神との親しさ

1964年4月5日


白衣の主日

白衣の主日を迎えると、私の国に昔から伝わる信心深い習慣を思い出します。主日の典礼は、霊的な糧、「混じりない霊的な乳を慕い求めなさい」1と招いています。この日には、復活祭の掟の遵守を助けるため、重病人のみならず、病に伏しているすべての人々に聖体を運んであげる習慣があったのです。

 大きな町では、小教区ごとに聖体行列を行いました。私が大学生の頃は、サラゴサ(スペイン)のコルソという広場のようなところを、大勢の男たちが燃えさかる蝋燭を手に、三つの行列をつくって練り歩いたものです。屈強な男たちは、両腕で抱える枝型の重い蝋燭のような大きな信仰心に燃えて、聖体に付き従うのでした。

 昨夜はなんども目を覚ましましたが、そのたびに射祷として、「新たに生まれたみどり児のように」2と繰り返していました。神の子であることを実感している者にとって、この言葉は実に申し分のない招きであると考えたのです。自分の置かれた環境にあっては、周囲に大きな影響を与えるだけの強さと勇気を持たなければならないとしても、神のみ前では自らを幼子のように考えるべきだからです。

私たちは神の

「新たに生まれたみどり児のように、混じりけのない霊的な乳を望みなさい」3。聖ペトロの言葉は見事というほかはありません。典礼がすぐあとで、「われらの力である神に歓呼の声をあげ」、父にして主にまします「ヤコブの神に呼びなさい」4と加えた理由もなるほどと頷けます。けれども本日は、イエスに対する最大の賛辞を吐露するミサはさておき、真剣な努力を傾けて信仰に生きようとする人々全員のために、私たちのつ確実性、つまり神の子であるという事実について、しばらく黙想したいと思います。

聖櫃から私たちをごらんになっているイエスはよくご存じなのですが、今の話題とは関係のないある事情から、私は自分が神の子であることを特に実感できる一生を過ごしてきたと言えます。意向を改め、自らを浄化し、主に仕えるため、また神の愛と私自身の屈辱をもとにして、すべての人々を理解し、そして赦すために、主の聖心のうちに入り込む喜びを味わうことができました。

 それゆえ、今皆さんに重ねてお願いします。いとも簡単に私たちを惑わす、弱さという悪夢から早く目覚めて、自らを改め、神の子としての自覚を強く持ってください。

 東方の地を巡り歩くイエスを模範にするなら、この真理をさらに深く理解できるでしょう。ヨハネの書簡には、「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています」5と書き記してあります。ところで、神の証しとはなんのことでしょうか。「(御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、)考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」6と聖ヨハネは答えています。

 この喜ばしい神との父子関係に、私は絶えず支えを求めてきました。どのような事情があっても、時によって色合いは異なったけれども、いつも神に申し上げたものです。主よ、私をこのような場に置き、あれこれと仕事をお任せになったのはあなたです。あなたを深く信頼いたします。あなたが私の父であることはよく承知しております、と。子供たちが父親に全幅の信頼を寄せる様子を幾度となく目にしてきました。子供のように神のみ手にすべてを委ねるならば、心は活力に溢れ、深くて強い落ち着きのある信仰心を獲得し、その結果、常に正しい意向で働くことができるということを、司祭としての経験から確信できました。

イエスの模範

「新たに生まれたみどり児のように…」。嬉しいことに、ありとあらゆるところでこの神の子としての自覚を人々に伝えることができました。神の子としての自覚がしっかりしているなら、ミサ聖祭の典礼に取り入れられた次の言葉を深く味わうことができるでしょう。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです」7。言い換えれば、人々と社会に平和をもたらすための偉大な戦いにおいて、困難を克服し、勝利を得ることができるというのです。

 私たちの力と知恵は、神のみ前で、卑小で無に等しい自らの状態を悟るところから生まれます。ところで、無力を自覚すると同時に、全幅の信頼を込めて御ひとり子イエス・キリストを人々に告げ知らせよ、励ますのは神ご自身です。たとえ惨めさや失敗が目についても、弱さを克服するために弛まず戦いを続けながら、キリストを人々に知らせるよう努力しなければなりません。

「善を行うことを学べ」8という聖書の勧めを、私は何度も繰り返してきました。確かに、善の実行の仕方を学び、それを人々に教える必要があります。しかし、それにはまず自分から始めねばなりません。友人一人ひとりに、人々に、どのような善を望めばよいのか、いかなる善を施すべきであるかを見つける努力が要求されています。神は私たちの父であり、私たちは神の子であるという事実を、言葉で表現できなくても、単純な心で眺めながら、人々に仕える方法を学んでゆく―神の偉大さを考えるために、これに勝る道はないのではないでしょうか。

