祈りの生活

1955年4月4日


自己を改善し、もっと物惜しみしない心で主に仕えたい。こう望んでキリスト教的な生き方をするために、はっきりとした道標や道案内を求めるとき、聖霊はいつもあの聖書の一節を思い出させてくださいます。「倦まず弛まず祈れ」1。祈りは超自然な仕事全体の基礎であって、祈りがあれば私たちは全能になり、祈りを忘れ去れば無能になってしまいます。

この黙想中にしっかりと心に刻みつけておきたいことがあります。街の雑踏の中で、仕事場で、一日中、弛まず神と語り続け、観想の人となるべきであるということ。主の足跡を忠実に歩んで従いたいのなら、これ以外に道はありません。

そこで、私たち自身を映すべき鏡であり模範であるイエスに目を向けてみましょう。主は大事を為すに当たって、外面的にはどのように行動されたでしょうか。福音書は何を語っているでしょうか。大きな奇跡をなさる前にいつも御父のもとへ馳せ寄るキリストの姿に心打たれます。公生活を始める前、祈るために四十日四十夜砂漠に退かれましたが、そのときの姿を見ると感動せずにはおれません2。

敢えて繰り返します。救い主の足跡を注意深く見つめることは非常に大切です。主が来られたのは、御父のもとへと続く道を示すためであったからです。こうすれば、見たところ無意味な活動に超自然の色彩を与える方法を主と共に求め、各瞬間を永遠とのつながりのうちに生きることを学び、神との親しい語り合いが必要であることをさらに深く理解することができます。主と付き合い、主を呼び求め、主を賛美し、心から感謝の意を表明し、主の言葉に耳を傾ける、あるいは単に主の傍にいるためです。

もう何年も前のことですが、この主の習慣について考えていたとき、どのような種類の使徒職であっても、使徒職とは内的生活の溢れ出である、という結論に達しました。ですから、キリストが最初の十二人をお選びになるとき、どうなさったかを語る聖書の一節は、極めて自然であると同時に、超自然的であると思えるのです。弟子を選ぶ前に「神に祈って夜を明かされた」3とルカは語っています。ベタニアでラザロのために涙をお流しになった主は、ラザロを蘇らせる前に何をなさったのでしょうか。目を天に上げ、叫ばれます。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」4。主の大切な教えです。隣人を助けたいのなら、人生の本当の意味を発見するよう人々を導こうと心から望むなら、祈りを基礎にしなければなりません。

イエスが御父とお話しになる場面は無数にあるので、今それらすべてに目を留めることはできません。しかし、受難と死去に先立つあの非常に密度の濃い数時間、人類を神の愛に引き戻す犠牲を準備するときについては、考えないわけにはゆきますまい。高間での親しい雰囲気の中で、主の聖心から愛が溢れ出ます。御父に向かって嘆願の声をあげ、聖霊の降臨を予告し、愛と信仰の火を保ち続けるよう弟子たちを励まされる。

贖い主の燃えるような祈りはゲッセマニでも続きます。受難が目前に迫っていること、屈辱と苦痛、悪人を吊す十字架の想像を絶する苦しみが近づいていること、これらすべてを予感しておられる。しかも、それらを熱望しておられます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」5。けれども、すぐさま、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」6と仰せになる。その後、永遠の司祭のように両腕を大きく広げて、一人きりで木に釘づけにされながらも、主は御父との会話をお続けになりました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」7。

