小事は大事

1960年4月11日


うずいぶん昔のこと、(スペインの)カスティーリャの街道を通ったとき、遠くに見えた野原の光景に心を打たれ、それ以来、幾度も祈りの材料として役立ててきました。数人の男たちが、一所懸命に力を込めて大地に杭を打ち込んでいる。それがすむと、杭に金網を張って囲いができあがる。すると、羊飼いたちがやってきて、連れてきた羊の群れを一頭ずつ名指しで呼んで一か所に集め、保護するために囲いの中に入れてゆく。

主よ、今日は特に、あの羊飼いと囲いのことが思い出されます。あなたと語り合うため、ここに集う私たちは皆、そして世界中の大勢の人々も、あなたの羊の群れの一人であることを知っているからです。あなたは仰せになりました。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知り、わたしの羊もまたわたしを知っている」1。あなたは私たちをよくご存じです。私たちが善き牧者の呼び声にいつも注意して耳を傾けて従いたいと思っていることをよく知っておられます。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」2。

四方を羊に囲まれているキリストの姿にはたいへん心を惹かれます。その絵を、私が毎日ミサをたてている聖堂に飾りつけてくれるよう頼みました。また、色々なところに、神の現存の<触れ役>として、イエスの言葉を刻んでもらいました。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」3。それはちょうど、牧者が自分の羊を相手にするときのように4、イエスが私たちを危険から守り、教え導いてくださることを常に思い出すためです。こういうわけで、カスティーリャの思い出がここでは本当に見事に当てはまると思うのです。

神は聖人を期待しておられる

 皆さんも私もキリストの家族の一員です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」5からです。主から受けたこの無償の選びは非常に明白な目標を示しています。すなわち、「私たち一人ひとりの聖化」です。聖パウロも幾度となく繰り返しています。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」6。それゆえ、この頂に達するためには主の囲いの中にいることを片時も忘れてはならないのです。

もう何年も前のある日、私はバレンシアの司教座聖堂で祈っていました。そのときの想い出がなかなか記憶から消え去りません。そこには福者リダウラという人の墓があります。その前を通り過ぎようとしたときに、こんな話をしてくれた人がいました。ある時、司祭リダウラは年齢を尋ねられました。彼はもうかなり高齢でしたが、信頼し切った様子で答えました。「ほんのわずかですよ。神様にお仕えしてきた年月は」。皆さんのうちの多くは、この世で、今の環境で、仕事や職務を通して、主に接し、主に仕える決心をしてから、まだ片手で数えられるほどの年月しか経ていないことでしょう。このような細かな話はさほど重要でないかもしれませんが、次のことは大切です。イエス・キリストはすべての人を例外なく聖性に招かれたこと、また、この招きにあずかった一人ひとりが内的生活を深め、キリスト教的な徳に日々進歩すべきであること。しかも、どのような程度でも良いというのではなく、素晴らしいと言えるだけでなく、英雄的と言えるまで努力することが要求されているということ、これを確信して心に深く刻み込まなければなりません。

皆さんに示したこの目標、というよりは、神がお示しになったという方が正しいでしょうが、とにかくこの目標は夢でも幻でもなく、実現できない理想でもありません。私たちと同じ市井の男女が、無数の具体的な模範を示しています。彼らは、どこにでもある四つ辻で、「隠れてお通りになる」7イエスに出会い、愛を込めて日々の十字架8を抱きしめ、主に従おうと決心した人たちです。あらゆる面で崩壊と妥協と無気力、放縦と無政府状態が広がっている今日、「世界的な危機は聖人の不足である」という、あの簡潔だが深い信念が一層現実味を帯びてきます。司祭になってからずっと、私はあらゆる人々にこのことを伝えるために努力してきました。