再び師イエスに注目してみましょう。トマスが受けた叱責の言葉をあなたも耳にするかもしれません。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」9。すると、使徒聖トマスのように、「わたしの主、わたしの神よ」10、あなたを師と認めます、あなたの助けに支えられて主の教えを蓄え、その教えに従う努力をいたします、叫ぶ真摯な心に、痛悔の念が湧き上がってくることでしょう。

 福音書を開くと、イエスが退いて祈り、祈る主を弟子たちが眺めている場面が目に浮かんできます。主が祈りを終えるやいなや弟子の一人が近寄ってお願いします。「『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。そこで、イエスは言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ、み名が崇められますように…」』」11。

 このお答えを聞いて驚かずにいられるでしょうか。弟子たちはイエス・キリストと一緒にいる。そして、イエスは弟子たちとの語らいの間に祈り方を教える。あなたたちは神の子であるから、子供が父親と語り合うように、信頼して話し合えばよいと。このようにして、主は慈しみ深い心から、祈りの<秘訣>を明かしてくださいました。

 ある人たちは信心生活、つまり主との付き合いを、神との一対一で個人的な付き合いではなく、匿名の話し合いであると考えています。また、そのような話し合いを奨励して、理屈っぽく不愉快で紋切型の言葉を、幾度も繰り返すのです。それを聞くと、私はいつもキリストの次のような勧めを思い出します。「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」12。ある教父はこの章句を次のように解説しています。「キリストは長い祈りを避けるよう指示しておられると思う。ところで、長いというのは時間を指すのではない。終わりのない言葉の羅列のことである。(…)しつこく懇願を繰り返して、やる気のない悪徳裁判官を克服したやもめの例を、主ご自身が示してくださった。それだけではなく、真夜中に訪れて執拗に求める人に、友人だからというよりは、うるさくて仕方がないから、寝床から起きて願いを聞き入れた男の例も主が教えてくださった。(ルカ11,5-8と18, 1-8参照)この二つの例によって、主は、際限ない祈りを続けるのではなく、単純率直に自分の必要を願う祈りを絶えず続けよ、教えておられるのである」13。

 念祷を始めても集中して神と語り合うことができない、頭も涸渇して何も考えられず無感覚を託つのみである。このような状態になるなら、そんなときに、いつも私が努めて実行している方法をお勧めします。神のみ前にいることを意識し、少なくとも主にあなたの心を示してください。主よ、どうして祈ってよいか分かりません、何をお話しすればよいのか分からないのです、そう申し上げた瞬間から、あなたは確かに神に語りかけ、祈り始めているのです。

神の子としての孝愛

私は神の子である―このような自覚から生まれる孝愛は、心の底から出てくる姿勢とも言うべきもので、あらゆる思いと望みと愛情の底にあって、いずれ私たちの存在そのものに影響を与えます。子供が家庭の中で無意識のうちに両親を真似、親の仕草や癖や物腰を身につけ、多くの点で親に似てゆくことはご存じのおりです。

 神のよい子にも同じ傾向が見られます。どのようにしてか、どのような道を通ってかはわからないながらも、素晴らしい<神化>が実現して、信仰という超自然の光ですべてを浮彫にして見るようになる。そして、御父が人々を愛するように、私たちも人々を愛します。最も大切なことは、新たな勇気に満たされて主に近づこうと、日々の努力をたゆみなく続けるという点です。重ねて申しますが、弱さや惨めさを恐れる必要はありません。父なる神が、両腕を広げて助け起こそうと、待ちかまえていてくださいますから。

 倒れたのが子供であるか大人であるかによって、その場に居合わせた人々の反応がずいぶん違ってくることに注意してください。子供の場合なら、倒れても大して問題になりません。幾度も倒れて当たり前です。涙が出ると、男は泣かないぞ、と父親が諭す。子供は親の期待に応えようと精一杯こらえて、それで解決。

