すべての人が救われるように

1954年4月16日


一人ひとりに対する主の呼びかけ、つまリ、キリスト信者としての召し出しは、私たちを主との一致に向かわせます。キリストは全人類を救うためにこの世に来られました。このことを忘れてはなりせん。神は「すべての人々が救われる(…)ことを望んでおられます」1。一人ひとりのために御血まで流してくださった2のですから、キリストが関心を持たない人はいません。

この真理に思いを巡らせると、パンを増やす奇跡が行われる前に、主と弟子たちとの間で交わされたあの会話が心に浮かんでくるのではないでしようか。大群衆がイエスのあとについて来た。主は目を上げてフィリポにお尋ねになる、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」3。フィリポは素早く計算して答える。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」4。持ち合わせはほとんどないが、内輪で解決しなければならない。弟子の一人、シモン・ペトロの兄弟アンデレはイエスに告げる。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」5と。

パン種と練り粉

私たちは主に付き従って、その言葉を広めたいと思っています。しかし人間的に考えれば、こんなに大勢の人のために私たちは一体なんの役に立つのかと、疑問が生じても当然です。地上の全人口と比較すれば、たとえ私たちが何百万人いたとしても、比べものになりません。そこで私たちは、自分自身を、人類全体に仕えるために用意された、いつなんどきでも役に立つ小さなパン種であると考えたいと思います。使徒の言葉にあるように、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませ」6、全体を変える。群衆を良き方向へ向かわせるには、私たちが使徒の言う酵母、パン種にならなければならないのです。

パン種は練り粉よりも勝れているのでしょうか。そんなことはないはずです。しかし、練り粉が膨らんで滋味豊かな食物に変わるためにパン種は欠かせません。

質素な主食であるパンの作り方のあらましを、パン種の効果的な働きを考えながら思い出してみましょう。パン焼きは儀式然と進められ、見ただけでも食欲をそそられそうな美味しくて上等なパンが焼きあげられる。

良質の小麦粉、できればいちばん上等な粉を選ぶ。それから、気長で忍耐のいる仕事が続く。練り箱の中で練り粉をつくり、パン種を混ぜ、その後しばらく寝かせる。これはパン種が練り粉を膨らませるために必要な過程です。

その間に、かまどに火を入れ、薪をくべながら、練り粉を火の中で温めると、柔らかくてふっくらとした上質のパンが焼き上がる。たとえ微々たる量ではあってもパン種が入っていなければ、美味しいパンは焼き上がりません。パン種は他の要素に溶けこんで、人目にはつかないけれども効果的な働きをするのです。

先にあげた聖パウロの言葉の霊的な意味を黙想すると、すべての人に仕えるためには働くよりほかないことがお分かりになるでしょう。他人のために働かないなら利己主義と言われても仕方ありません。謙遜に自己の生活を省みれば、信仰の恩寵のほかに様々な能力や才能を主がお与えくださったこともはっきり分かります。文字通り瓜二つという人はいません。父なる神は一人ひとりの人間を別々に造り、それぞれに異なった長所をお与えになりました。私たちは与えられた才能や能力を人々の役に立つよう用いなければなりません。神の賜物を用いて、人々のキリスト発見に役立てなければなりません。

使徒職の熱意が、信者としての身分を飾り立てる装飾品に過ぎないかのように考えるわけにはゆきません。発酵しないパン種は腐ってしまいます。練り粉に生命を与えて自らは姿を消すこともできれば、役立たずの利己主義という記念碑を残して消え失せる恐れもあります。キリストを人々に知らせる努力をしたからとて、キリストに恩を着せることなどできません。「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません」、キリストの命令に従って、「そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」7。