内的生活。それは、すべての人々に訴える主の呼びかけ、主の強い要求です。私の故郷の表現を使うなら、「頭のてっぺんから爪先まで」聖人にならなければなりません。正真正銘の純粋な、それゆえ列聖に値するキリスト信者になるべきなのです。そうならなければ、ただひとり主と仰ぐべきキリストの弟子としては失格です。また、神が私たちを慈しみ深い眼差しでごらんになり、この世で聖人になるための戦いに勝つよう恩寵をお与えくださるとき、同時に使徒職の義務をも課せられていることに注目しましょう。教父の一人が言うように、このような選びを受けたからには、人々の救いを望む心が強くなることは、ただ人間的な面から見ただけでも理解できるのではないでしょうか。「役に立つものを発見したとき、誰もが他人にもそれを知らせようとするだろう。だから、主に至る道を人々と共に歩むことを望まなければならない。広場や公衆浴場に行く途中で、暇を持て余している人に出会ったら、一緒に来ないかと誘うだろう。この習慣を霊的なことにも応用しなさい。神に近づこうとするとき、一人で行ってはならない」9。

 時間を無駄にしたくはありません。キリスト教が生まれて以来ずっと、環境上の困難はあったのですから、環境を口実にすることはできないでしょう。そこで、次の事実を肝に銘じておいて欲しいと思います。周りの人々を効果的に神のもとに連れて行けるか否かは、内的生活の深さに比例するということです。キリストがこうお決めになったのです。使徒的活動の効果を上げるためには聖人になる必要があります。もっと正確に言うなら、忠実を保つ努力をしなければならないということです。この地上に生きている間に聖人になることはできないからです。信じ難いことですが、神と人類は、私たちの忠実を必要としているのです。そして、その忠実とは、曖昧さのない、確かな忠実、付け焼き刃でも中途半端でもない忠実、キリスト者としての召し出しを責任をもって受け入れ、精魂を込めて実行する忠実でなければなりません。

おそらく皆さんの中には、私が一部の選ばれた人々のことを話しているのだと考える人もいるでしょう。しかし、臆病な心や楽を求める気持ちに負けて、そんなに簡単に自らを欺かないでください。しっかりと、「もう一人のキリスト」、キリスト自身にならなければならないと呼びかける神の要請を感じ取ってください。言い換えれば、私たちの行いが信仰の規範に固く結びついていなければならないという、目下の急務を自覚して欲しいのです。私たちの追求する聖性は二流の聖性ではない。二流の聖性などというものは存在しないからです。聖人になるための主たる条件は人間の本性に備わっており、それは愛するということです。「愛はすべてを完成させるきずなです」10。主ご自身がお与えになった掟に明らかなように、条件を付けないで、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛」11する愛徳のことです。聖性とはこの愛徳の実行にほかなりません。

確かに、これは高邁で実現困難な目標です。しかし、生まれつきの聖人などいないことを忘れないでください。聖人とは、神の恩寵とそれに対する応答という消え絶えることのない火の中で鍛え上げられるものです。初代教会の著作家の一人が、神との一致についてこう言っています。「発育のはじめはすべて小さなものである。それが徐々に大きくなるのは、徐々に栄養を得て確実に成長するからである」12。ですから、真のキリスト信者として立つことを望むなら、もちろん、苦しいながらしばしば哀れな体に鞭打っても自らを辱める心構えを、皆さんがもっておられることを私は知っていますが、とにかく、いかに些細な事柄にも細心の注意を払わなければなりません。主がお望みになる聖性は、仕事や毎日の義務を、神を愛するがゆえに果たすことによって達成されるからです。ところで、毎日の仕事や義務は、たいていの場合、小さいことの積み重ねです。

幼児の生活と小事

  (フランスの)物語に出てくるタルタリンという男のように、自宅の廊下でライオン狩りをやろうという、子供のように馬鹿げた夢に、いつまでも夢中になっている人がいます。家には、たとえいたとしても鼠くらいでしょうに。このような人々のことを考えながら、皆さんに繰り返し思い出していただきたいことがあります。日々の仕事や義務を忠実に果たすことが、いかに神的で偉大であるか、神とあなたしか知らないそのような小さな戦いが、どれほど主をお喜ばせするかということです。

