神を見るであろう

1954年3月12日


イエス・キリストがキリスト者すべての模範であることは、すでに何度も耳にし、また黙想されたので、よくお分かりと思います。また、超自然的な付き合い、つまり、すでに皆さん自身の一部となった使徒職においても、模範はキリストであることを、多数の人々に教えてこられたことでしょう。さらに、必要なときには、兄弟的説諭という素晴らしい手段を使って人々に思い出させ、自分の行いを、神の母であり私たちの母である聖マリアの御子の行いと照らし合わせるよう、促してこられたことと思います。

 イエスは唯一の模範です。自ら「わたしに学びなさい」1とおっしゃいました。今日は、決して唯一最高の徳というわけではないが、信者の生活において腐敗を避ける塩の働きをし、使徒の試金石となる徳・聖なる純潔についてお話ししたいと思います。

 確かに、対神徳である愛徳こそ、最高の徳です。しかし、貞潔は神と親しく語り合うためにぜひとも必要な手段であり条件なのです。貞潔を大切にし、貞潔を守るために戦わないなら、目が見えなくなる。「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れ(る)」2ことができないので、何も見えなくなってしまいます。

「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」3。この主の教えに励まされた今、清い目ですべてを見たいものです。教会はこの言葉を常に貞潔への招きとして受け取ってきました。聖ヨハネ・クリゾストムは、「一点の汚れもない清い心を持つ者、貞潔を愛する者は、健全な精神を保つ。神を見るためこれほど必要な徳はない」4と教えています。

キリストの模範

主イエス・キリストは、この世での生活中、絶えず無数の悪口にさらされました。人々はありとあらゆる手段を用いて主に害を加えようとしたのです。覚えていますか。ある時は、主を革命家に仕立て、ある時は、悪魔につかれている5と言う、またある時は、主の無限の愛の表明を悪く解釈し、罪人の友だと非難する6。

 後になると、償いと節制の模範である主を、金持の家に招かれてばかりいると言って罵ります7。それだけでなく、あたかも労働者の子であることは悪いことであるかのように、「大工の子」8と軽蔑の念を込めて呼びました。主は、大食漢、大酒飲み…と呼ばれることもお許しになり、何を言われても言わせておかれましたが、ただ一つだけ例外がありました。貞潔については勝手なことを言わせなかったのです。この点に関してだけは、人々の口を封じました。なぜでしょうか。一点の曇りもない貞潔と清純と光、さらに、全世界を焼き尽くし浄化することのできる愛の模範を私たちが保つようお望みだったからです。

 私は好んで主の行いを黙想しながら、聖なる純潔について話します。この徳について主は非常に細かなところまで模範を示してくださいました。聖ヨハネの話に耳を傾けましょう。イエスが、「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」9ときのことです。

 心の目を開いて、あの場面をしっかりと眺めましょう。「完全な神、完全な人である」10イエスは、旅と使徒職でお疲れでした。きっと皆さんにも経験がおありのように、もうこれ以上、何もできないと言えるほど疲れきっておられました。疲れきった主を眺めるとそれだけで心打たれる思いがします。そのうえ、イエスはたまらなく空腹でした。弟子たちは食べ物を探しに隣の町へ行っています。さらに、主の喉は渇き切っていました。

 しかも、人々の救いを思う渇きは、体の疲労にもまして主をさいなみました。ですから、罪深いサマリア女が現れると、迷える羊を救おうとする司祭としてのキリストの聖心が、ただちに反応し始め、体の疲労、空腹、喉の渇きも忘れてしまったのです。

 主が大きな愛に動かされて使徒職に打ちこんでおられたとき、町から戻ってきた使徒たちは、「イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた」11。女性と接するときには充分、慎重な態度をとるよう教えられていたからです。聖なる純潔という得も言われぬ徳を本当に大切になさいました。私たちがより一層強くなり、より多くの実を結び、より一層効果的に神のために働き、偉大なことをすべて実現することができるようになるのは、この純潔の徳のおかげなのです。

