神と隣人を思いつつ

1963年11月3日


祈願と意向を「ひとつ」1にして、今から私たちは念祷を始めます。主がお任せになった仕事を果たすよい道具になりたいと、望みも新たにこのひとときを主との語り合いのうちに過ごしたいと思います。聖体に現存されるイエスに向かって、私は好んで明白に信仰告白することにしています。その秘跡にましますイエスのみ前で、皆さんにも心に熱い望みを燃え上がらせて欲しいのです。神と隣人に労を惜しまず仕える人、そのような人々のいるところなら、たとえ世界の果てまでも、高鳴る鼓動、心に躍動する力を伝えに行こうと。私たちは、聖徒の交わりという素晴らしい現実によって、神の真理と平和を広める仕事の担い手、聖ヨハネによれば、神の「協働者」2となったからです。

 当然、どのようにして主に倣うべきかを考えます。心の底からキリストのみ国を広げたいと思うなら、私たちの行いに輝き出るべき徳をじかに学ぶため、心を落ち着けて主の生涯を黙想しなければなりません。

賢明、要となる(枢要徳)

本日のミサで読んだ聖マタイ福音書にこう書いてあります。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」3。偽善者のこのやり方は今日でも珍しくありません。ファリサイ派の人のような毒を含んだ雑草が、この世から姿を消すことはないでしょう。常に驚くべき繁殖力を誇っています。きっと主は、私たち神の子を賢明にするために、そのような雑草が繁殖しても放っておかれるのでしょう。賢明とは、判断したり、力を与えたり、矯正したり、心を燃え立たせたり、元気づけたりする立場にある人にとって、欠くことのできない徳であるからです。実に述べたような行いこそ、キリスト信者が使徒として、日常生活を取り巻く様々な条件を活用しながら、周りの人々に示すべき態度です。

 私は今、聖母の執り成しを願い、心を神に上げて祈っています。聖母マリアは教会の中におられますが、教会を超える御方です。キリストと教会の間におられ、主の御母であると同時に人類の母として、私たちを守り、そして導いてくださいます。社会機構の中で神のために働きたいと望む人々をはじめ、あらゆる人々に、神がこの賢明の徳をお恵みくださるよう祈らなければなりません。なんとしても賢明になる必要があるのです。

先ほどの福音書の続きを読んでみましょう。ファリサイ派の人は「その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、…』」4。「先生」と呼びかけますが、偽善もいいところです。教えを垂れる大家に接するときのように、崇拝者顔、友人顔をして尊称を使います。「先生、あなたが真実な方で」5あることを存じておりますと。何という悪賢さ、何という二心でしょう。世渡りには注意が必要です。疑い深いびくびくした人になれというのではありませんが、カタコンブにある善き牧者の絵を思い出しながら、羊に対する牧者の責任を感じとって欲しいのです。ただし、この羊とは、個人ではなく、教会全体、全人類を指しています。

 牧者としての責任を堂々と担うなら、神の権利を守り、かつ主張するために、大胆で賢明な人になります。そうすると、人々は皆さんのしっかりとした生き方を見て、皆さんが現世の誉れを求めないにもかかわらず、先生と考え、そう呼びかけることでしょう。ところで、近づいてくる大勢のなかに、へつらうことしか考えていない人々がいても驚かないでください。私が何度も繰り返してきたことをしっかりと頭に入れておいて欲しいと思います。讒言や中傷に振り回され、人目や他人の噂を気にしてはなりません。ましてや、偽善者の追従を真に受け、義務の遂行を怠るようなことがあってはならないのです。

善いサマリア人の話を思い出してみましょう。盗賊に一銭のこらず奪われ、傷つけられて道端に捨て置かれた男がいた。そこを、まず司祭、ついでレビ人が通りかかる。二人とも気にかけず通り過ぎた。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」6。主は少数の選ばれた人にだけこのような模範をお示しになったのではありません。その証拠に、(隣人とは誰かと)質問した人、つまり私たち一人ひとりに、すぐ付け加えて仰せになりました、「あなたも同じようにしなさい」7と。