 目も眩むような偉業を行う機会は、そう度々訪れないことを承知しておいてください。そのような機会は滅多に現れないのです。その反対に、小さなこと、平凡なことを通して、イエス・キリストヘの愛を示す機会には事欠きません。聖イエロニモも言っています。「ごく些細なことにも霊魂の偉大さが現れる。創造主に感謝の心を上げるにしても、天と地、太陽と大海原、象とラクダ、牛と馬、豹と熊とライオンにおいてだけではなく、形よりは名前によってしか区別できないような蟻や蚊、蝿やみみず、その他の小動物において主を称える。大きなものにおいても小さなものにおいても、同じように造り主を賛美する。同じように、神に心を捧げる人は小さなことにも大きなことにも同じ熱意を示すのである」13。

「わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」14。主のこの言葉を黙想すると、私たちの唯一の目的が聖性であることが分かります。人々を聖化するためには自らが聖人にならなければならないのです。同時に、誘惑する者が来て、巧妙に誘うこともあります。次のような思いに襲われることもあるかもしれません。神の招きに応えた私たちは少数者にすぎず、それも出来の悪い道具であると考えてしまうのです。人類全体と比べて、私たちは少数にすぎず、個人的にみても全く価値のない人間であることは事実です。しかし、師イエスの言葉は権威ある御方の言葉です。キリスト信者は、光であり塩、世のパン種である。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませ」15なければならない。正にこの理由から、私たちは、百人いれば百人とも、すべての人々に、いかなる差別もなく関心を持たねばならない、といつも説いてきたのです。キリストがすべての人々を贖ってくださったこと、また、たとえ少数にすぎず、無能をかこつ身であっても、その私たちを道具として、救いを全世界に告げ知らせるよう、主が望んでおられることを確信しているからです。

 キリストの弟子なら、決して人をひどく扱わないはずです。誤りは誤りとしてはっきりさせねばなりません。しかし、過ちを犯した人に対しては、愛をもって接し、正してあげます。万一そうしなかったら、その人を助けることも、聖化することもできないでしょう。仲良く過ごし、理解し、赦して、兄弟になる必要があります。十字架の聖ヨハネも勧めているように、どのような時でも、「愛のないところに愛を注ぎ、そこから愛を引き出さなければなりません」16。これは、職業や家族関係、社会的関係といった、目立たない場においても実践すべき勧めです。それゆえ、あなたも私も、周囲にある平凡な機会を利用し尽くし、贖いの協力者として、心地よく味わい深い重荷を日々の生活に感じながら、隣人と私たち自身、そして同じ理想を分かち合う人々を聖化しなければならないのです。

主のみ前で祈りを続けましょう。何年も前に利用した覚え書きに、今もお新鮮さを微塵も失っていない言葉があります。それは、アビラの聖テレジアの言葉です。「たとえ仕事をやり終えても、神をお喜ばせできなかったとしたら、すべては無、いや無以下です」17。 自らの目的から遠ざかったり、神が人間をお造りになったのは聖性に招くためであることを忘れてしまったりするなら、平和と落ち着きを味わうことができなくなるわけもお分かりになるでしょう。気晴らしをするときも、寛ぐときも、この超自然的見方を決して失わないよう努力しなければなりません。休息や気晴らしは、私たちの生活の中で、仕事と同じく大切なものだからです。

 なるほど皆さんは、この地上での仕事において自在にイニシャティブをとって、専門分野で頂上を究めることも、華々しい成功を収めることもできるでしょう。しかし、私たちの仕事のすべてを統べるべきこの超自然的見方を失うならば、道を誤って取り返しのつかないことになってしまいます。