「実に、神のみ心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならない」12。霊魂と身体、肉と骨、感覚と能力ともども、私たちは神のものです。信頼し切って頼みなさい。「イエス、私たちの心をお守りください。大きくて強い心、若々しく優しく繊細な心で、あなたとすべての人への愛を保つことができますように」。

 私たちの体は聖なるもの、聖パウロの言葉を借りれば、「神の神殿」です。私は使徒のこの叫びを聞くとき、主がすべての人に向けてなさった聖性への普遍的な呼びかけを思い起こします。「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」13。例外なくすべての人に、恩寵には応えるべきであると、主は仰せになっています。自分の生活条件に応じて神の子に固有な徳を実行せよと、一人ひとりに言っておられるのです。

 ですから、キリスト者は完全に貞潔を守らねばならないと私が言うとき、完全な禁欲を実行しなければならない独身者、婚姻の義務を果たしつつも貞潔を守るべき既婚者を含め、例外なしにすべての人々のことを考えています。

 聖霊の助けがあれば、貞潔はわずらわしいものでも恥ずかしい重荷でもなくなります。貞潔こそ喜びに満ちた積極的な徳なのです。それは愛であり克己であり勝利であって、肉からのものでも本能からのものでもない。何よりも貞潔を守るという決意があってこそ実行できる徳です。本当に貞潔であるためには、単なる自制や慎みではなく、欲情を理性に服従させる必要がある。しかも、高い動機、つまり、神への愛ゆえにそうする必要があるのです。

 この徳は翼に喩えることができます。この翼のおかげで、私たちは世界中いたる所へ、泥まみれになるのを恐れずに、神の掟と教えを伝えに行くことができる。翼自体かなりの重荷には違いないが、雲さえ届かない高みにまで飛翔する雄々しい鳥も、翼なしに飛ぶことはできません。このことをしっかりと心に刻みつけておいてください。貞潔はとうてい担い切れない重荷であると思わせるような、誘惑の魔手に捕まらないようにしたいものです。さあ、頑張って、太陽を、神の愛を、目指して飛び発ちましょう。

神を身に帯びて

貞潔について説くとき、純潔や貞潔に反することを中心に話す人が大勢いますが、まことに残念でなりません。いうのは、意図に反した結果をもたらすことが非常に多いからです。そのような例をいくつも見てきました。不潔な事柄は、松脂よりもねばねばしてくっつき易く、劣等感や恐れで良心をゆがめ、清らかな霊魂などとうてい保ち得ないかのように考えさせてしまいます。私たちは不潔なことについては話しません。聖なる純潔は、積極的・肯定的な面から澄んだ目で見、慎み深く、的を射た明白な言葉で扱うべきです。

 貞潔について話すとは、愛について話すことにほかなりません。それでたった今、主の至聖なる人性に目を留めれば大いに役に立つと言ったのです。とことんまで遜って人となり、罪を除くすべての有限性と弱さをもった人間の肉体をとったにもかかわらず、何の屈辱もお感じにならなかった神。まことに言葉に尽くせぬほどの驚きですが、神は私たちを極みまで愛してくださいました。神は自らを低めましたが、それによって自らの価値を低めたわけではありません。反対に、私たちを高め、体と霊魂ともども神化してくださったのです。この神の愛に対し、清らかに澄みきった心、秩序だった愛に燃え立つ心でお仕えすること、これが貞潔の徳です。

 全世界に向かって、行いと言葉をもって叫ばねばなりません。人間をもっとも下級な本能によって支配される哀れな動物であるかのように考えるほど、良心を麻痺させてはならないのです。あるキリスト教著作家は次のように説明しています。「人間の心は小さくないことを知りなさい。たくさんのことを受け入れることができるのです。心の大きさは、物理的な面ではなく、無数の真理を知ることのできる思考の能力で測りなさい。心の中こそ、主の道を整え、まっすぐな小道を拓き、神の言葉と知恵を受け入れるところです。清廉な行いと非の打ちどころのない仕事ぶりで主の道を整え、その小道を平らにしなさい。神の言葉が、つまずくことなくあなたたちの中を通り、神の秘義と来臨についての知識を与えてくださるだろう」14。