 ところで、大の男が平衡を失ってもろに倒れた場合はどうだろうか。同情心を引き起こすか、さもなければ物笑いの種になる。ひょっとしたらひどい打ち身をし、お年寄りなら取り返しのつかない骨折に苦しむことになるかもしれません。内的生活においては、新たに生まれたみどり児、ゴムでできているのかと思われるような、幼い子供のようになればよいのです。子供はぶつかり合い、転んでは楽しんでいる。倒れてもすぐ立ち上がることができ、必要なときには両親の慰めが待っているからです。子供のようになれば、たとえ内的生活に起こる衝突や失敗をすべて避けることはできないにしても、悲嘆にくれてしまうようなことはないでしょう。心に痛みを感じても、落胆することなく対処する。愛にして偉大、無限の知恵であり慈しみ深い御父、その御父の子であることを知る者のつ喜びで微笑みがこぼれる。長年のあいだ神に仕えてきた私は、神のみ前で本当に幼子であることができるようになりました。そこで、皆さんにもお勧めしたいのです。<新たに生まれたみどり児>のように、神の言葉、神のパン、神のお与えになる糧、神の力強さを求める信者としての道を歩んでください。

本当に幼い子供になりなさい。幼ければ幼いほど望ましいでしょう。司祭としての私の経験がそう教えます。長くて短いこの三十七年の間、具体的ではっきりとした神のみ旨を果たすべく努力を傾けてきました。倒れては立ち上がらなければならないことが何度も何度もありましたが、そのような時はいつも、幼子の態度を保ち、聖母の膝を求め、主キリストの聖心によりどころを求めることによって、力を得ることができました。

 霊魂をずたずたにするような大失敗、ときには取り返しがつかないと思われるほど害を与える失敗は、決まって人の助けなど要らないと考える高慢な心が原因です。このような状態に陥ると、神をはじめ、友人や司祭など適当な人に助けを求めることもできなくなり、哀れにも、不幸な状態に孤立して方角を見失い、道を踏み外してしまいます。

 今すぐ神様にお願いしましょう。決して自己満足に陥ることなく、常に、主の助けと言葉、パン、慰め、力を切に願うことができますように。聖霊は「混じりけのない霊的な乳を望め」と教えています。子供のようになりたいという望みを大きくしてください。高慢を打ち砕くには、これが最良の方法であることを確信してください。私たちの振舞いがよきもの、偉大なもの、神的なものであって欲しいと思うなら、神のみ前で幼子になるほか道はありません。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」14。

若い頃の思い出が再び蘇ってきました。あの人々の篤い信仰には全く感心させられます。いまなお典礼聖歌は耳に響き、香のかおりを吸いこんでいるような心地がします。大勢の男たちが、自分の弱さを象徴するかのような大きな蝋燭を、幼子のような心で支えている様子が、目に見えるようです。御父のみ顔を仰ぎ見る勇気がないのかもしれません。「神である主を捨てたことがいかに悪く、苦いことであるかを味わい知るがよい」15。この世の事柄に夢中になるあまり、神から離れるようなことには決してなるまいと、固い決心を新たにしたいものです。どう振舞えばよいか具体的に決心し、渇く人が水を求めるように神を求めようではありませんか。自分の無力を知るゆえ、絶えず御父を呼び求めるのです。

 話をもとに戻しましょう。幼子のようになる、神の子らしくなると言っても、実際にどうすればよいかを学ばなければなりません。次いで、それを人々にも伝える義務があります。神の子としてのあり方を身につけると、たとえ欠点はなくならないとしても、「信仰に堅く」16、行うに豊か、そして、歩みはしっかりとしてきます。万一、これ以上ひどい過ちはないと言えるほどの失敗をしても、迷わず立ちあがり、神との父子関係という道に戻ることができる。両腕を広げて待ちかまえている御父のもとに駆け戻ることができるのです。

 父親の腕を忘れた人はいないでしょう。母親の腕のように、優しく細やかではなく、甘えを許してくれなかったかもしれませんが、父親のあの逞しくて強い腕に抱かれると、暖かさと身の安全を感じとることができました。主よ、このような頑丈な腕と力強い手に感謝いたします。優しくも厳しい心に感謝いたします。私の弱さについても感謝したいところでしたが、弱さは望みたくありません。しかし、あなたは弱さを理解し、赦し、見逃してくださいます。

 これこそ、神との交わりにおいて用うるべき知恵であり、神がお望みになる知恵。これこそ数学の知識のようなものです。つまり、私たちは、いくら並べても役に立たない、数字の左側にならぶゼロのようなもの、それにもかかわらず、父である神は役立たずの私たち一人ひとりのあるがままの姿を認めてくださる。哀れな私でさえ、あなたたちのあるがままの姿を愛することができるなら、愛である神が皆さん方一人ひとりにいかほどの愛を注いでくださるか、容易に想像できるのではないでしょうか。ただし、良心をしっかりと育て、その良心に従って生活を律する努力、つまり戦う必要のあることを忘れてはなりません。