今度は、主の御母を眺めましょう。私たちの母でもある聖母は、カルワリオの十字架の傍らで祈っておられる。マリアのこの態度はここに始まったことではありません。いつもこのように祈ってこられました。家事に専念し、義務を果たし、この世の雑事に取り囲まれながら、常に思いを神に向けておられたのです。「完全な神であり、完全な人である」8キリストは、私たちが熱心に絶えず神の愛を見つめることのできるように、非常に優れた御方・恩寵に満ちた御母の力を借りることを望んでおられます。お告げの場面を思い出してください。天使が神から受けた使信、すなわち「マリアは神の母になるだろう」という知らせを伝えに来たとき、聖母は引きこもって祈っておられた。「あなたに挨拶します。恩寵にみちた御方、主はあなたと共においでになります」9。聖ガブリエルがこう挨拶したとき、マリアは主のうちに心を潜めておられたのです。数日後、聖母はその心のよろこびを「マリアの賛歌」に吐露します。マリアの賛歌は、細部にわたってすべてを忠実に記す聖ルカを通して、聖霊が伝えてくださいましたが、それを見ると、聖なる処女マリアが絶えず神との親しさを保っていたことが分かります。聖母は、救い主を待ち望んでいた旧約の義人たちの言葉と歴史を、じっくりと深く黙想されました。幾度も恩知らずな態度を示した民に対する、浪費とさえ言えるほどの神の慈しみと奇跡の数々をみて、聖マリアは心打たれていたのです。絶えず示される神の優しさに思いを巡らすとき、聖母の汚れなきみ心は愛でいっぱいになる。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のしためにも、目を留めてくださったからです」10。この善き母の子供である初代の信者は聖マリアから多くを学びました。私たちも多くを学ぶことができます。学ばなければならないのです。

使徒言行録にこの上なく素晴らしいと思われる一節があります。いつでも役に立つ、明らかな模範を示してくれるところです。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」11。これはキリストに従った初代の信者の生活を語るところに必ず出てくる教えです。「心を合わせて熱心に祈っていた」12。ペトロが勇敢に真理を説いたがために捕えられたときも、弟子たちは祈ることに決めます。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」13のです。

今も昔も祈りは唯一の武器、内的生活で勝利を得るための最も強力な武器なのです。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」14。聖パウロは、すべてを要約するかのように、「絶えず祈りなさい」15、決して諦めずに祈れ、言っています。

祈り方

では、どのように祈ればよいのでしょうか。私は迷うことなく、祈り方はたくさんある、いや無限にある、とお答えしましょう。ただ、いずれの方法を選ぶにしても、神の子にふさわしい祈りをしてください。「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない」16。主のこのような叱責をかうような祈り、偽善者によく見られる多言を弄する祈り方はして欲しくありません。実行を伴わない祈り(偽善的な祈り)をする人々にも、祈りのように聞こえる音をたてることはできるでしょう。しかし、聖アウグスチヌスが言うように、彼らの祈りは「生命のこもらぬ祈りですから、祈りまがいの雑音ではあっても、祈りの声にはなっていないのみならず」17、御父のみ旨を果たす熱意にも欠けています。「主よ」と語りかける私たちの祈りが、聖霊の内的霊感を実行せんとする効果的な望みであって欲しいと思います。

自己の内部に偽善の影さえも映さないよう努力すべきです。主が厳しく叱責される二心という悪意を捨て去るためには、常に、しかもその時々に、罪を避ける決意をしなければなりません。心から、きっぱりと、誠実に、大罪を忌み嫌う決心をしなければならないのです。また、たとえ恩寵を奪われないまでも、恩寵の通り道を塞いでしまう罪―小罪だからいいだろうと思って犯してしまう罪―も避けなければなりません。

祈りについて話すのが億劫になったことはなく、これからも神の恩寵の助けを受けて決して面倒に思うことはないと思いますが、とにかく一九三〇年頃からずっと、当時若輩司祭であった私に近づいてきたあらゆる社会層の人々、(もっと神に近づきたいと努力していた)大学生や労働者、健康な人や病気の人、富める人や貧しい人、司祭や信徒の方々に、常に祈りなさい、勧めてきました。祈りを始めるにはどうすればよいのか分からない人には、まず神のみ前にいることを考え、続いて、主よ、どのようにして祈ればよいのか分かりませんと、心にかかる不安や苦しみを、ありのまま主に申し上げるよう勧めたものです。たいていの場合、このような謙遜な打ち明け話のうちから、キリストとの親しさ、キリストとの親しく深い交わりが生まれました。

それから幾歳月もが過ぎましたが、今もこれ以外の処方箋はないと確信しています。祈りの準備ができていないと感じるときには、弟子たちのように主に近づいて申し上げましょう。「祈り方を教えてください」18と。そうすれば、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せない」、つまり、適切な言葉で表現できない「うめきをもって執り成してくださる」19ことがよく理解できるでしょう。神の言葉にすがれば、何と形容してよいか分からないほど強い力を得ることができます。司祭になってこのかた、今述べた勧めを幾度も繰り返してきましたが、これは私が考え出した勧めではなく、聖書に学び、聖書から得た教えです。主よ、どのようにしてあなたに近づけばよいのでしょうか、祈り方を教えてください、とお願いします。すると、聖霊の光と火と激しい風、つまり愛に溢れた助けが与えられ、心に愛の炎が燃え立ってくるのです。