 聖書には、聖化という大事業、目立たないが素晴らしい聖霊のわざは、心と体において実現するものであると示されてあります。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。(…)あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもは自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」15と使徒は叫んでいます。

ある人々は貞潔について聞くと薄笑いを浮かべる。ひねくれた考えしかもたない人の、喜びのないしかめ面の笑いです。大多数の人間は貞潔を信じていない、と彼らは繰り返す。何年も前になりますが、一緒にマドリード郊外の貧民街と病院を回っていた青年たちによく話して聞かせたものです。この世には、まず無生物の世界が存在する、次に、存在するだけでなく、生命を与えられたがゆえに無生物の世界よりは遥かに完全な植物の世界、さらに、たいていは感覚と運動能力を備えた存在からなる動物の世界があると。

 それから、あまり学問的とは言えませんが、分かりやすい表現を使って、次のような説明を加えました。ところで私たちは、もう一つ別の世界、人間の王国を打ち立てなければならない。理性をもった被造物である人間は、見事な知性と神の知恵の閃きを備えているので、自由にものを考えることができるから。そして、この素晴らしい自由があればこそ、私たちは好きなように、あるものを受け入れ、あるものを捨てることができるのだと。

 私は司祭としての山ほどの経験に照らして話しました。この王国の住人のうち正常な人にとっては、性の問題は四番目か五番目にくるはずである。第一に一人ひとりの霊的生活における抱負、続いて普通の男女が心を寄せる問題、すなわち父母、家族、子供に関すること、それから仕事について、その後、四番目か五番目あたりに、性の問題が出てきます。

 ですから私は、性に関する事柄を会話や興味の中心に据えている人を見ると、彼らは普通ではなく、気の毒な人々、おそらくは病気だろうと思います。いつも決まって笑いを誘うことになりましたが、病院などを一緒に巡ったあの若者たちには、そのような哀れな人を見るにつけ、まるで頭の周りが一メートルもある子供を見たときと同じくらいかわいそうに思う、と言ったものです。こういう不幸な人たちに会うと、祈る気持ちだけでなく、兄弟愛の心から同情せずにはいられません。哀れな病が治るよう願ってやまないからです。常に性の問題を中心におく人たちが、同じ問題に悩まない男女に比べて、より男性的、より女性的であるとは決して言えないのです。

貞潔でありうる

人はみな欲情をひきずって生きている。年齢の多少に関係なく、みな同じ困難に直面していますから、戦う必要のない人はいません。聖パウロの言葉を思い出してください。「思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました」16。サタンの使いが私を打つ、でなければ、高慢になるからです。

 神の助けがなければ、清い生活を送ることはできません。謙遜になって助けを願え、と神は仰せになります。さあ、今、言葉を口にすることなく、信頼をもって聖母にお願いしましょう。「お母さま、私の惨めな心は愚かにも反抗します。私を守ってくださらないと…」。 するとすぐに、聖母はあなたの心を汚れから守り、神がお呼びになった道を走ることのできるよう助けてくださるでしょう。

 皆さん、何にもまして謙遜の徳が必要です。どうすれば謙遜になることができるかについて学びましょう。神の愛を保つため、賢明にならなければならないのです。注意深く警戒しても、恐れに支配されてはなりません。大勢の古典書の霊的著作家と言われる人たちは、悪魔を鎖につながれた猛犬に喩えています。ひっきりなしに吠えたてても、こちらが近寄らない限り、犬は噛みつくことができない。もし謙遜になろうと努めるなら、悪の機会を避けることもでき、きっと大胆に、逃げる道を選ぶでしょう。毎日、天の助けによりすがり、愛する人の歩む道を毅然として進みます。