生活プラン

現在の信仰心と、信仰心のあるべき姿を振り返り、神との一対一の関係を改善するための具体的な方法を糾明すれば、私の話を理解してくださった方なら、克服できないような誘惑について考えることはないでしょう。私たちが各瞬間に小さな贈り物を愛のしるしとして差し上げると、主は大いに喜んでくださいます。

 絶えず一定の生活プランに従うよう努めてください。数分間の念祷、できれば毎日のミサ、また、しばしば聖体拝領をすること、大罪がなくとも定期的にゆるしの秘跡にあずかること、聖体訪問、ロザリオの祈りと神秘の黙想、その他すでにご存じの、あるいはこれから学ぶことのできる、数多くの信心のわざがあります。

 船の内部にある鉄の仕切りのような融通の利かない生活プランではなく、社会の中で仕事を持ち、社会関係や義務に囲まれて生きる人の、それぞれの条件に合わせた日課を立てることができるでしょう。これら日常の諸活動を無視することはできない相談ですから、生活プランは使う人の手にぴったりと合うゴム手袋のような条件を備えていなければならないのです。

 信心のわざは多ければ多いほど良いというわけではありません。やる気があろうとなかろうと、一日のうちにできるものに<寛大に限定>するのが良策でしょう。信心のわざを実行していれば、気づかぬうちに観想生活に入ることができます。愛の行為、射祷、感謝と償い、霊的聖体拝領などが自然に心から出てくるようになるでしょう。電話の受話器をおくとき、ドアを開け閉めするとき、教会の前を通るとき、仕事の始めや終わりに…。いずれの場合も父である神を想うことができますから、結局は日常の仕事に従事しながら観想生活をしていることになるのです。

神との父子関係に憩いを求めてください。神は限りなき愛と優しさに溢れた御父ですから、何度も心の中で、<父よ>と呼びかけたいものです。心の中で主に申し上げましょう。あなたに愛を捧げ、あなたを礼拝します、あなたの子であることに誇りを感じ、力を得ることができます、と。ところで、このような態度を保つには内的生活のプログラムが必要になります。それはわずかではあっても、神へのしっかりした信心・孝愛という形にあらわれ、やがて神のよい子にふさわしい心と生き方を会得させてくれるでしょう。

 信心の墓と言われる惰性に陥らないよう警戒してください。惰性に陥ると、往々にして大手柄を立てんとする野心にかられ、大きなことを狙いはするが、日常の義務は都合よく遅らせてしまいます。そのような誘惑が訪れたときには、神のみ前で糾明してください。いつもと同じところで戦いを続けるのが嫌になったのは、戦うに当たり、神を求めていなかったからではないだろうか。惜しみない犠牲の精神を失くしたため、忠実に最後まで仕事をやり遂げる力を失ったのではないだろうか。このように自らを糾明して欲しい。そうすれば分かるでしょう。小さい犠牲、効果の上がらぬ使徒職が、この上なく不毛な努力に思えてくる。心は虚しくなり、新しい計画ばかりを立てては夢を託し、全き忠誠を望む天の父の声に耳を貸さなくなる。大げさなことばかりを夢にみて、聖性に向かって一直線に導いてくれる道、最も確かな道を忘れてしまう。これこそ、明らかに、超自然の見方を失ってしまった証拠です。幼子に過ぎない自分を忘れてしまったがために、謙遜な心でやり直しさえすれば、御父が素晴らしいわざを実現してくださることが、確信できなくなったしるしなのです。

道しるべ

故郷の小道のわきに、背の高い赤い棒が立っていました。道や畑、牧草や森、岩や崖が雪に被いつくされる頃、これらの棒は埋まらずに雪の上に突き出て道を示してしくれるのだと教わり、子供心に深い印象を受けたことを憶えています。

 内的生活においても似たようなことが起ります。春、夏、冬があり、日の射さない日があり、月の隠れた夜もある。しかし、イエス・キリストとの交わりがその時々の気分や、気分の変化によって左右されてはなりません。そのようなことは利己主義や安楽を求める心につながり、当然ながら愛とは両立しえないからです。

 それゆえ、降雪や吹雪のときには、それぞれの事情にあわせて定め、深く根をおろしていて感情に支配されない、堅固な信心の務めがすこぶる大切になる。このような信心のわざは、道路のわきに立てられたあの赤い棒のように、絶えず道を指し示してくれます。その結果、やがて主のお望みのときに太陽が照り輝き、氷が融けてくると、心は再び元気よく活動を開始することができる。火は消えてしまっていたのではなく、試みの間、努力や犠牲が不足している間、灰に隠れて埋み火になっていたに過ぎないのです。