漁の水揚

「見よ、わたしは大勢の漁師を遣わして―主の言葉―、漁師たちが彼らを漁る」8。漁るという大きな仕事はこう明示されています。しばしば世界は海にたとえられますが、真に当を得た喩えでしょう。人生にも、海のように凪と時化、穏やかな時期と荒れ狂った時期とがあります。たびたび人々は、苦い荒海を泳ぎ、嵐のさなかを悲嘆にくれて悲しい歩みを続ける。楽しそうに見え、賑やかな様子であっても、それは愛情や理解に欠けた人生、失望、不愉快を覆い隠すための高笑いにすぎません。人間も魚のように<共食い>するのです。

人々が自ら望んで神の網に入り、互いに愛し合うよう努力するのは、神の子としての義務です。キリスト信者なら、預言者エレミヤの喩えに出る漁夫、あるいは、イエス・キリストが何度もお使いになった喩えのようになるべきです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」9と、主はペトロとアンデレに向かって仰せになりました。

イエスに付き従って、この神の漁に加わりましょう。イエスはゲネサレト湖畔にお立ちになっている。人々は、「神の言葉を聞こうとして」10、主の周りに押し寄せました。今も同じ情景が見られるのではないでしょうか。外面的にはごまかしているものの実は神の言葉を聞きたくて仕方がない。ある人はキリストの教えをとっくの昔に忘れ去り、また、ある人は本人のせいではないにしろキリストの教えを学んだことがなく宗教に偏見を抱いている。しかし、次に申し上げることだけは理解しておいていただきたい。彼らにも、もうこのままではだめだ、ありきたりの説明では物足りない、偽りの預言者の虚偽にはもう満足できない、という時が必ず来るということを。その時には、本人が認めたくなくても、主の教えによって心の空しさを満たしたいと望んでいるはずです。

ルカに語らせましょう。「二そうの舟が岸にあるのをご覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」11。話を終えると、シモンにお命じになります。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」12。船長はキリスト、準備するのもキリストです。キリストがこの世に来られたのは、兄弟である我々が、御父への愛と栄光の道を見つけることのできるよう準備させるためでした。キリスト教の使徒職は人間が考え出したことではありません。私たちはむしろ、信仰不足や自らの弱さによって、使徒職を妨げているのです。

「シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした』と答えた」13。もっともな言葉だと思われます。普通は夜中に漁をしました。ところがその晩に限って、骨折り損だったのです。それなのに、昼間に漁をせよとおっしゃるのですか。しかし、ペトロは信じます、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」14。キリストの命令通りに実行しようと決心します。主のお言葉に信頼して働く約束をしました。すると、何が起こりましたか。「そのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」15。

弟子たちを伴って海に出たとき、イエスはこの漁だけをご覧になっていたのではありません。それゆえ、ペトロが足下に平伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と謙遜に告白すると、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」16とお答えになりました。新たに始める漁においても、神の働きの効果が損なわれることはないでしょう。そして、哀れな存在であるとは言え、使徒たちは神の偉大なわざの道具となるのです。

奇跡は繰り返される

社会での身分に応じて義務を遂行し、自らの聖化を求めて日々戦うならば、主は奇跡を行うにふさわしい道具、しかも必要ならば大きな奇跡の道具にしてくださると、私は保証します。盲人に光を与えることもできるでしょう。生まれつきともいえる盲人の視力が回復して、キリストの目映い光が見えるようになったケースをいくつも挙げる人も出てくることでしょう。ある人は神の子らしく聞いたり話したりできない聾唖者でした。しかし、感覚が浄められると、動物のようにではなく人間らしく聞いたり表現したりできるようになりました。役立つようなことは何もできなかったあの足の不自由な人に、使徒たちは「イエス・キリストの名によって」17歩く力を与えます。また、自らの義務を知っていながら果たそうとしない怠け者もいました。そこでまた、主のみ名において、「立ち上がり、歩きなさい」18と言います。