肉の欲情によって腐敗すると、霊的な歩みを阻まれて善業も行えず、うち捨てられたボロ布のようになってしまう。自力では歩くことさえできない人、体が麻痺して、時には頭を動かすことすらできない病人がいます。霊的に見てこれと同じことが、謙遜でない人、臆病にも肉欲に負けた人に起こるのです。彼らには、何も見えず、何も聞こえず、何も理解できない。全身麻痺しており、まるで愚か者のようです。主キリストと神の御母に、謙遜をお与えください、ゆるしの秘跡という神の素晴らしい治療法を、信心深く用いる決心ができますようにと、お願いしましょう。心の中に腐敗の芽が育たないよう、たとえどんな些細なことであっても、すぐに話さなければなりません。水は流れていてこそ、清いのです。淀めば悪臭を放つゴミだらけの水溜りとなり、飲めるはずの水も、虫入りのスープと化してしまいます。

 貞潔は可能である。そればかりか喜びの源であり、時にはちょっとした戦いを余儀なくされることを、私と同じように、皆さんはよくご存じです。もう一度聖パウロの教えに耳を傾けましょう。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」17。必要ならパウロ以上の叫び声をあげなさい。ただし、大げさになり過ぎないように。すると、「わたしの恵みはあなたに十分である」18と、主はお答えになるでしょう。

ピンチに立たされたときのスポーツマンの目の輝きと、その後の素晴らしい勝利を見て心を打たれた経験が何度もあります。スポーツ選手がどのようにして困難を克服するかを見ましたか。それと同じように、私たちに主なる神は、私たちの戦いを見守り、喜んでくださいます。神が恩寵を拒むことは決してありませんから、すべては可能になり、私たちは常に勝利を得ることができるのです。戦うべき事柄自体は問題にならない、神は決して私たちをお見捨てになりませんから。

 貞潔とは、戦う態度であって、何かを放棄することではありません。貞潔とは、喜びに溢れた肯定、つまり、自由に、喜んで、神にすべてを捧げる姿勢のことです。罪と罪の機会を避けるだけで満足しているわけにはいきません。心のこもらない打算的、否定的な態度をとってはならないのです。貞潔は徳の一つですから、徳として成長させ、完成させるべきことは言うまでもないでしょう。各々が身分に応じて節制を保つだけでは不充分です。英雄的な努力をして、貞潔の徳を実行しなければなりません。こういう生き方をしようとすれば、神の要求を進んで受け入れる積極的な態度が必要になります。「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。喜んでわたしの道に目を向けよ」19。わが子よ、お前の心を差し出し、平和な私の畑に目をやりなさい。

 今、この戦いにどう対処していますか。最初の瞬間に戦っているなら、すでに勝ったも同然です。情欲の最初の火花を感じた瞬間、あるいはその前に、危険から遠ざかりなさい。それからすぐに、そのことを霊的指導者に打ち明けなさい。できるだけ早いうちに話す方がいいでしょう。思い切って心を開けば、敵に打ち負かされることは決してありません。一つひとつの行いが積もり積もって一つの習慣となり、傾きとなり、やがていとも簡単に実行できるまでになります。このようなわけで、徳と犠牲の習慣を身につけるため、また真の愛を拒絶しないためにも、とにかく戦わねばならないのです。

 聖パウロのテモテヘの勧めを黙想しましょう。「いつも潔白でいなさい」20。これは、私たちが常に警戒を怠らず、神から賜った宝を守る決意を固めるようにと勧める言葉です。「最初に断ち切っておけばよかった…」。大勢の人が悲しみにくれ、恥を忍んでこう叫ぶのを、私は今までに何度も耳にしてきました。

余すところなく心を捧げる

キリスト者としての義務を果たさなければ幸せにはなれないことを、忘れないでください。万一、信者の義務を放棄するようなことがあれば、大変な良心の呵責を味わい、不幸になるばかりです。そうなると、わずかであるとはいえ幸せを与えるはずの、まっとうで平凡な事柄までが、胆汁のように苦くて、酢のように酸っぱく、砂を噛むような味を与えるようになってしまいます。

 私たちは皆、一人ひとり、イエスにお願いしなければなりません。「主よ、私は頑張って戦います。あなたは決して敗北を喫したりなさいません。万一私が敗れることがあるとすれば、それは私があなたから離れてしまったためです。手を引いてお導きください。私を信用なさらないでください。独りで戦わせないでください」。