 私たち自身の生き方や隣人の生き方に、何かまずいところ、霊的、人間的な手立てを講じて直すべき点があるとします。しかも、助けることができることであると同時に、神の子として当然そうすべきであるとしましょう。そのようなとき、賢慮の徳を備えているなら、愛と剛毅と誠実の心で根本的かつ適切な手段を講じます。遠慮しているわけにはいきません。ただ眺めていたり、助けを遅らせたりしても問題は解決できないのです。

 必要なときには傷口を開いて、間に合わせではなく徹底的な治療をするのが賢明というものです。少しでも悪い徴候が見つかれば、治療される側であろうと治療する側であろうと、単純に本当のことを言わねばなりません。そのようなときは、神のみ名において治療資格のある人に自らを委ねる必要があります。その人はまず傷の周りを押さえ、徐々に傷口に近づいていく。そうして最後は、傷口の膿を出し切り、消毒する。私たちもまず自分自身に対して、次いで、正義あるいは愛の点から助けてあげるべき人に対してそうします。これは特に、子をもつ親と、形成・教育に携わる方々にお願いしたいことです。

世間体

猫かぶりのような言いわけに負けないで、徹底的に治療してください。ただし、母のように優しい手、子供のとき遊び転げてできた大小の傷をそっと優しく手当てしてくれた、あの母の手で癒さなければなりません。時には少し時間をおきますが、必要以上に延ばさないようにしましょう。事を恐れる臆病心に負け、賢明とは言えない態度をとってしまうことがあるからです。特に、人々の教育を任されている方に申し上げたい。消毒を恐れるようなことがあってはなりません。

 治療の任に当たる人が、「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で(…)あることを知っています」8という巧みな囁きを耳にして、託された義務遂行をためらったり、嫌になったりすることもあるでしょう。皮肉たっぷりのお世辞などに耳を貸してはなりません。自分の仕事を勤勉にやり遂げない人は、本当の道を教えていないわけですから、先生とは呼べません。明確な規準を大げさだと考え、軽く見ますから、真理の人でもありえません。この規準は、正しい行い、年齢、よき指導技術、人間の弱さについての知識、各々の羊に対する愛によって、正当であると充分に証明しつくされているものですから、そのような規準に従っているなら、人々に話しかけ、干渉し、関心を示すことができるはずなのです。

偽りの教師たちは恐れから真理を極めようとしない。時には、苦痛を伴う治療を施す必要―義務―があると考えるだけで怖くなってしまう。このような態度は賢明とは言えません。敬虔でもなく思慮分別もない、かえって無責任、無分別、愚かさのあらわれです。大事に至ってから、すでに手遅れではあるがやっと腰をあげ、慌てふためいて悪をくい止めようとする。これも偽りの教師の態度です。賢明であれば、濁りのない目でものを見、経験に照らして充分考えた末の勧めを、必要な時にはっきりと告げるべきであることを、忘れてしまっているのです。

 聖マタイの話の続きを読むと、ファリサイ派の人は、「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え(…)ることを知っています」9と言っている。皮肉たっぷりのこの言葉には開いた口がふさがりません。主イエスの言葉をわざと曲げて解釈しよう、不注意な言葉尻をとらえて非難してやろうという意図を、彼らはおくびにも出さない。解決不可能な問題であることを自ら素直に述べるかわりに、正しい心、信頼心をもつ人が口にすべき賛辞を弄して、主を困らせようというのです。彼らの言葉に注目して、疑い深くなるのではなく賢明になるために、裏の意味は何かを学びとりたいと思います。見せかけのマヤカシを受け入れるような愚を犯してはなりません。「あなたは人の区別をされない。すべての人のために来られた。真理を説き、善を教える」10と彼らは言う。言葉自体は、真実を言い表し、真実に合った態度が見られるが、この場合は上辺だけであることに注意しなければなりません。

 重ねて申します、賢明に振舞ってください。しかし、疑い深くはならないようにしましょう。あらゆる人に全き信頼を寄せる、気高い心の持ち主であってください。私は意見の一致した百人の公証人の署名よりも、一人のキリスト者、つまり誠実な人の言葉を無条件で信じますし、またそちらの方に重きをおきます。むろん、このようにしていれば時には騙されることがあるでしょう。しかし、人として、神の子として、当然受けるべき信用を他人から奪うよりは、自らの信頼心を悪用される危険に身をさらす方がよいのではないでしょうか。このような生き方を続けた結果、裏切られたことは一度もなかったと保証します。