余談ですが、この場に本当にふさわしい話題なので、少し本筋から逸れることをお許しください。私は今まで出会ったことのあるどなたに対しても、その人の政治的見解について尋ねたことは一度もありません。私は政治問題に関心がないのです。このような姿勢を保つことによって、聖なる教会に仕えるために神の恩寵と慈しみに助けられ、私のすべてを捧げてきたオプス・デイの精神をはっきりと人々に示してきました。政治問題は私の関心事ではありません。キリスト者は、全く自由に、教会の教導職が定めた範囲内で、政治や社会、文化などの問題に自ら望む方法で関与することができます。もちろん、自由の行使に伴う責任を負うのは当然です。万一、教導職の範囲を越えるようなことがあれば、その時こそ、私はその人の救いを思って心配することでしょう。その時には、告白する信仰と行いとが明らかに対立することになるわけですから、私ははっきりと注意するつもりです。しかし、神法から離れていない限り、意見を述べる自由は、侵すことのできない権利として尊重されなければなりません。ただ、このことを理解できない人々もいます。彼らは十字架上でキリストが勝ち得てくださった自由18が本当に何を意味するかを知らないのです。このような人たちは互いに敵対する党派心に負けて、現世に関する意見を必ず信ずべき教義であるかのよう押しつけ、人間の尊厳を卑しめ、信仰の価値を否定し、その結果、信仰に関するとんでもない誤りを生じさせることになります。

話をもとに戻しましょう。皆さんが社会において、公の活動において、専門職において、最も人目を引くような成功を勝ち取ることができたとしても、内的生活を顧みないで主から離れるなら、最後には間違いなく挫折する。そのように先ほど述べました。神のみ前では、真のキリスト信者として立つために戦う人が勝利を得るのです。この点こそ、決定的に重要な点です。中途半端な中道の解決策などありません。人間的に判断するなら大変幸せであるはずなのに、落ち着きのない苛々した生活を送っている人々を大勢ご存じでしょう。その人々は気前よく喜びを振りまいているように見えますが、その心をほんのわずかでも傷つけると、渋い胆汁よりも苦いものが出てきます。誰であっても、絶えず真心を込めて神のみ旨を果たし、神に感謝を捧げ、神を称え、神の国を全人類に広げる努力をするなら、このようなことは起こりません。

首尾一貫した生活

洗礼によって「もう一人のキリスト」になるよう召されたカトリック信者が、神の子でありながら、ただ形だけの信心で良心を満足させていることを見るにつけ、心が痛みます。その人々の宗教心は憐れむべきものであって、自分に都合がよいときだけ、時々祈りに赴き、腹を満たすため決まった時間に食事を摂ることには几帳面な注意を払う一方、ミサは定められた日に限ってしまう。しかも、その義務さえ常に果たすわけではない。また、エサウのように「あじ豆スープのために」、つまり自分の地位を守るために、信仰において譲歩したり、信仰の中身を変えたりさえする。そうしてから、厚かましくも立身出世のためにキリスト信者のレッテルをかかげ、人々の躓きとなる。もってのほかです。私たちはこんなレッテルだけでは我慢できません。どこから見ても百パーセントのキリスト信者でなければならないのです。そして、そうなるには、間に合わせの手段ではなく、霊的に適切な糧を探す必要があります。

 がっかりすることがないように、前もって私が繰り返し述べてきたことは、よくご存じのことと思います。内的生活とは毎日何度も始めることにあるということを、皆さんは自らの経験に照らしてよく知っておられ、休みなく戦わなければならないことも悟っておられる。良心の糾明において、たびたび小さな悲しみに襲われることもあるでしょう。時には、愛や献身、犠牲の精神や細やかさが不足していることをまざまざと見せつけられ、それらが途方もなく大きなものに思われたという経験もなさったことでしょう。私にも同じ経験があります。私事に言及するのは恐縮ですが、こうお話ししている間も、主と共に私の霊魂の必要事について思いを巡らしています。心の平和を失うことなく、真実の痛悔をもって、もう一度始めようという決意を強めようではありませんか。