 あなたはこう考えるかもしれない、「神父さま、私はこんなに幸せです。イエスを愛しています。私は土でできたものですが、神と聖母の助けを受けて聖人になりたいと思っています」。確かにそうでしょう。私はただ、万一、困難に襲われたときのことを思って忠告しているのです。

 同時に、キリスト者は愛の生活を営むべきことを繰り返さなければなりません。私たちの心は、愛するためにあります。純粋で汚れない高貴な愛を与えてやらなければ、心は卑しいことを求め、惨めな状態に陥ってしまいます。本当に神を愛し、それゆえ清い生活を送るというのは、享楽的な心や無感覚な心をもつことではありませんし、冷淡で硬い心や感傷的な心で生きることでもありません。

 心がないとは残念なことです。優しく人を愛した経験のない人は不幸だと言えます。キリスト者は神の愛に酔っている人々のことです。私たちが生気のない物質のように、潤いなく堅苦しい生き方をすることなど、主のお望みではありません。神はご自分の愛で私たちを包みたいと思っておられるのです。神のために異性への愛を放棄するからといって、清らかな広い心で愛することもできず、疲れ切って悲しくも不幸な<独り者>になるわけではありません。

愛と貞潔

以前にもしばしばお話ししましたが、私の場合、主との親交を温めるために、愛をテーマにしたポピュラー・ソングが役に立ちます。こんなことを知られても恥ずかしいとは思いません。皆さんのうちの幾人かと私をお選びになった主は、すべてを捧げるようにと望んでおられます。私たちは愛の歌を超自然のレベルに高めなければなりません。旧約の雅歌は、聖霊がそのようになさったものであり、あらゆる時代の偉大な神秘家たちも同様にしてきました。

 聖テレジアの次の詩句を読み直してみましょう。「私の憩いをお望みなら、愛のために憩います。私の働きをお命じになるのなら、働きつつ死にましょう。おっしゃってください。いつ、どこで、どのようにすればよいのでしょうか。お教えください。甘美な愛よ、私がどうすることをお望みかを」21。十字架の聖ヨハネの歌はどうでしょう。「一人、愛に悩む羊飼い。喜びも満足も忘れて、思いはあの女牧者のもとに。胸は愛に焦がれて」22。私は人間同士の愛を、それが清い愛である限り、言葉で表現できないほど尊び、そして、敬いたいと思っています。両親の貴く清い愛を尊ばない人はいないでしょう。私たちが神と交わることができるのも、実は、大部分、親のおかげなのです。私は両親の愛を双手で祝福します。どうして「双手で」なのかと尋ねられれば、「手は二本しかないので」と答えましょう。

 夫婦の愛は賛美されますように。ところで、主は夫婦愛に勝る愛を私にお求めになりました。カトリック神学が認めるように、天の王国を愛するがためにイエスだけを愛し、イエスを愛するがゆえにすべての人々のために自らを捧げるという愛は、確かに「この神秘は偉大です」(偉大な秘跡)23と言われている結婚、つまり夫婦愛よりも、より一層貴い愛なのです。

 人は自分の置かれた場所で、独身者であろうと既婚者であろうと、あるいは寡婦であろうと司祭であろうと、神から賜った召し出しに応じて真剣に貞潔を守る努力をしなければなりません。貞潔とは万人が実行すべき徳であって、戦いと細やかさ、優雅さと力強さがなければ実行できない徳です。言い換えれば、これほどの細やかさを理解できるのは、十字架上のイエスヘの愛に溢れ、主のお傍にいるときのみなのです。誘惑が待ち伏せして攻撃をしかけてきても、心配するには及びません。感じることと同意することとは異なります。その誘惑も、神のお助けがあれば容易に退けることができます。絶対に許してはならないこと、それは、誘惑と話し始めることです。

勝つための手段

貞潔を守る戦いで勝利を収めるには、どのような手段を使えばよいのでしょうか。天使のようにではなく、健康で逞しい<普通の>男女として戦います。私は心の底から天使を敬い、深い信仰心でこの神の軍団と心をひとつにしていますが、人間を天使と比較するのは好みません。天使は私たちとは異なる本性をもっていますから、同じように考えると混乱を引き起こしてしまうのです。