正しく生きる

福音書から実生活に役立つ決心が引き出せなければ、福音書を充分に黙想したとは言えないでしょう。皆さんの中には壮年期の方々もおられますが、多くは若い人々のようです。いずれにしても、私たちは全員、よい実を結びたいと望んでいます。そうでなければ、今ここにいるはずはありません。私たちは犠牲を捧げ、主から任せられた<タラントン>を巧く使う努力をしています。神の助けを受けて、人々の救いを望む心が熱く燃えているからです。ところで、今に始まったことではありませんが、善意があるにもかかわらず、「ファリサイ派やヘロデ派の人」11の共謀する罠にはまってしまうことも考えられます。キリスト者であるからには当然神の権利を守るべきでありながら、悪の勢力に惑わされ、悪と結託し、信仰における兄弟や救い主に仕えんとする人々に巧みに近づく輩―このような輩に陥れられることがあり得るのです。

賢明になってください。言葉も、行いも、自然であるように。問題があれば根底にまで立ち入って解決してください。上辺を撫でるだけでは役に立ちません。キリスト者としての義務を立派に果たそうと心から望むなら、相手も自分も不愉快な思いを経験するだろうことは、今から覚悟しておくべきでしよう。

矯正すべきときや、悲しみを与えるような決定を下さなければならないときは、最初から最後まで苦しむのは私自身です。これは知っておいて欲しい。ただし、私は特に感傷的な人間というわけではありません。動物は涙を流せないが、人間すなわち神の子は泣けると思うと心が慰められます。義務を忠実に果たそうと努めるなら、時には苦しいこともあるのです。他人に嫌な思いをさせたくない一心から、何としても苦しみを避けようと努めるのは、楽であるには違いないが道を踏み外すことになります。この種の遠慮には、往々にして、自分は苦しみたくないという逃げの態度が潜んでいるからです。他人に真剣な忠告を与えて気分のいい人はいません。しかし、言うべきことを、言うべきときに言わなかった人が、地獄には大勢いることを忘れないでください。

 ここにも何人かの医者がおられるが、再び医学を例にあげる厚かましさをお許しください。間違ったことを言ってしまうかもしれませんが、内的生活の例としてはぴったりだと思うのです。傷を治すに当たって、医者はまず患部を洗い、傷の周辺も同様に洗います。こうすれば傷口が痛むことは充分承知しているが、そうしておかないと後でもっとひどい痛みに襲われることもよく知っているからです。続いて、消毒薬を塗ります。傷はうずき(私の故郷では「さす」と言いますが)苦痛を与える。しかし、黴菌が入らないようにするにはこうするほか仕方ないのです。

 身体の健康のために、ほんの少し擦り剥いただけでもこのような治療をしなければならないとすれば、人間の中枢神経である霊魂の健康という大事を守るために、洗浄や放血、払拭、消毒を施さず、また苦痛を忍ばなくてもよいと言えるでしょうか。賢明な人でありたいなら、干渉すべきときには干渉しなければならず、義務から逃げ出すわけにはゆきません。避けて通ろうとするのは思慮の欠如をあらわすだけでなく、時には、正義と剛毅に反する行為となってしまいます。

 キリスト者が、神と人に対して正しい生き方をしようと望むなら、あらゆる徳を、少なくとも潜在的にもっている必要があります。「でも神父さま、私には色々と弱いところがあるのですが…」とおっしゃるのですか。それならこう答えましょう。たとえ自分が病気、それも慢性の病に苦しんでいるとしても、医者は患者を治すのではありませんか。自分が病気であれば患者の処方箋を書くこともできないのでしょうか。他人を治療するには、自らの病を克服するのと同じように、必要な知識を患者に当てはめればよいのです。

