を理解できるのか、その方法を手短に学びとることができます。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」18。努めて聖母を真似ようではありませんか。主との愛に満ちた語らいにおいて、些細なことであっても私たちに起こることはことごとくお話しするのです。神のみ旨を見つけるため、信仰の目で日常の出来事を眺めて、評価する必要のあることを忘れてはなりません。

万一、信仰が弱まったときには、聖母マリアに助けを願いましょう。聖ヨハネが語るように、カナの婚宴でキリストが御母の願いに応えて行われた奇跡を見て、「弟子たちはイエスを信じ」19ました。御母が絶えず仲介の労をとってくださるので、主は私たちを助け、ご自身をお示しになる。そして、私たちは、「あなたは神の子です」と告白できるようになるのです。

希望の先生マリア。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」20。マリアはこう叫んでいます。人間的にみて、聖母はいったい何を支えに希望したのか。当時の人々にとって、マリアはいったい何者だったのだろう。ユディト、エステル、デボラなど旧約の女傑たちは、この世で誉れを受け、人々の歓喜に迎えられました。マリアの玉座は、御子と同じく十字架。そののち肉体と霊魂ともに天にあげられるまで、沈黙の生活はお続く。マリアのこの目立たぬ生き方には驚くほかはありません。聖母をよく知っていた聖ルカは、初代の弟子たちと共に祈る聖母の姿を伝えています。人々が永遠に褒め称える聖母の生涯は祈りのうちに閉じられました。

聖母マリアの希望と私たちの気短さとは何と対照的なことでしょう。私たちはしばしば、自分のやり遂げたわずかな善業に対し、すぐに支払いを要求する。困難に見舞われるやいなや、不平が口をついて出る。努力を続け、希望を保つことができないことも実に度々です。信仰が足りないからです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」21。主の言われたことは必ず実現するのです。

愛の先生マリア。神殿でイエスを奉献する場面を思い出してください。長老シメオンは、「母親のマリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―』」22。人々に対するマリアの愛は実に深く、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」23というキリストの教えは、人々に深い愛を注ぐマリアにおいて実現しました。

歴代の教皇が、マリアを贖いの協力者と呼んだのは、もっともなことです。「苦痛に引きさかれ、死に瀕する御子の傍らで、マリアは死なんばかりに苦しんだ。そして、母が子に関して持つすべての権利を、人類の救いのために放棄し、神の正義をなだめるために自分に属するすべてのものを差し出した。それゆえ、聖母はキリストと共に人類を贖ったと、充分な根拠をもって断言できる」24。このように考えると、主の受難のあの瞬間が、さらに深く理解できるのではないでしょうか。「イエスの十字架の傍らには、その(…)が立っていた」25。もちろん、この場面を充分と言えるまで黙想するのは至難のわざでしょうが…。

息子たちが栄誉を勝ち取り人々の尊敬を浴びるとき、当然ながら大急ぎで子供の傍に立つ母親は大勢います。逆に、そのような機会が訪れても、子を愛する心は人一倍とは言え、沈黙して人前に姿を現さない母親も少しはいます。聖母がそうでした。イエスはそれをよくご存じだったのです。

ところが今、十字架の犠牲の躓きのさなか、聖母マリアはそこに留まり、「通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしる」のを悲しみの心で耳にする。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」26。聖母は御子の言葉を聞き、御子の苦しみを自分の苦しみとする。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」27。マリアに何ができたというのでしょう。贖い主である御子の愛に一致して、汚れのないみ心は鋭い刃で突き刺される。マリアは筆舌に尽くしがたい苦痛を、御父に捧げるほかはなかったのです。

愛の心でひっそりと傍らに佇むマリアを見て、イエスは再び慰めを感じる。マリアは大声を上げたり、気ぜわしく動き回ったりしない。御子の傍らに「立っておられる」。イエスは聖母に目を遣り、ついでヨハネに目を向ける。そして、「見なさい。あなたの母です」28と言われた。ヨハネを代表として全人類を、とりわけ主を信じるはずであった弟子たちを、御母に委ねたのです。

「幸いなる罪」29と教会は歌います。あの罪のおかげで、これほど偉大な贖い主を得ることができたからです。私たちも、幸いなる罪よ、繰り返しましょう。マリアを母として受けることができました。もう私たちが不安に心を乱される恐れはないのです。天と地の女王として冠をいただく聖母は、神のみ前で全能の嘆願者です。イエスはマリアの願いを拒みません。ところで、私たちは聖母の子ですから、私たちの願いを拒むこともできないのです。

私たちの

子供は、幼ければ幼いほど、親孝行の義務を忘れても、両親には何かしてもらうようねだるものです。私たちは貪欲な子供です。しかし、すでにお分かりのように、欲張りの私たちを見ても、母親なら何とも思わない。愛情いっぱいの母の心は、深い愛で子供を愛するからです。見返りを求めず無私の心で愛を注ぐのです。

聖母マリアも同じです。神の母である聖母の祝日ですから、本日は平生よりも一層深い良心の糾明に努めなければなりません。この素晴らしい御母に心細やかな愛を充分に示していないことに気づいたら、痛悔の心を起こす必要があります。私もそうしますから、皆さんも答えてみてください。聖母を称えているでしょうか。

日常の経験、この世の母親との接し方に戻りましょう。母親はお腹を痛めた子に何を期待するでしょうか。最大の望みは子供たちを手元に置いておくことでしょう。子供が成長して一緒に暮らせなくなると、子供が送る便りを一日千秋の思いで待ちこがれ、軽い風邪から重大な出来事に至るまで、子供に起こることすべてに一喜一憂します。