祈りとは語り合い

私たちはすでに祈りの道に入りました。これから先どのようにして続けていけばよいのでしょうか。大勢の男女が満足げに自分自身に耳を傾けて独り言を言うことはご存じでしょう。それは、慰められたい、誉められたいという病的な望みから、自らの心配事を別段解決策を講ずることなく長ったらしく話し続ける独り言、終わりのない無駄話です。それ以上のことは考えないのです。

本心から心の重荷を下ろしたいとき、率直誠実な人なら、愛と理解を示してくれる人の忠告を求めるはずです。父や母、夫や妻、兄弟や友人に話します。このような場合、相手の助言を聞くよりも、自分の心を打ち明け、起こったことを話すほうを好むのが普通ですが、それでも、これは対話です。神が私たちの言葉に耳を傾け、答えてくださることを確信し、神に対してもこのように話したいものです。神のもとに駆け寄り、心を悩ませる事柄すべてを、信頼を込めて謙遜に話すのです。喜びと悲しみ、希望と不快、成功と失敗、日々の出来事の些細な点まで打ち明けます。私たちに関わりあることはすべて、天の御父の関心事であることが分かるでしょう。

祈りは後回しにしてもよいというような考え方や怠け心に気づいたなら、そんな思いはすぐに捨ててしまってください。恵みの泉である祈りを決して遅らせないでください。今こそちょうどよい時です。私たちの一日を優しく見つめる神は、心に秘めた願いを見守ってくださる。繰り返しますが、あなたも私も神に対しては、兄弟や友人、父親に信頼するように、何もかも打ち明けなければなりません。神に申し上げましょう。あなたこそは、偉大さの極み、善そのもの、慈しみそのものです、と。私はそうすることにしています。そして、付け加えます。私はあなたに夢中になりたい。不器用で、地上の難路から舞い上がった埃で汚れて傷ついた惨めな手しかない私ですが、と。

このようにすると、気づかないうちに、超自然的な歩みを力強く元気よく踏み出すことができます。そうなれば、苦しみや自己放棄や悩みも、主の傍らから離れさえしなければ、喜ばしいものであることが分かるでしょう。神の子である私たちは、これほど御父の近くにいることを知るだけで、大きな力を得ることができるのです。それゆえ、何が起ころうとも泰然自若としていることができる。岩であり砦である主、我が父が一緒にいてくださるからです20。

以上はことごとく、ある人にとっては聞き慣れたこと、また他の人にとっては初めて耳にすることかもしれません。いずれの人にとっても困難なことです。しかし私は、命ある限り休みなく説き続けるつもりです、あらゆる時、あらゆる場所において、いつも祈りの人であることが第一に必要であると。神が私たちをお見捨てになるようなことは決してないからです。神と親しくすることについて、進退きわまったときにのみ神の助けを求めるのはキリスト者の態度ではありません。愛する人のことを忘れたり、軽く考えたりするのがまともな人だと思いますか。とんでもないことです。私たちの言葉や望みや思いは絶えず愛する人々に向かい、あたかもいつもその人が傍らにいるかのように感じます。神との付き合いにおいても同じことが起こるのです。

このような方法で主を探し求めれば、私たちの一日は朝から晩まで、神との親密な信頼に満ちた会話に変わる。これについては、幾度となく断言し、また書いてきましたが、ここで再び繰り返したいと思います。昼夜を分かたず絶えず祈り続けることが確実な生き方であることを、主が模範で示してくださいました。万事がうまく行くときは、「我が神よ、感謝いたします」。困難に出遭ったときには、「主よ、私を見捨てないでください」と叫ぶ。そうしている限り、「心の柔和で謙遜な」21神が私たちの祈りを忘れたり、無関心を装ったりなさることはありません。主自らそう断言されたからです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」22と。