一九四〇年代の初め頃、私はよくバレンシア地方を訪れました。その頃は、人間的にみて、これといった手立ては何も持たず、今ここにいる皆さんと同じく、この哀れな司祭に付いてきた人たちと共に、その時々に見つかった場所、あるときには静かな浜辺で、ちょうど師キリストの最初の友人たちのように祈ったものです。覚えていますか。ルカがパウロと共にティルスを去ってエルサレムに上ろうとしたときのことを。「彼らは皆、妻や子供を連れて、町外れまで見送りに来てくれた。そして、共に浜辺にひざまずいて祈り、互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った」19。

 ある夕暮れ時、真っ赤に輝く西日に照らされて一艘の舟が岸に近づき、その舟から褐色の肌をした男たちが跳び下りてきました。水でびしょ濡れの上半身は裸で、プロンズ像と見まがうばかりに輝き、胸は岩のように厚い漁師たち。その漁師たちが、銀色に光る魚で溢れんばかりの網を引き揚げ始めました。足を砂に深く埋め、万力を込めて網を引いています。するとそこへ、これまた真っ黒に日焼けした子供が一人現れ、漁師たちに近づくと、ひょろひょろしながら小さい手で網を引き始めたのです。それが何の役にも立たないことは誰の目にも明らかでした。ところが、性情粗野で決して上品とは言えない漁師たちは、子供をみて優しい気持ちに負けたに違いありません。確かに足手まといになっているにも拘わらず、その子が手伝うのを追い払おうともせずに許したのです。

 その時、私は皆さん方と自分自身のことを考えました。当時はまだ知ることのなかった皆さんと私について、さらに、この網引きに似たような私たちの日々の行いについて色々と考えたのです。主なる神のみ前で私があの子供のように振舞うなら、また、自らの無力を知りながらも神の計画に手を貸す心構えをもっているなら、今より一層簡単に目的を達することができるだろう、獲物でいっぱいの網を岸に引き揚げることができるだろう、と思ったのです。人間の力の及ばない所にも、神の力が働くからです。

信実・誠実な心で霊的指導を受ける

キリスト信者としての道を歩む者に、どのような義務があるかは充分ご存じでしょう。その道を休みなく歩んで行けば、平穏のうちに聖性へと導かれます。また、いくつかの困難に対してのみならず、あらゆる問題に対し、用心を怠らない心をお持ちのことと思います。障害があることは、道のはじめの頃からすでに予想していました。そこで今、私が力説したいのは、皆さんが一人の霊的指導者に、すべての聖なる野心と内的生活にかかわる日々の問題、失敗と成功について、包み隠さずに打ち明け、指導者の助けと導きにすべてを任せるということです。

 霊的指導を受ける時は、できるだけ信実・誠実な態度で臨まねばなりません。何事であっても言わずにすますことのないようにしましょう。恐れや恥ずかしさを捨てて、心を完全に開くのです。もしそうしなければ、この平らで広い道も紆余曲折し、最初なんでもなかったことも大難事になってしまいます。「突然襲いかかって来た一度だけの失敗によって信仰の道を見失うと考えてはならない。信仰を失った人々は、道の最初に誤ったか、長い間、自分の霊魂に気を配らなかったからである。その結果、徐々に徳が衰える反面、悪徳が増し、最後には惨めにも自らを破滅させるに至ったのである。(…)家屋は不時の天災による一撃で倒れるものではない。土台に何らかの不備があったか、その住人が久しく注意を払うのを怠ったかした結果、最初は極めてわずかであった欠陥が、堅固な骨組を徐々に侵してゆき、嵐や大雨がやって来たとき、遂に取り返しのつかない状態まで破壊され、長年の怠慢をさらけだすのである」20。

 例のジプシーの告白の話を覚えていらっしゃいますか。これは単なる話にすぎません。いうのも、私はジプシーをたいへん尊敬していますし、また告白の内容については決して話してはならないからです。かわいそうなその人は心から痛悔していました。「神父さま、私は端綱を一本盗みました」。「大したことではないじゃないか」。「その端綱の後ろにロバが一頭ついてきていました。そして、その後にもう一本の端綱があって、…それにもう一頭のロバがつながれてあり、…とうとう二十頭盗みました」。皆さん、これと全く同じことが私たちにも起こります。最初は端綱を盗み、その後すぐに他の悪にも譲歩する。そうして、私たちを卑しくし恥じ入らせる一連の悪への傾きと惨めさに妥協してしまう。社会生活においても同様のことが起こります。最初に他人を少し軽く見ると、そのうち無関心という最も冷淡な態度のうちに、互いに背を向けて暮らすようになってしまうのです。