死臭を放っていた遺骸も神の声を受けました。ナインの寡婦の息子の奇跡のときのように。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」19。キリストや使徒たちが行った奇跡を私たちも行います。ひょっとすれば、あなたや私に対してあのような奇跡が行われたのかも知れません。私たちは盲人や聾唖者、足の悪い者であり、また死臭を漂わせていたかもしれないのです。しかし、主の言葉のおかげで立ち上がることができました。キリストを愛して心から主に従うなら、自分自身を求めず主のみを求めるなら、無償でいただいたものを無償で、キリストの名において、人々に伝えることができるでしょう。

父なる神が子供たちにお委ねになった、救いのわざに参加するという人間的、超自然的可能性について、いつも話して来ました。同じ考えが、教会の教父たちの文献にも見受けられることを、私は非常に喜んでいます。大聖グレゴリオは次のようにはっきりと教えています。「人の心から悪を取り除いて善を勧めるとき、キリスト信者は毒蛇を追い払う。善行を実行しなくなる人を見たとき、模範を示しつつ色々な方法で助けるなら、そのとき信者は、病を癒す按手を授けることになる。このような奇跡は、身体にではなく霊的な面で、つまり霊魂に生命をもたらすとき、一層偉大な奇跡となる。あなたたちも、諦めさえしなければ神の助けによって偉大な奇跡を行うことができるだろう」20。

神はすべての人の救いを望んでおられます。この神の望みは一人ひとりが担うべき責任であり、責任を担えという招きです。教会とは、特に恵まれた人々のためのお城ではありません。「この偉大な教会は、地上の一角しか占めないのだろうか。もはやそうではない。世界全体が偉大な教会である」21。聖アウグスチヌスはこのように述べ、さらに付け加えています。「あなたがどこに行こうとも、そこにキリストがおいでになる。あなたは遺産として地の果てまでも有している。行きなさい、私と共にすべてを所有しなさい」22と。網はどのようになっていたかを憶えていますか。溢れるほどたくさんの魚が入っていました。神はご自身の家がいっぱいになる23ことを切に願っておられます。神は私たちの父ですから、子供たち全員に取り巻かれることをお望みです。

日常生活の使徒職

イエス・キリストの受難と死去の後にあったもう一つの漁に話を移しましょう。ペトロは三度もキリストを否みました。鶏が鳴いたとき、主の警告を思い出して謙遜な痛悔の念にかられて涙を流し、心の底から赦しを願いました。心から痛悔して復活の約束を待つ間に仕事で漁に出かけます。「この漁に関して、ペトロとゼベダイの子らはなぜ主に召される前に就いていた仕事に戻ったのかとよく問われる。わたしに従え、わたしはあなたたちを人を漁るものにしようとイエスが仰せになったとき、実は、彼らは漁師だったのだ。彼らの行動をいぶかる者に対しては、使徒たちの本職は正当で真面目な仕事であったから、禁じられていなかったと答えよう」24。

使徒職とは信者の「内臓を食い尽くす」と言えるほどの切なる願いですから、日常の仕事と切り離して考えることはできません。使徒職は仕事との見分けがつかなくなり、キリストとの個人的な出会いの場ともなります。同僚や友人、親戚の人たちと力を合わせて仕事を続けるならば、湖畔で待つキリストのところに行き着くよう、人々に助けの手を差し伸べることができるでしょう。弟子たちは使徒になる前は漁師、使徒となった後も漁師でした。職業を変える必要はなかったのです。

それでは、何が変わったのでしょうか。ペトロの舟にキリストがお乗りになったように、心の中にキリストがお入りになり、そこで変化が起こりました。心の地平線が広がり、仕えたいという強い望みが芽生え、邪魔さえしなければ神が実現なさる「偉大な業」25を人々に告げ知らせる熱い望みが湧いてきたのです。ここではっきりと申し上げたいことがあります。司祭の専門職とは、超自然的であり、いわば公の職務であるという事実、そしてそれは、必然的に司祭の全活動に及ぶべきであること。従って、司祭職以外の仕事に従事する余裕があるということ自体、たいていの場合は、司祭が司祭の義務を完全に果たしていないと言えるでしょう。