自然的な見方を決して失うことなく、出来事の一つひとつの背後に神を見る努力をしましょう。楽しいことがやってきたときも、不快なことに出くわしたときも、また慰めを受けるときや、反対に、愛する人の死による悲しみを前にしたときも。まず何よりも、心の中においでになる神を求め、父なる神と話し合う。これは、無意味でつまらぬことであるどころか、堅実な内的生活、つまり、真の愛の語り合いのあらわれです。精神に悪い影響を与えるはずはありません。キリスト者にとって、祈りとは心臓の鼓動のように自然な活動であるはずです。

口祷と念祷

このような信仰生活の枠の中に、宝石を散りばめたようにあらわれるのが口祷です。それらは、神が好まれる祈り、「天におられる…」、「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方…」、「栄光は父と子と聖霊に…」であり、また、神と聖母への賛辞で編んだあの冠、つまりロザリオの祈り、そして、私たちの兄弟であるキリスト者が昔から唱えてきた、敬虔な心溢れる無数の喜びの叫びです。

「主よ、わたしを憐れんでください。一日たりとも疎かにせず、あなたに一日中叫びました」という詩編八十五の一節を解説して、聖アウグスチヌスは言っています。「一日中とは世の始めから終わりまで間断なくという意である。(…)ただ一人の人間が世の終わりにまで至る。叫ぶのはキリストの体の成員であるから。ある者は、すでに主と共に永遠の休息に憩い、また他の者はいま祈願の声を上げている。我々の死後は、別の者たちが我々のために祈り、その後にまた次の世代が祈りを引き継ぐのである」23と。時間の制限を超えて創造主礼拝に加わることができると考えれば、感動を覚えないわけにはいかないのではないでしょうか。神に愛されている自分を知り、<一日中>、地上を旅する間の各瞬間に主に身を寄せるとき、人間は本当に偉大な存在になります。

思いを神に上げ、神のもとに繁く通うために、毎日必ず特別の時間を当ててください。歌い止まぬ心で歌うわけですから、言葉を口にする必要はありません。この敬虔な「規定」に充分な時間を割きましよう。できるなら時間を決めて、聖櫃の傍で、愛ゆえにそこにお残りになった御方に付き添うのです。それがどうしてもできないときは、場所はどこでもかまいません。神は恩寵の状態にある霊魂の中に、筆舌に尽くしがたい仕方で現存しておられますから。とはいえ、できるときはいつも、聖堂で祈ることをお勧めします。私はチャペルという言葉を使わないようにしています。いうのは、聖堂とは、公の儀式ばった体裁をつくろって鎮座するための場所ではなく、イエス・キリストが、秘跡の外観のもとに隠れて現存なさるところだからです。主が聖櫃から私たちを見つめ、私たちに耳を傾け、私たちを待っていてくださることを確信し、心を潜めて親しく語りかけ、心を天に上げるための場所、それが聖堂であることをはっきりと示すためです。

望みさえすれば、神との語り合いのために、一人ひとりが独自の話題を見つけ出すことができます。決まった方法とか方式について話すのは好きではありません。すべての人に、主に近づきなさいと勧めてきましたが、各々固有な性格をもつ人々の、あるがままの姿を尊重してきたつもりです。私たちの生活に神のご計画を導入してくださるよう、主に頼みなさい。頭の中だけでなく、心の奥に、そして、すべての外的活動の中にも。このようにすれば、利己的な考えからくる不快な思いや苦しみの大部分を免れ、周囲の人々に善を広げるために充分な力を感じることを保証します。神は決して私たちをお見捨てになりませんから、神のすぐ傍にいるなら、幾多の困難も消え去ることでしょう。ご自分の弟子、病人、足の悪い人に向けられた愛が、異なった仕方で再び示されます。イエスはお尋ねになります、「どうしたのか」と。「実は…」と答えはじめるやいなや、光が与えられるか、あるいは少なくとも、現状を受け入れることができ、平和を取り戻すのです。

主との信頼に満ちた語り合いに招くにあたり、特に出合いがちな障害にも触れておきましょう。幸福を邪魔するものの大半は、程度の差こそあれ、隠れた高慢から生まれます。私たちは非凡な資質に恵まれ卓越した人物であると自負する。そして、第三者がそのように評価してくれないと、ひどい侮辱を感じる。その時こそ、方向転換に遅すぎることなどありえないと信じて、意向を改め、祈りに赴くべきときです。もちろん方向転換は早いに越したことはありません。