 世界中に官能に毒された雰囲気が広がり、それが曖昧な教えと結びついた結果、多くの人々がありとあらゆる過ちを正当化し、あるいは少なくとも、あらゆる種類のふしだらな習慣に対し無関心と間違った寛容を示しています。

 私たちは身体の清さを保つため、できる限り努力すべきですが、恐れながらではありません。性とは神の創造の力にあずかる能力であって、結婚生活のための、神聖で貴い能力であるからです。性を恐れることなく自らを清く保ちさえすれば、聖なる純潔とは、誰もが保ちうる美しい状態であることを、身をもって証明することができるはずです。

 第一に、良心を洗練させなければなりません。必要な知識を深め、良心をしっかりと教育したと自信をもって言えるまで、言い換えれば、神の恩寵である真に繊細な良心と「小心」と称される良心とを区別できるまで、努力を続けなければなりません。

 細やかな心で、心を込めて貞潔を守りましょう。貞潔の侍従とも護衛とも言える節制と慎みを育む必要もあります。神を仰ぎ見るために、次のような手段を軽々しく考えないように気をつけましょう。五官と心を弛まず警戒して罪の機会から逃げる勇気をもつ、つまり勇気を出して臆病になる努力を続け、秘跡、特にゆるしの秘跡にしばしばあずかる。霊的指導を受けるに当たって百パーセント誠実を保ち、過ちのあとでは痛み、痛悔、償いの心をもつ。何にもまして聖母に対する子としての信頼を保ち、清く正しい生活ができるよう、聖母の執り成しを願う。これらのことを大切にしてください。

万一、不幸にも罪を犯したら、すぐに起き上がらねばなりません。手段を講じて戦う限り、必ず神の恩寵を受けることができますから、できるだけ早く痛悔し、謙虚・誠実な心で償いを果たすのです。そうすれば、一瞬の敗北もイエスの偉大な勝利に変わることでしょう。

 天守閣から遠く離れた所で戦うようにしましょう。悪との戦いの前線にあって、勝つか負けるかというような綱渡り的なことはできません。罪の原因に同意してそれを受け入れることなど、もってのほかです。どのように些細なことであっても愛に反することであれば、断固として避けなければなりません。私たちが実り多い使徒職への熱意を絶えず増していくための基礎であり、またその顕著な実りとなるのが聖なる純潔なのです。さらに、常に神の現存を保つよう努力し、一日を埋めるに充分な仕事をもち、毎日身を入れて働くことです。私たちは高値で買われたものであり、聖霊の聖所であることを忘れないために。

 ほかにどのような助言をすべきでしょうか。昔から、真面目にキリストに従う信者が使ってきた方法、キリストの励ましを感じながら初代の信者が使っていた手段、これらが私たちの手段です。聖体に現存する主との絶え間ない付き合い、子供のように任せ切って聖母に馳せ寄ること、謙遜、節制、感覚の犠牲(望むべきではないことを視てはいけないと大聖グレゴリオは言っています)24、そして償い、など。

 以上述べてきたことはすべて、キリスト教的生活という一語に要約できると言えます。事実、純潔、すなわち愛と、信仰の本質である愛徳とを切り離して考えることはできません。私たちを造り、贖ってくださった神、たいていの場合それとは気づかないけれども、常に手をとって導いてくださる神、その神への愛を絶えず新たにすること、これこそ貞潔の徳の実行なのです。神は決して私たちをお見捨てにはなりません。「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」25。このような言葉を聞けば喜びに満たされるのではないでしょうか。

地上において私たちに喜びを与え、天の永遠の幸福にまで導いてくれるものが三つあると常々説いてきました。すなわち、信仰と、召し出しと、貞潔。この三つに対しては、堅固で繊細、喜びに溢れて揺らぐことのない忠実を保たなければなりません。道の脇にある溝、つまり、官能や高慢などに足をとられたままになって起き直ろうともせず、自ら望んでその状態に甘んじるなら、キリストの愛に背を向けることになり、不幸になるほかはありません。