「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」26。

神に自らを捧げた人々、つまり使徒たちの傍をイエスがお通りになっても、彼らは気づきません。何度もキリストは、私たちの傍どころか心の中に来てくださるというのに、私たちがあまりにも人間的な生き方しかしていないとは、なんと残念なことでしょう。

聖ヨハネは記しています。「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスは、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた」27。キリストとの親しい交わりを示すこの場面を見て、私は嬉しくてたまらなくなります。栄光に輝く体を持つ方、神であるイエス・キリストがこう仰せになるのです。「『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ』。そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」28。弟子たちはやっと理解できました。先生から何度も聞いた、「人を漁る者」、「使徒」という言葉が弟子たちの脳裡に浮かんで来ました。漁を指揮するのは主であるから、どのようなことでも可能であることが理解できたのです。

「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに『主だ』と言った」29。遠方からでも主を見分けることができたのは愛のおかげです。優しい心に最初に気づくのは愛の働きです。あの若い使徒は「主だ」と叫びました。いまだ汚れを知らぬ純枠で優しい心は、誰にもまして深く主を愛していたからです。

「シモン・ペトロは、『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」30。ペトロは信仰そのものです。溢れんばかりの勇気に満ちて湖に飛び込みました。ヨハネの愛とペトロの信仰があれば、私たちにできないことはないのではないでしょうか。

人々は神のもの

「ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである」31。直ちに漁った魚を主の足下に置きます。主の魚ですから。ここに、私たちの学ぶべきことが示されています。人間は神のものであるから、この地上では自らの所有に属するなどと主張することはできないのです。また救いを知らせ、救いをもたらす教会の使徒職は、一部の人々の名声に基づくものではなく、神の恩寵に帰すべきなのです。

三度も主を否んだペトロに償う機会を与えるかのように、イエス・キリストは三度ペトロにお尋ねになります。ペトロは賢くなっていました。自己の惨めさを思い知らされ、自らを戒めたのです。自らの弱さを知った今、あのときのように向こう見ずな見栄を切るべきではないと心から納得していました。そして、キリストのみ手にすべてを委ねます。「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」32。キリストはどうお答えになるでしょうか。「わたしの羊の世話をしなさい」33。「あなたの」でも、「あなたたちの」でもなく、「わたしの羊を」と仰せになりました。キリストが人間を創造し、贖い、その御血の代価をもって一人ひとりを買い取ってくださったからです。

五世紀にドナト派が、カトリックの信者を攻撃して、ヒッポの司祭アウグスチヌスはかつて大罪人であったから真理を告白することはできないと主張しました。そこで聖アウグスチヌスは、信仰上の兄弟たちに次の反論を教えました。「アウグスチヌスはカトリック教会の司教であり、神に決算報告を出す責任を負っている。彼が善良な人間であることを私は知っている。もし彼が悪人であれば、彼自身もそれを知っているだろう。しかし、たとえ彼が善良であっても、私が希望をおくのは彼ではないのだ。カトリック教会で私が最初に学んだことは、人間に希望をかけないことであるから」34と。

私たちの>使徒職を果たすのではない。それならばどう言えばいいのか。神がお望みになり、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」35とお命じになったから、私たちは使徒職を果たすのだと。それゆえ、この使徒職はキリストの使徒職であり、失敗は私たちの所為、そして、実りは神のおかげなのです。

神を語る勇気

この使徒職はどのように実行すればよいのでしょうか。第一に模範を示すこと。イエス・キリストがその生涯と教えをもってお示しになったように、御父のみ旨に従って生活することです。真の信仰は言行不一致を許しません。自らの行動を糾明し、自らの信仰がどれほど本物であるかについて吟味する必要があります。口で宣言することを実際に行いに表すよう努力しないなら、首尾一貫した誠実な信者とは言えないでしょう。

今はこの話をするのにちょうどよい機会だと思います。それは初代教会の信者の熱意溢れる素晴らしい使徒職物語です。イエスが天にお昇りになってから四半世紀も経たぬうちに、すでに多くの都市や村落でイエスの名声は高まっていました。「アポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった」36。