弱さにつける

神のみ前で、勇気を出して良心の糾明をしてください。皆さんも私同様、毎日、無数の失敗をしていることに気がつくでしょう。たとえ根こそぎにはできないにしても、神の助けを借りて失敗を繰り返さないよう戦うなら、重大なことにはなりません。それどころか、神の恩寵に応える努力さえすれば、自分の弱さを乗り越えて、他人の大きな欠点を補うのにも役立ちます。自分も同じように弱く、どのような過ちを犯し、どのような悪事を働くかも知れないと分かれば、他人をもっとよく理解する繊細な心をもつようになり、同時に、さらに心を尽くして神を愛すべきことが理解できるようになるのです。

 神の子たる信者は、あの偽善者たちが邪な心で主に囁いた「だれをもはばからない」12という言葉を正直に実行しつつ、人々を助けなければなりません。つまり、えこひいきは断固として避けなければならないのです。それには、あれやこれやの事情によって、あるいは見たところ人間的な理由しかない場合もあるでしょうが、いずれにしても、神が私たちの傍らにいるように配慮された人々を、まず大切にしなければなりません。

「真理に基づいて神の道を教える」13。説き教えること。とにかく、嘘偽りのない真理、神の道を教えるのです。自分の欠点が他人に知られるのを恐れないでください。私は、内的戦いの状況と、忠実に神に仕えるためにいろいろ改善したいと思う点を、さらけ出すようにしています。自分の惨めなところを根こそぎにしようと努力するなら、すでに神への小道を歩んでいるしるしと言えるでしょう。傍目にも明らかな失敗があるにしても、まず生活の模範によって、続いて言葉で、神へ至る道を人々に示さねばなりません。ちょうど主が、「行い、また教え始められた」14ように。

 私が皆さんをたいへん愛していること、そして、無限に善い方、この上ない父である御父の愛は、私のその愛よりもはるかに深いという事実を、まず保証します。次いで、私には、皆さんがイエスとその教会、つまりイエスの羊の群れを愛するよう手助けする義務があり、この義務遂行については誰にも負けないつもりであることを考えていただければ、私が皆さんを非難することなどありえないこともお分かりいただけるでしょう。それにもかかわらず、説教や個人的な話し合いの中で、皆さんの過ちを指摘するようなときは、皆さんを苦しませるためではなく、かえって、一緒にもっと深く主を愛するようになりたい一心からであることを、理解していただきたいと思います。諸徳の実行に力を入れるべきだと主張するときも、実は私にもそれが必要であることをよく自覚しています。

ある時、恥知らずな人が、失敗の経験は同じ失敗を何度も繰り返すのに役立つだけだ、言いました。しかし私は、賢明であれば、そのような不運な失敗を巧く活用して、自らを戒める機会、自己を改善する機会となし、聖性への道をさらに前進する決心を立てるはずであると申し上げたい。神に仕える生活において味わう失敗と成功の中から、神への愛を深める機会を得ると共に、キリスト者であり市民である者の義務と権利を、たとえ辛くとも果たそうと堅く決心してください。臆病にならず、名誉も責任も避けないよう努力しましょう。神の栄光と隣人の善のみを誠実に求めるにもかかわらず、偽の兄弟たちが巻き起こす反対に出遭うこともあるでしょうが、驚かないでください。

 とにかく、賢明にならなければならない。何のために?正しい人となり、愛に生き、神と人々に効果的に仕えるためです。賢明の徳が「諸徳の母」15とか「諸徳の馭者」16とか呼ばれるのは実に当を得ていると言えます。

チェザルのものはチェザルヘ

福音書の場面をよく注意して読み、私たちの行いの指針となるべき徳に関する教えを活用しましょう。偽善と追従にみちた前口上を終えたのち、ファリサイ派とヘロデ派の人たちは問題を提起します。「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」17。「彼らの悪知恵に注目しなさい」と、聖ヨハネ・クリゾストムは言っています。「なぜなら彼らは、どちらが良いのか、どちらが適当なのか、どちらが正当なのかをお教えくださいと言うのではなく、どう思うかと尋ねているからだ。主を裏切り者に仕立て、政治権力者たちの敵にしようという妄執にとらわれていたのである」18。しかし、「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい』。彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』」言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』」19。

 お分かりのように、古くからこのようなジレンマに陥らせるような論法が使われていることは、主のお答えが疑いようもなく明々白々であると同じくらい明らかです。神に仕えることと人々に仕えることとの間に対立はありえません。市民としての権利義務の履行と宗教上の権利義務の履行との間にも、また、社会の建設・改善の義務とこの世を天の祖国へ通じる旅路と考えることとの間にも、対立はありえないのです。