「狐たちをつかまえてください、ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから」21。小さなことに忠実でなければなりません。しかも、それは並の忠実さではなく極上のものでなくてはならないのです。忠実になる努力を重ねるなら、子として、全幅の信頼を込めて聖母の胸に馳せ寄るようになるでしょう。この祈りのはじめに、私たちが神と親しく付き合おうと決心してから、まだあまり時は経っていないと申し上げたことを憶えていらっしゃるでしょう。惨めで卑小な私たちが、偉大な母、いとも清い神の御母に近づくのは真に理にかなった態度です。神の御母は、私たちの母でもあるからです。

 もう一つ、逸話をお話ししましょう。本当にあったことですが、もう何十年も前のことですし、いま話しても差し障りはないでしょう。その人の表現が露骨であり、また、対照の妙を備えているので、考えを深める助けとなると思います。当時、私は色々な教区の司祭を対象とした黙想会を指導していました。彼らに関心をもち、愛を示して、一人ひとりを訪れて、司祭たちが心を打ち明けて、良心の重荷を下ろすよう仕向けました。私たち司祭もまた、他人の助言と支えを必要としているからです。私は一人と話を始めました。彼は少々粗野でしたが、高邁で誠実な性格の持ち主でした。心を傷つけないように注意しながら、言うべきことをはっきりと述べて、心を開いてあげようと試みてみました。その司祭が心にもつ傷ならどんなものでも癒してあげたかったからです。話の途中で彼は、私の言葉を遮って、およそ次のようなことを言いました。「私の牝ロバの奴が羨ましくてたまらない。そいつは私の小教区七代にわたって主任司祭に仕えてきた。そいつに関しては批判の余地がない。私も同じようにしておればよかった…」。

ぶん私たちはロバに対するこの司祭の賛辞に値しないでしょう。よく糾明してみましょう。確かに十二分に働きました。あれこれの責任ある地位を占め、色々な世間的な仕事において成功を収めてきました。しかし、神のみ前に出て、自分について嘆かずにいることができるでしょうか。真心から、神と、兄弟である隣人に仕える努力をしたでしょうか。それとも、利己主義や名誉心、野心や現世的な儚い成功を求めたのでしょうか。

 私が無遠慮に話すのは、一つには私自身がまず、まじめな痛悔の心をもちたいと思うからですが、皆さん方一人ひとりにも、神の赦しを願うようお勧めしたいからです。自分の不忠実、度重なる過ち、失敗、臆病を反省して、イエスの聖心に向かい、あのペトロの痛悔の言葉を繰り返しましょう。「主よ、あなたは何もかもご存じです」。私の惨めさにもかかわらず、「あなたを愛していることをあなたはよく知っておられます」22。私は敢えて付け加えたい。主よ、まさしく私の惨めさゆえに私があなたをお愛ししていることをあなたはご存じです。惨めであるからこそ、私の力であり砦であるあなたによりかかるからです。「神よ、わたしの魂はあなたを求める」23と。そして、再びやり直すのです。

神の現存を保つ

内的生活。日常の仕事における聖性。小事における聖性。専門にしている仕事、日々の努力を通じて得る聖性。人々を聖化するための聖性。知り合いとはいえ、あまりよくは知らない人のことですが、その人はある日、飛行機に乗る夢を見ました。飛行機に、といっても機内にではなく、外側、つまり翼の上に乗っていたのです。かわいそうに、どれほど苦しんだことでしょう。思うに、内的生活がなく、内的生活に注意を払わないキリストの弟子たちが神の高みに上がっても、飛行機の翼にしがみつくこの人のような状態にいることを、主が教えようとなさったのでしょう。それは、いつ落ちるか分からない、真に不安定で苦しい状態です。