アポロの心にはキリストの光が射し込み始めていました。キリストについて聞き知っていたのです。そこで、人々にもそれを伝えます。しかし、もっと深く知り、完全な信仰を得て真に主を愛するには、いま少し欠けるところがありました。たまたま、アキラとプリスキラという信者夫婦がアポロの話しぶりを耳にしますが、そのまま、無関心な態度で放っておきません。この人はかなりよく知っているし、私たちは彼に教えるよう頼まれているわけでもない、などとは考えませんでした。使徒職に対して本当に熱心な二人でしたから、アポロに近づいて、「彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した」37のです。

聖パウロの振舞いも賞賛に値します。キリストの教えを広める努力をしたので囚われの身となりましたが、福音を伝えるためにはどのような機会も無駄にしません。フェストゥスとアグリッパの前で堂々と宣言します。「私は神からの助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです」38。

使徒は沈黙せず、信仰を隠しません。迫害者たちの憎悪を招いたのは自らの宣教であったにもかかわらず、なおも止めずにすべての民の救いを告げ知らせます。そして、驚くほど大胆にアグリッパに対面します。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」39。「アグリッパはパウロに言った。『短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか』。パウロは言った。『短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが』」40。

聖パウロはどこからこのような力を得たのでしょうか。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」41。神が私にこの信仰、この希望、この愛をくださるから、私にはできないことがないのです。主との絶え間ない交わりが、生活の中心とも支えともなっていない使徒職に、超自然の効果があるとはとても信じられません。仕事の最中でも、家庭でも、街にいるときも、日々生じる大小様々な問題を抱えながらも、使徒職は果たすことはできます。自分のいる場所から離れてではなく、そこに留まったまま、ただし、心は神に向けて。そうすれば、私たちの言葉や行い、さらに惨めさまでが「キリストの良い香り」42を放ちます。そして周囲の人々は、ここにキリスト信者がいると気づくのです。

そのようなことに関わるよう、誰が私に命ずるのかと尋ねるような誘惑に襲われれば、これこそキリストご自身の命令というより、むしろキリストのあなたに対する願いであるとお答えします。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」43。私は役に立たないとか、もっと適した人がすでにいるとか、そういう仕事は私の性に合わないなどと身勝手なことを言わないで欲しい。できるのは私だけだと言わねばなりません。あなたができないと言えば、誰もが同じように、できないと言えるではありませんか。キリストはすべての人々に、キリスト者一人ひとりに願っておられます。年齢や健康、仕事などを理由に使徒職を免除されている人などいません。言い逃れの余地はないのです。使徒職の成果をあげるか、それとも、信仰を空しく不毛にするか。

そのうえ、キリストについて話してキリストの教えを広めるために、奇抜で変わったことをする必要はありません。普通の生活、現在の仕事を続け、身分上の義務を果たし、職務を全うすることによって、日毎に自らを高め、日々少しずつ改善していく、これでよいのです。人々には信義を尽くし、理解を示す。しかし、自己に対しては厳しく要求しなさい。犠牲の人、朗らかな人になってください。これがあなたの使徒職です。弱くて惨めな自分のところに人は近寄らないと思っていても、周りの人々は近づいてきます。そして、仕事の帰途や家族の集い、乗り物の中や散歩の合間、その他どのようなところででも、いつもの話し合いがそれとなく生まれ、人々は心に秘めた不安を打ち明けることでしょう。時には、そのような不安に気づきたくないと思う人もいるでしょうが、神との交わりを本当に求めるようになれば次第に理解していくものです。

使徒の元后である聖母に、御子の聖心に鼓動する「種蒔き」と「漁」への望みにあずかる決心をお願いしてください。最初の一歩を踏み出しさえすれば、ガリラヤの漁師たちと同じように、魚でいっぱいの舟と岸辺であなたを待つキリストに出会うことでしょう。魚はキリストのものですから

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