 この点にも、私が飽くことなく説き続けている<生活の一致>の大切さがあらわれています。<生活の一致>こそ、職業と家庭、社会関係という、日常の環境の直中で聖人になるために努力する人にとって、欠かすことのできない条件です。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」20。イエスは<生活の一致>を強調しておられます。神の召し出しに無条件で応え、神のみを選ぶなら、信者はすべてを神に差し向けると共に、正義の点から見て当然人々の権利に属するものを、人々に与えることができるようになるはずです。

一見したところ敬虔に見える態度を隠れ蓑として、他人のものを奪うような行為は許されません。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です」21。しかしまた、創造主であり私たちの父である神に当然捧げるべき愛と礼拝を惜しむなら、それも自らを偽ることにほかなりません。主の掟に従わないばかりか、従えば人々への奉仕ができなくなるという人は、自分で自分をだましているのです。この点については聖ヨハネがはっきりと警告しています。「神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません」22。

 愛という名目の下、また他の場合には能率本位を口実に、色々と新説を出しては熱弁をふるい、何とかして神への礼拝と賛美を勧めないようにしようとする人が大勢いることはご存じでしょう。主を称える行為は、何事によらず大げさに映るらしいのです。皆さん方は、そのような考えを無視して、自分の道を歩み続けてください。彼らのすることと言えば、口論を重ねるだけで何の実りももたらさず、せいぜい人々の躓きになるだけです。結局は、イエスの掟を無視させ、自らを捧げないようにさせる、つまり正義の徳を少ししか実行しないように仕向けるだけなのです。

神と人に対する正義

まず、神に対する正義をしっかりと心に刻みつけ、それを行いに表すよう努めましょう。嫉妬や恨み、利己主義や貧欲に満ちた人々の<正義、正義>という呻き声と、本当の「義に飢え渇く人」23との違いを区別する試金石は、神に対する正義です。創造主であり贖い主である御方から、あり余るほど豊かな宝を受けていながら感謝の意を示さないとすれば、それこそ正義にもとる忘恩と言えます。真に正義にかなう人になるよう努めているのなら、「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」24と言われるように、幾度となく、神に依存しきっている自らの状態を考えることでしょう。すると、心は感謝に溢れ、ゆきすぎと思えるほど私たちを愛してくださる神に、なんとかして応えたいという望みが湧いてきます。

 そうして、孝愛心は息づき、神との心と心の触れ合いが始まります。私たちにそこまで要求する権利が主にあるのだろうかと、偽善者たちが疑いを吹き込んでくることがあるかもしれません。そんな時は欺かれないように注意して、「陶工の手中にある粘土のように」25素直に、すべてをおいて神のみ前に控え、頭を垂れて信仰を告白してください。「わが主、わがすべてよ」と。たとえ、不意の災いに見舞われ、不当な迫害に襲われても、新たな喜びに満たされて歌うことができるでしょう。「神のいと正しく、いと愛すべきみ旨は、万事に越えて行われ、全うされ、賛美され、永遠に称えられますように。アーメン、アーメン」と。

喩え話に登場する一万タラントンの負債を抱えた召使い26の状態は、神のみ前における私たちの状態を見事に映し出しています。私たちの場合も、寛大な神から受けた莫大な借り、さらに罪を犯す毎に増やしてきた負債を返すすべとてありません。いくら大胆に頑張ってみたところで、主が赦してくださっただけの額を返済することはできないのです。けれども、私たちが正義の枡を満たせないときは、それにもまして神が慈しみで埋め合わせをしてくださる。神は満足して私たちの負債を帳消しにしてくださいます。神は恵み深く、その慈しみはとこしえ27なのです。

 お分かりのように、喩え話の始めと終わりは全く対照的です。莫大な借金を帳消しにしてもらったばかりのあの召使いは、たった百デナリオンの債務者を憐れもうともしませんでした。ここに至って召使いの狭い心が明らかになります。道理から言えば、貸金の取り立てをして悪いわけではありません。それにもかかわらず、何かしっくりこない。これほど不寛容な態度は本当の正義ではないと、私たちには思えるのです。つい先ほど好意と理解に満ちた憐れみを示してもらったばかりの人が、自分の債務者に向かってほんのわずかの辛抱さえできないというのは、どう考えても正義にかなうとは言えません。正義とは、権利と義務とを杓子定規に適用することではないし、算数のように引き算や足し算で解決できるものでもないのです。