恩寵の助けを受けつつ祈るならば、高慢を謙遜に変えることができる。そうすると、たとえまだ、私たちの翼に土がこびりついている、惨めさという乾いた泥が付着していると感じても、心のうちに本当の喜びが芽生え始めます。その後で、犠牲を実行してその泥を落とせば、神の慈しみという追い風の後押しを受けて、天高く舞い上がることができるのです。

ごらんなさい。主が私たちに熱望しておられるのは、超自然的であると同時に人間的な素晴らしい歩み方です。このように歩んで行けば、喜んで自己を否定して、つまり苦しみを笑顔で受けとめて、自らを忘れることができるはずです。「わたしについて来たい者は、自分を捨てなさい」24。この教えを知らない人はいないでしょう。きっぱりと主に従う決心をしなければなりません。主が私たちをご自分のために道具としてお使いになることができるように、つまり、世界中のあらゆるところで、神のうちに留まりながら、塩となり、パン種となり、光となるために。こうして、神のうちに身を置くあなたは、周囲を照らし、味を与え、成長させ、発酵させることができるようになります。

しかし、私たちは光ではなく、単に光を反射するだけだということを、決して忘れないでください。人々に善行をさせるために後押しし、彼らの魂を救うのは、実は私たちではありません。私たちは質の良し悪しはあるにしても、神の救いの計画のための道具に過ぎないのです。万一、何らかの機会に、立派なことをしているのは自分だと考えるようなことがあれば、高慢、それも以前よりもさらに性質の悪い高慢にとりつかれているわけですから、やがて、塩は味を失い、酵母は腐り、光は闇に変わってしまうでしょう。

登場人物の一人となって

三十年の司祭生活を通して、祈りの必要性と、生活を神への絶えざる叫びに変えうることを、飽くことなく、執拗に主張してきましたが、時々、「しかし、いつでもそうすることができるのですか」と尋ねられました。実は、できるのです。主とひとつになると言っても、この世から離れたり、世界の潮流から離れて風変わりな人間になったりすることではありません。

神が、私たちを造り、御ひとり子をお渡しになるまで愛し25、贖い、また、喩え話の放蕩息子の父親のように<毎日私たちの立ち返りを待っていてくださる26とすれば、当然、私たちの熱烈な愛をお望みになっていると言えるはずです。神と話をせず、神から離れ、神を忘れ、恩寵の絶え間ない働きかけに対して無神経になるほど、活動に没頭することこそ、おかしなことであるとしか言いようがありません。

さらに、他人の真似をしない人はいないことに注目してください。人間は知らず知らずのうちに互いに真似をし合います。それならば、イエスを真似なさい、という招きを無視することができるでしょうか。誰でも選んだモデルを頭に描き、自分にとって魅力あるそのモデルと同じようになろうと努力する。各々、自分の考え出した理想に従って行動の仕方を決めます。私たちの師はキリスト、神の御子、聖三位一体の第二のペルソナです。従って、キリストを真似る努力を続ければ、あの<愛の流れ>、すなわち三位一体の秘義に参加するという、想像を絶したことが可能になるのです。

時として、イエスのみ跡について行くだけの元気がないこともあるでしょう。そのようなときには、主の在世中に親しく主を知っていた人々と、友のように言葉を交わしなさい。第一に、主を私たちにお与えになった聖母マリア、続いて、使徒たち。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した」27。この一節を読めば元気が出てくるのではありませんか。あの外国人たちは、じかに主にお目にかかる勇気がなかったので、良い仲介者を探したのでした。

私はあまりにも罪深い人間だから主は耳を貸してくださらない、とでも思うのですか。そんなことはありません。主は憐れみの泉です。万一、このように素晴らしい事実を考えてもなお自分の惨さを痛感するのなら、あの徴税人を真似ましょう28。「主よ、ご覧ください。わたしはここにおります」。そして、人々がイエスの前に中風の人を運んできたときの情景を心に描きなさい。聖マタイの話に注目してみましょう。あの病人はひと言も口にしません。ただ、そこ、神のみ前にいるだけです。それに対しキリストは、病人の痛悔の心と功徳もない自らを悔やむ病人の心に動かされ、すぐに、いつもの憐れみをお示しになりました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」29と。