悲しみに沈んで次のように言った人がいました。「神父さま、一体どうなってしまったのか分からないのですが、疲れて心は冷たくなり、以前には実行が容易でしっかりしていた信心も、この頃は何か喜劇を演じているような気になるだけです」。このような状態にいる人々、そして皆さん方にもお答えしたい。喜劇だと言うのですか。素晴らしいことではありませんか。子供に対する父親のように、神が私たちと戯れておいでになるのです。

「わたしは地上で人の子と遊んだ」17と聖書に書いてあります。主は地上のあらゆるところで戯れておいでになるのであって、私たちを見放されたわけではありません。聖書には続いて、「わたしは人の子らと共に楽しむ」18と記してあります。神が私たちの遊び相手になってくださる。心が冷え切り、無気力に陥って、まるで喜劇を演じているように思われるとき、気も腐ってやる気がなく、義務の遂行が辛くなったとき、あるいはまた、目指す霊的面での目標が達成しがたく思えるとき、そのようなときには、神が私たちと戯れておいでになると考え、喜劇を颯爽と演じきろうではありませんか。

 主が、時として私に、たくさんの恩寵を与えてくださったことを隠すつもりはありません。しかし、たいていの場合は、自分の傾きにあらがって生きなければなりませんでした。気に入っているから計画を実行するというよりも、果たさなければならないから神への愛ゆえに実行するのです。「しかし神父さま、神のみ前で喜劇を演じるなどということができるのでしょうか」。「そんなことは偽善ではないのですか」。心配するには及びません。神という観客の前で人間喜劇を演じるときが訪れたのです。忍んでやり遂げなさい。御父と御子と聖霊が見てくださっています。たとえ辛くとも、すべてを神への愛のため、ただ神をお喜ばせするためにやり遂げるのです。

 神の旅芸人になる、素晴らしいことではありませんか。神への愛ゆえ犠牲をものともせず、自己満足を求めることもなく、ただ神をお喜ばせしたい一心で、喜劇を歌い語りするほど美しい話があるでしょうか。主と向かい合って心の思いを吐露しなさい。「やる気は全くないのですが、あなたにお捧げするつもりで果たします」と。そして、たとえ喜劇に過ぎないと思えても、とにかく仕事に没頭してください。幸いな喜劇と言えるのではありませんか。それが偽善でないことは私が保証します。偽善であれば、必ず観客を要求します。偽善者なら、観客のいないところで演技しないでしょう。ところで、繰り返しますが、私たちが演じるとき、観客は、御父と御子と聖霊、聖母マリアと聖ヨセフ、すべての天使と聖人たちです。私たちの内的生活を見てくださるのは、「ひそかにお通りになるキリスト」19なのです。

「わたしたちの力の神に向かって喜び歌い、(…)神に向かって喜びの叫びをあげよ」20。主を称えよ、我らの唯一の助け手、主において喜び踊れ。イエスよ、この事実を知らない人は愛についても、罪についても、惨めさについても知らない人でしょう。私は哀れな人間ですから、罪についても愛や惨めさについても知っています。神の心に近づくとはどういうことなのか分かりますか。人間が神に相対して心を開き、不平を述べたてるとはどんなことか分かるでしょうか。たとえば、この世でもっと長生きし、主に仕え、主を愛することのできるはずの人を、主がご自分のもとへお召しになったとき、私は不平をならします。なぜそのようなことをなさるのか、私には理解できないからです。しかし、これはあくまで神を信頼する人間の、心から出る悲しい呻き声のようなものです。神のみ腕から離れるとすぐ倒れてしまうことをよく承知していますから、すぐに神のみ旨をお受けし、そして、言い添えます。「神のいとも正しく、いとも愛すべきみ旨は、万事を越えて行われ、全うされ、賛美され、永遠に称えられんことを。アーメン。アーメン」。

 これが聖書の教える私たちの生き方、使徒職の効果を上げるための聖なる<悪知恵>です。これこそ、私たち神の子の愛と平安の源、落ち着きと愛を人々に伝えるための道なのです。こうして、私たちは仕事を聖化し、仕事の中に隠された幸せを求めつつ、日々の生活を神の愛のうちに終えることができる。子供のような聖なる<無恥>を身につけ、倒れると恐れをなして御父のもとへ戻らないような偽善、おとなの<恥>を捨てて、道を歩み続けます。

 本日ミサ聖祭でとりあげた福音書に出てくる主の挨拶を、この祈りの結びとします。「あなたたちに平和」21。私たちを御父のもとへと付き添い、導いてくださる主を見て、「弟子たちは喜んだ」22。

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