キリスト教の徳はもっと高いところを目指します。すぐに感謝の心を表し、親切で寛大、順境にあっても逆境にあっても常に忠実で誠実な友であり、法を遵守し正当な権威を尊重し、問題に対処するに当たって自分の非を悟れば、すすんで直ちに改めます。そして正義の人であるなら、何よりも、職業、家族関係、社会関係から生ずる約束をしっかりと守ります。大げさに触れまわることなく身を入れて働き、義務でもある権利の行使を、決しておろそかにしないはずです。

 怠け者が正義を口にしても、信じるわけにはゆきません。愛するイタリアの表現を借りれば「楽しい物臭さ」とでも呼べそうな生き方をし、仕事もしないわけですから、公正の基本原則を時にはひどく欠くことになるからです。神は「耕し、守らせる」28ために私たちをお造りになりました。人々も家族の者たちも、私も、人類も、つまるところ、私たちがいかに効果的に働くかにかかっているのです。正義とは単に物的な富を分配することであると考えるような、情けない正義観念はもたないようにしましょう。

正義と、自由と真理への

福音書の言い方に倣うと、私が「聞く耳」29をもつようになったとき、つまり物心がついた頃には、すでに社会問題という言葉が叫ばれていました。言っても、別にどうこう言うほどではなく、ずいぶん昔からあったのです。ぶん、人間が何らかの組織作りを始めることによって、年齢、知能、仕事能力、興味や関心、個性などの相違が目に見えてはっきりしてきたときに生じたのでしょう。

 社会階級がどうしても避けられないものなのかどうか私には分かりませんが、いずれにしても、この件について話すのは私の役目ではありませんし、まして、聖堂に居るのは、神について、また神と語り合うためですから、この件についてここで話そうとは思っていません。いずれにせよ、神以外については、話すつもりもありません。

 皆さんは、摂理によって自由で合法的な討論に任せられている諸問題について好きなように考えてください。私はキリストの司祭ですから、さらに高い見地から物事を眺め、常に正義を行う義務、また必要なら、英雄的な行為が要求されても正義を行うべきことをお話ししなければならないと考えています。

「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」30のですから、私たちにはすべての人々の自由を守る義務があります。他人の権利を尊重しないで、どうして自分の自由を主張することができるでしょうか。真理も私たちが広めるべき事柄です。「真理はあなたたちを自由にする」31と仰せられたからです。無知は隷属を強いることになります。すべての人の生きる権利、人としての尊厳を保つために必要なものを所有する権利、働き休息する権利、身分を選ぶ権利、家庭をつくり、結婚生活において子供をもうけ、子供に教育を与える権利、病気の時や老齢期を安らかに過ごす権利、文化・教養を身につける権利、合法的な目的のためにグループをつくる権利、そして、正しい良心があれば万物の中に神の足跡を見つけ得るわけですから、何よりもまず、全く自由に、神を知り、神を愛する権利を擁護しなければなりません。

 正にこのような理由から、マルクス主義はキリスト教の信仰と両立し得ない、と繰り返さなければならないのです。こうは言っても、私は政治に首を突っ込んでいるわけではなく、教会の教えを述べているだけです。人々の心から、愛に溢れた神の現存を消し去ること、これを基盤にするような主義主張ほど信仰に反するものがあるでしょうか。正義を行うためにマルクス主義など必要はないと、誰の耳にも届くよう大声で叫ばなければなりません。重大な誤謬であるマルクス主義は、単に唯物的な考え方に基づいた解決法しか取らず、平和の神を無視するわけですから、人々の幸せと相互理解を妨げてしまうのです。キリスト教には、常にあらゆる問題解決に役立つ光があります。「言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に」32カトリック者たらんと努めさえすればよいのです。この点を、機会が訪れる毎に、時には機会を求めて、恐れず人々に告げ知らせましょう。