よく考えてください。聖母マリアにとって私たちはいつまでたっても幼子です。子供のようになる者のためにみ国30への道を開いてくださるのは聖母です。<私たちの貴婦人>から、一瞬たりとも離れてはなりません。ところで、どのようにして聖母を称えることができるのだろうか。聖母と親しく接し、語り合い、愛を表すほかはない。心の中で聖母の地上での生涯を順に思い巡らし、戦いと成功、失敗についてお話しするのです。

こうして私たちは、教会が絶えず祈ってきた聖母称賛の祈りの意味を発見し、はじめて唱えるかのような気がして驚きます。「アヴェ・マリア」と「お告げの祈り」は、神の御母に対する熱い賛美の言葉にほかなりません。そして、「聖なるロザリオ」。私はこの素晴らしい信心をいつまでもキリスト信者全員に勧めたい。ロザリオの祈りを唱えて、聖マリアの感嘆すべき行いの神秘、つまり、信仰の基本的な秘義を思い出して黙想して欲しいと思います。

聖マリアを賛美するために捧げられた祝日は、典礼暦年中に散りばめられてありますが、数々の聖母崇敬の基礎になるのはなんと言っても「神の母」の祝日です。聖母が神の母であるからこそ、三位一体の神は聖母に溢れんばかりの賜物と恩寵をお与えになりました。万一、聖母崇敬に偏るあまり、神礼拝が疎かになるのではないかと心配する人がいれば、その人はキリストの教えを充分に弁えていないか、聖母への愛が弱いか、いずれかであることを露呈しています。謙遜の模範である聖母は歌っておられる。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、畏れる者に及びます」31。

私たちの貴婦人>の祝日に、愛の出し惜しみなどしないようにしましょう。もっと頻繁に心をあげて必要なものを聖母に願っては、母としての絶え間ない配慮に感謝し、愛する人々のために祈りましょう。私たちが常に子として振舞うなら、毎日が聖母への愛を示す、よい機会となるはずです。本当に愛し合う人々にとって毎日が愛する機会であるように。

ひょっとすると、平凡な毎日、何の変哲もない生活を日々送る人にとっては、私たちの貴婦人のように清らかな人に心を留めるのは大変難しいかもしれません。もう少し考えてみてください。特に精神を集中させる必要がないものも含めて何かしようとするとき、いったい私たちは何を求めているのだろうか。神への愛に動かされ、正しい意向で働くなら、良いもの、清いもの、魂に平和と幸せをもたらすものを求めていることになります。失敗はつきものだというのですか。確かにそうでしょう。しかし、失敗を認めるということは私たちが終わりのない幸せ、深遠で安らか、人間的かつ超自然の幸福を求めている証拠ではありませんか。

この世でこのような幸せを勝ち得た人が一人います。神の<一大傑作>、つまり、私たちの聖母マリアです。聖母は、今も生き、私たちを守っていてくださいます。肉体と霊魂ともに、御父と御子と聖霊の傍らにおられる。パレスチナに生まれ、幼少の頃から主のためにすべてを捧げていたが、大天使ガブリエルのお告げを受け入れて救い主をお産みになり、十字架のもとに立っておられる、あの聖母なのです。

あらゆる理想は聖母において実現しました。しかし、その荘厳さと偉大さに恐れをなして、聖マリアを近寄りがたく遠い存在であるかのように考えるべきではありません。恩寵に満ちた聖母にはありとあらゆる完全性が備わっていますが、母であることにかわりはないのです。神のみ前で力のある聖母は、私たちの望むものをすべて手に入れてくださる。母として何でもかなえてやろうと思っておられる。また母として、私たちの弱さを知り尽くしているがゆえに、励ましを与え、弁護し、道を容易にすることができる。もうどうにもしようがないと思えるときでさえも、ちゃんと解決策を用意してくださるのです。

聖母マリアと本当に親しく交わるようになれば、超自然の徳を増すことができます。一日何度も、短い祈りや射祷を繰り返しましょう。声に出す必要はない。心の祈りにすればよい。このように、燃えるような賛辞をたくさん集め、聖なるロザリオのあとの祈り<聖マリアの連祷>を作りあげたのはキリスト者の信仰心でした。誰でも自由にその数を増やし、聖母に新しい賛辞を捧げることができます。聖なる慎みから敢えて口にしないことも、これらの祈りに託して聖母に打ち明けることができるのです。

この祈りのひとときを終えるに当たって勧めたいことがあります。まだ経験したことがないようなら、ぜひ試してみてください。聖母の愛を自分で体験することです。マリアが母であることを知り、そのことを口にするだけでは充分でないでしょう。マリアはあなたの母で、あなたはマリアの子。あたかもこの世で唯一の子であるかのように、あなたに愛を注いでくださる。マリアの子になりきって聖母に近づきなさい。あなたに起こるすべてをお話しし、敬いと愛を捧げてください。誰もあなたの代わりをすることはできません。あなたほど上手にそれができる人はいないはずですから。

このようにすれば、すぐにキリストの愛がどのようなものであるかが分かるでしょう。父なる神、子なる神、聖霊なる神の、言葉に表すことのできないほど素晴らしい生命にあずかる自分に気がつくのです。

神のみ旨をことごとく果たすための力を引き出し、すべての人に仕えたいという望みに満たされて、しばしば夢にまで見る理想のキリスト者になることができます。愛と正義の行いに精を出し、常に明るく勇気溢れた人、隣人には慈しみ深く、自らには厳格な人になることができるのです。

これこそ正に私たちの信仰の特長です。聖マリアのもとに駆け寄りましょう。聖母はしっかりとした常に変わらぬ歩みで私たちに付き添ってくださることでしょう。

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