あなたに助言したいと思います。祈りの中で、福音書の色々な場面に、登場人物の一人となって入り込みなさい。まず、心を静め、黙想に役立ちそうな場面や秘義を頭に浮かべる。次に、想像力を働かせて主の生活の具体的な一面を考える。たとえば、とても優しい主の聖心、主の謙遜、主の純潔、御父のみ旨への従順など。そうしてから、その点について自分の場合はどうなのか、いつもはどんなことが起こるのか、また今はどうなのかを主にお話ししなさい。そして、よく注意して耳を澄ましましょう。主は何かを教えようとしておられるかもしれません。まもなく、内的な神の呼びかけを耳にし、今まで分からなかった点に気づき、痛悔の心が湧き上がることでしょう。

祈りを軌道に乗せるために、私は、もっとも霊的なことでも具体的な物に託すことにしています。この方法はどなたかに役立つかもしれません。私たちの主はこの方法をお使いになりました。主は好んで自分を取り巻く実生活にヒントを求め、そこから得た話を使って、人々にお教えになったのです。羊飼いと羊の群れ、ぶどうの木とその枝、舟と網、種蒔き人が気前よく蒔く種の話など。

私の心に神の言葉が<落ち>ました。この言葉のために、どのような土地を用意したのでしょう。石だらけの土地、生い繁った茨で覆われた土地、あるいは、元気なくあまりに人間的で、こせこせと足踏みされて過度に踏み固められた土地でしょうか。主よ、私の畑が、寛大に光と雨を受け入れ、肥沃な良い土地になりますように。あなたの蒔かれた種がしっかりと根をおろし、ふさふさとした穂を垂れる良質の小麦を実らせることができますように。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」30。九月が訪れ、生気ある細長い節だらけの枝を四方にのばしたぶどうの幹は、そのしなやかな枝もたわわに無数の実をならせ、摘み手を待っています。幹につながっていて樹液を受けるからこそ、枝は生き生きとしている。そうしてこそ枝は、二、三ヶ月前には小さな蕾にすぎなかったものを、人の目や心を楽しませる甘く熟した果実31に変えることができたのです。木の根元には枯れた枝が散らばっているかもしれません。それらも以前は生きた枝だったのですが、水分を失い枯れてしまったのです。これほど分かりやすい不毛の象徴はないでしょう。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」32というわけです。

宝物。宝を見つけるという幸運に恵まれた人の喜びようを想像してごらんなさい。経済的な問題も悩みも吹っ飛んでしまい、持ち物をすべて売り払って、宝の埋まっている畑を買います。心は宝のありかを思って喜びでいっぱいになる33。私たちの宝はキリストです。ですから、主に従うための邪魔になるものすべてを捨て去ることも厭いません。不要な底荷を捨てた船は、一直線に神の愛という安全な港に向かって航海を続けることでしょう。

もう一度繰り返しますが、祈り方は無数にあります。神の子であれば、御父に話しかけるために、型にはまった既製の方法など必要ではありません。愛があれば必要に応じて工夫し発明します。愛があれば、それぞれが自分に合った道を見つけ出し、主とのゆみない語り合いに入ることができるのです。

本日私たちが黙想した事柄の一つでさえ、魂の表面を上滑りしないようにと神はお望みです。束の間の雨の後、太陽が顔を現し、再び大地をすっかり乾燥させてしまう夏の嵐のように、跡形も残さないようなことがあってはなりません。神が降らせてくださった雨は、大地に留まって根を潤し、善徳の実を結ばなければならないのです。そうすれば、神のみ前で、一生を仕事と祈りのうちに過ごすことができるでしょう。万一つまずいたときは、祈りの師である聖マリアの愛、そして、私たちの父であり主である聖ヨセフにすがりましょう。この地上で神の御母と最も親しく交わり、また、聖マリアに次いで最も親密に御子に近づいた方ですから、私たちは聖ヨセフを心から称えます。聖マリアと聖ヨセフは私たちの弱さをイエスに見せ、イエスがそれを強さに変えてくださることでしょう。

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