正義と愛徳

福音書を読んで、主の生涯の各場面の教えを、ひとコマずつ黙想してください。中でも、地の果てから果てまで主の教えを伝える使者・使徒となるべき一握りの人々に、準備としてお与えになった勧めや注意をよく考えて欲しいのです。使徒たちの道標となるべき規準として何を挙げることができるでしょう。愛徳についての新しい掟でしょうか。使徒たちは愛によって、異教の堕落した世界に一歩一歩道を切り拓いてゆきましたから。

 正義一辺倒では人類の抱える大問題を解決することなど到底できません。正義のみを闇雲に実行すれば、傷つく人が出てきて当然です。人々は、神の子としての人間の尊厳を認めよと言うでしょう。「神は愛」33ですから、すべてを優しくし、神化します。従って正義は、愛徳に包まれ、愛に支えられて行うべきです。神の愛があれば、容易に隣人を愛し、人間的愛を清め、そして高めてくれますから、いつも神の愛を動機にしなければなりません。厳格な正義を超えて、深くて豊かな愛へと進むのは容易なことではありません。また、そこまで進む人が大勢いるというわけでもありません。出発点あたりで満足する人もいます。彼らは正義などおかまいなしに、わずかばかりの慈善を愛徳だと思い込んでしまい、それだけでは果たすべき義務の一部分に過ぎないことに気づこうともせずご満悦なのです。ちょうどファリサイ派の人々が、週に二度の断食と全財産の十分の一税を支払うだけで律法の枡を溢れんばかりに満たしていると考えていたように34。

愛徳とは寛大に正義を超えることですが、それには第一に、義務の履行が要求されます。まず正当なところから始まり、平等を狙う。しかし、愛と呼べるところまで行くには、非常に上品で心細やか、丁重で優しい態度、一言でいえば、「互いに重荷を担いなさい」という使徒聖パウロの勧めを実行しなければなりません。「そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」35、つまり、十全な愛に生き、キリストの命令を果たしていることになるのです。

 世の母親ほど、明らかにこの正義と愛とのつながりを教える模範はないと、私は考えます。子供全員に同じ愛を注ぎますが、正に同じ愛があるからこそ、一人ひとりに対しては<不平等の正義>を実行し、それぞれに異なった接し方をします。一人ひとり異なる存在であるからです。隣人に対しても同じで、愛は正義を補い、そして完成させます。人に応じて異なる接し方をしなければなりません。悲しむ人には喜びを、教育のない人には知識を、孤独に沈む人には愛情を、というふうに。定義によれば、正義とは、各自が受けるべきものを各自に与えることであって、全員に同じものを与えることではありません。非現実的で夢のような平等主義こそ、ひどい不正義の源にほかならないのです。

 子に対する母親のような態度を保とうとすれば、「ヒトの子が、仕えられるためではなく仕えるために(…)来たのと同じように」36とお教えになったイエス・キリストのように、自分のことを忘れて、人々の役に立つことのみを唯一の望みとしなければなりません。そのためには、自分の意志を神のお望みに従わせ、すべての人々のために働き、永遠の幸せと人々の安寧のために戦わなければならないのです。依託と奉仕の生活を営む人は正義の人であると言えますが、その正義の人になろうと思うなら、今述べた以外に道はないでしょう。

非現実的だと考える人がいるかもしれませんが、そう思われても私は一向にかまいません。たとえそれが愛徳を信じているからであったとしても、これからも信じ続けることを約束します。そして私は、主がこの世で生きながらえさせてくださる限り、キリストの司祭として、唯一の父なる神の子であるがゆえに兄弟である人々の間に、一致と平和が保たれ、人間が互いに理解し合い、信仰という唯一の理想をすべての人々が分かち合うよう、努力を続けます。<いとも賢明>にして<信実な>聖母マリアと、その浄配聖ヨセフ・完成された義人37の模範に手助けをお願いしましょう。今まで黙想してきた種々の徳を、神の御子イエスのみ前で実行なさったお二人は、私たちがこれらの徳を一つひとつしっかりと自分のものとし、いついかなるときも主にふさわしい弟子として、賢明と正義と深い愛徳の人となることができるよう、恩寵を取り次いでくださることでしょう。

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