 実際、活動に身を投じながら、祈りと犠牲、さらに堅固な信仰生活を得るために必要な手段を放棄している人々は、いつなんどき道を踏み外すかも知れない深刻な危険状態にいるのです。必要な手段とは、頻繁にあずかるべき秘跡、黙想、念祷、良心の糾明、霊的読書、聖母と守護の天使とのゆみない付き合い、などのことです。それだけでなく、これらの手段を使えば、キリスト信者の生活はまことに愛すべきものとなります。あたかも蜜が流れ出るように、この種の手段に備わる内的な豊かさから、神的な幸せと甘美さが溢れ出るのです。

心の中でも、また、付き合いや仕事など外に表れる行いにおいても、神の現存を絶えず保ち、神との内的な語り合いを続けなければなりません。あるいは、次のように言った方がよいかも知れません。絶えざる神の現存とは、ふつうは言葉に表れるものではないけれども、重要な仕事であれ些細な仕事であれ、仕事を果たす際の努力と愛のこもった勤勉な態度に、さりげなく表れるべきであると。このような努力を怠れば、神の子としての身分と甚だしく矛盾する生き方をすることになるでしょう。「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」24ように、摂理によって、主が手の届くところに置いてくださった手段を無駄にしてしまうことになるからです。

 戦時中、前線に働く多数の青年たちを司祭として世話するため、しばしば旅に出ました。その頃、ある町の近くの塹壕で起こった、今でも忘れられない出来事があります。一人の若い兵士が、見たところ柔弱で臆病そうな別の兵士についてこう言ったのです。「あいつは気骨のない男だ」。私たちのうちの誰かについて、気骨のない人間であると躊躇なく断言されるようなことがあれば、まことに悲しいとしか言いようがありません。自分は真のキリスト者、つまり聖人になりたいと思っていると自信をもって言える人でも、自らの義務を果たすに当たって、絶えず神に愛と忠実を示さないなら、その人は確かに手段を軽視しているのです。万一、私たちがこの有様なら、私もあなたも、気骨のあるキリスト信者とは言えません。

たとえ、惨めさだらけではあっても、心の底に聖人になろうという、燃えるような熱い望みを育てなければなりません。こう言っても驚かないでください。内的生活に進歩するにつれて、自分の欠点がいよいよあからさまに見えてくるものです。内的生活が深まるにつれ、神の恩寵が虫眼鏡のような働きをするようになり、微少な埃や泥、あるいはほとんど目につかないくらいの砂粒でさえ、拡大されて大きく見えはじめる。霊魂が神的な繊細さを身につけると、神の清さのみを憧れる良心は、ごく小さな影にも焦躁を感じるようになるのです。その時こそ、心の底から申し上げるときでしょう。主よ、本当に聖人になりたいのです。すべてを投げ打ってあなたに従い、あなたにふさわしい弟子になりたいのです、と。そしてすぐに、心を奮い起たせる偉大な理想に、日々新たな心で立ち向かう決意を固めなければなりません。

 イエスよ、あなたへの愛によって、ここに集う私たちが最後まで堅忍できますように。あなたご自身が心に蒔いてくださったこの熱意を行いに表すことのできますように。幾度となく自分に問いかけてみてください。私は何をするためにこの世にいるのだろうか。すると、毎日の仕事を、愛を込めて仕上げ、小さなことにも努めて気を配ることでしょう。聖人たちの模範に目を留めましょう。私たちと同じく、弱さと欠点をもつ生身の人間でしたが、神を愛する心から弱さや欠点に打ち勝ち、克己できたのです。聖人たちの行いを黙想し、花から純度の高い蜜をこし出す蜜蜂のように、教えを引き出そうではありませんか。また、周りの人々がもつ多くの自然徳(人間徳)を身につけたいものです。熱心な仕事ぶりと自己放棄の精神や喜びについて教えてくれるでしょう。そして、どうしても兄弟的説諭で助けてあげる必要のある場合を除いて、人々の欠点には必要以上にこだわらないよう努力しましょう。