 重ねて申しますが、私たちは全員みじめな存在です。しかし、この惨めさによって神から遠ざかるのではなく、あたかも古代の戦士が甲冑に身を包んだように、神の愛に身を包みます。「お呼びになりましたので、わたしはここにおります26―わたしを頼りにしてください―」。これが私たちの防禦です。自分の脆さを知ったからといって神から離れるわけにはいきません。神は私たちを頼りにしておられるのですから、脆さに打ち勝たねばならないのです。

どうすれば、このような哀れな状態を克服できるのでしょうか。本当に大切なことなので何度も繰り返します。謙遜と、霊的指導者への誠実さ、ゆるしの秘跡によってである、と。指導者のもとに行き、心を開きなさい。心を閉じてはなりません。口を噤ませる悪魔がひとたび入り込むと、少々のことでは放り出せないからです。しつこく繰り返すことをお許しください。なにがなんでも、ぜひ、皆さんの心に刻みつけてもらう必要があるので、言わずにはおれません。謙遜とその直接の結果である誠実さは、他の色々な手段と関係があり、勝利に至るための基礎のようなものです。喋れなくさせる悪魔は心に入るやいなやすべてを腐らせてしまいます。直ちに追い出せば、すべては順調に運びます。喜びを取り戻し、生活は軌道に乗ることでしょう。常に赤裸々なまでに正直誠実でありたいものです。ただし、礼儀と賢明さを忘れないでください。

 心と身体については、高慢に対するほどの心配はいりません。しっかりと頭に入れておいてください。謙遜が大切です。自分が正しいと思うとき、実は全然正しくないからです。霊的指導を受けるときは、隅から隅まで心を開きなさい。心を閉じてしまってはだめです。繰り返しますが、いったん口を噤ませる悪魔を迎え入れてしまうと、追い出すのに大変骨が折れます。

 かわいそうな悪魔憑きのことを思い出してください。弟子たちは治すことができず、主だけが、祈りと断食によってあの人を自由にすることがおできになりました。あのとき、主は三つの奇跡をなさったのです。まず耳を開かれました。話すことを妨げる悪魔に支配されると、人は耳を貸さなくなるのです。次に口を開いてやり、最後に悪魔を追い出されました。

知られたくないことを最初に話しなさい。悪魔を踏みつけるのです。小さな問題でも何度も考えているうちに雪だるまのようにどんどん大きくなり、やがて自分の殻に閉じこもってしまう。どうしてそんなことをするのですか。心を開きなさい。正直誠実であれば、あなたの幸福を、つまり信者としての道を忠実に歩むことができると保証します。表裏のない澄みきった心、これこそ絶対に欠かすことのできない心構えです。心を思い切り開いて、隅から隅まで神の光と暖かい愛がゆきわたるようにしなければならないのです。

 百パーセント誠実であることを止めるには、必ずしも悪い意向が必要であるとは限りません。時には良心の過ち一つで充分でしょう。良心が歪んでいるので、誠実でない態度や沈黙が正しいと思い込んでいる人がいるのです。この種の過ちは、立派な形成を受け、神に関する知識もしっかりしていると思われる人にも起こります。よい形成と深い知識があるがゆえに、沈黙は正しいと判断するのでしょうが、実は欺かれているのです。誠実さは常に必要で、言い訳は、たとえ当然であると思えるときにも、認めるわけにはゆきません。

 そろそろこの語らいのひとときを終えなければなりません。私たちは主との語り合いを続けてきましたが、ここで貞潔というキリスト教的徳を積極的に生きることのできる恵みをお願いしましよう。

 無原罪の清さを保つ聖マリアの執り成しをお願いしましょう。美の美である聖母のもとに駆け寄り、謙遜になろう、清い生活を送ろう、誠実になり喜びに溢れ、物惜しみしない生き方をしようと、日々戦いながら心に不安を感じていた人たちに、昔、私が与えた勧めを繰り返したいと思います。「生涯のあらゆる罪がのしかかってくるようだ。しかし、信頼を失ってはならない。むしろ反対に、幼児のような信仰と依託の心で、聖母マリアをお呼びしなさい。聖母は心に安らぎを与えてくださるだろう」27。

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