キリストの舟の中で

主がなさったように、私も好んで舟と網について話します。そうするのは、この福音書の一節から具体的でしっかりとした決心を引き出すためです。聖ルカが語っています。数人の漁師がゲネサレト湖畔で網を洗い繕っている。岸辺につながれている舟に近づき、そのうちの一曳、シモンの舟に乗るイエス。主はごく自然に一人ひとりの舟に乗ってこられる。これは人々がしばしば不平を鳴らすもととなるのですが、主は私たちの生活を<複雑>にするためにおいでになる。主は人生という路上で、皆さんや私と往き交い、私たちの人生を<複雑>になさるのです。ただし、愛を込めて、私たちの自由を尊重しつつそうなさいます。

 ペトロの舟から説教なさった後、漁師たちに仰せになります。「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」25。キリストの言葉を信じた弟子たちは、キリストの言葉に従い、あの大漁を得ます。ヤコブやヨハネと同じく驚きのさめやらないペトロを見つめて、主は言われます。「『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる』。そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」26。

 あなたの舟、すなわちあなたの才能、理想、富というものは、イエス・キリストの意に委ねなかったり、主が自由にお入りになることを認めなかったり、あるいは、それらを偶像視したりすれば、何の値打ちもなくしてしまう。水先案内を断り、一人で舟を出すなら、それは超自然的に見て難船への道を一直線に進むことになります。主の助けと指導を認め、またそれを求めてはじめて、人生の嵐や逆風を無事に切り抜けることができるのです。神のみ手にすべてを委ねてください。あなたの考え、想像上の冒険、気高い人間的な理想、清い愛が、キリストの聖心を通って清められますように。さもなければ、遅かれ早かれ、利己主義にぶつかって沈没してしまうことでしょう。

神に舟の舵をお任せする、つまり主を船長として迎えるなら安全この上なしと言えます。たとえ神がいてくださらないように思えても、神が眠っておられ、全く注意を払ってくださらないように感じても、あるいは、暗闇の中で嵐が起こったとしても、主が船長であれば、危険なことは何も起こりません。聖マルコは、使徒たちもそんな状態になったことがあると述べています。「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。(…)イエスはすぐ彼らと話し始めて、『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた」27。

 皆さん、この世では本当に色々な事が起こります。沢山の人の苦労、難儀、虐待、文字通りの殉教、英雄的行為について語ることもできます。私たちにはイエスが眠っておられるように映り、私たちに耳を傾けてもくださらないと思えることがしばしばあります。ところで、主は弟子たちをどのように扱われたのでしょう。聖ルカは次のように記しています。「(湖を渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、『先生、先生、おぼれそうです』と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、『あなたがたの信仰はどこにあるのか』と言われた」28。

 神に自らを捧げるなら、主もご自身をお与えになる。主に全幅の信頼を寄せ、けちけちせずに主のみ手に自分を投げ出さなければなりません。舟は主のものであることを、行いによって認める必要があるのです。持っているものすべてを主に使っていただければと思いますが、この望みを行いで示さなければなりません。

 最後に、聖母の執り成しをお願いしながら、次のような決心を立て、この祈りのひとときを終りたいと思います。信仰によって生きること。希望をもって堅忍すること。イエス・キリストから離れないこと。本当に、本当に、本当に主を愛すること。神のことに夢中になってこの愛の冒険を続けること。粗末な舟である私たちにお乗りになり、霊魂の主人となってくださるキリストの邪魔をしないこと。誠実な態度で一日中、昼も夜も、主の現存を保つ努力をすること。主が私たちを信仰にお呼びになったのです。「主よ、お話しください。僕は聞いております」29。主のもとでのみ、この世の幸せと永遠に続く真の幸せのあることを確信し、善き牧者の口笛と声に魅せられたので、私たちは主の囲いの中に入ったのです。

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