神の仕事

1960年2月6日


始める人は多いが、完成させる人はわずかである。神の子たらんと努力する私たちはその「わずか」の人々の仲間に入らなければなりません。「事の終わりは始めにまさる」1と聖書にあるように、主の賞賛に値するのは、愛を込めて最後まで立派に仕事を完成させた人だけであることを忘れるわけにはゆきません。

 すでに別の機会にお聞きになったかもしれませんが、いずれにせよ、非常に教訓的で分かり易い話なので、もう一度お話ししましょう。あるとき、ローマ定式書の中に建物の「最後の石」(落成)を祝別する祈りを探していました。多くの人々の何年にもわたる忍耐強い汗と努力の結晶を象徴的に締めくくるのですから、この「最後の石」には重要な意味があります。ところが驚いたことに、この種の祈りはなく、結局、「一般祝別」で我慢しなければなりませんでした。こういうものが抜けているとはとうてい考えられなかったので、幾度も丹念に定式書を調べてみましたが、やはり見つかりませんでした。

 神が要求なさるように永遠の生命を得るには、仕事の細部にまで注意深く気を配り、心を込めて仕事を果たし、仕事を聖化しなければならないことを、大勢のキリスト者は忘れ去っています。神に捧げるのなら、仕事は全力投球の結果として、完全で欠点がなく、また細心の注意を払って細部にわたって完成された仕事であるべきです。神は<やっつけ仕事>をお受けになりません。「あなたたちは傷のあるものをささげてはならない。それは主に受け入れられないからである」2と、聖書は戒めています。従って、一人ひとりの仕事、毎日そのために努力の大半を費やす仕事は、神の仕事、神のための仕事として、創造主に捧げるためにふさわしい捧げものでなければなりません。簡単に言えば、完璧に仕上げた仕事でなければならないのです。

よく注意してみると、イエスの生き方に触れた大勢の人々の感想のなかに、すべてを言い尽くしていると思われる言葉があります。主の奇跡を目の当たりにして、驚きかつ熱狂した群衆が我知らず口にした叫びのことです。「あの方はすべてをよくなさった」3、驚くほどよくなさった。人目を奪うような奇跡から、誰の目にも留まらないような些細で日常的なことにいたるまで、「完全な神、完全な人」4であるキリストは、完璧になさいました。

 私はキリストの全生涯に心酔していますが、特に、ベツレヘムやエジプト、ナザレでの三十年間の隠れた生活にはつい心を奪われてしまいます。この三十年にわたる長い期間について、福音書は多くを語りません。従って、物事を表面的にしか見ない人はそこに隠れている深い意味に気づいていないようです。しかし、ずっと主張してきたように、師である主の生涯のこの期間は、たとえ描写されていなくても、実に雄弁に述べています。イエス・キリストの生活は、普通の生活、私たちと同じ生活であって、仕事と祈りで充実した、神的かつ人間的な生き方でした。慎ましく目立たないあの仕事場で、のちに群衆の前で行われたように、すべてを完全になさったのです。

仕事は神の力にあずかること

人間は創造された最初の瞬間から働かねばならなかった。これは私が言い出したことではありません。聖書の最初の頁を開けば充分お分かりになるでしょう。人類が罪を犯し、その結果、死と罪と惨めさを負うようになる前に5、神は土からアダムを造り、アダムとその子孫のために、このように美しい世界をお与えになりましたが、それは「耕し、守るように」6させるためでした。

 それゆえ、仕事から逃げ出そうとする人には、仕事とは、なんらかの形で誰もが果たすべきものであり、無情な法律のように課せられてはいるが、同時に素晴らしい現実であるということを理解して欲しいのです。この義務は原罪の結果として生じたのでも、近年の発見によるものでもないことを忘れないでください。日々を仕事で満たし、創造のわざにあずからせるために、この世で神が私たちにお任せになった手段、生活の糧を得、同時に「永遠の命に至る実を集め」7るために必要な手段、それが仕事です。「鳥が高く飛ぶために生まれるように、人間は働くために生まれる」8のです。

 幾世紀を経た今日でも、こう考える人は少ないとおっしゃるかもしれません。大部分の人はそれぞれの理由で働いています。ある人はお金のため、ある人は家族を養うため、また別の人は社会的地位を高めるためとか能力を伸ばすため、情欲を満足させるためや社会の発展に貢献するため、といった具合に。そして、たいていの場合は、避けようにも避けられず、仕方なく働いています。

 こういった表面的で利己主義的なさもしい見方に対しては、みな神の子であり、福音書の喩え話に登場するあの男のように、父なる神から「わたしのぶどう園に行って働きなさい」9と招かれていることを、まず私たち自身が思い出し、また、人々に思い起こさせてあげる必要があります。個人的な義務を神の命令として受け取るよう日々努力すれば、人間的にも超自然的にも最高完全に物事をやり遂げることができるでしょう。時には、「いやです」10と答えた長男のように反抗することもあるでしょうが、痛悔して心を改め、義務遂行にできるだけ努力したいものです。

「一目置かれるような地位ある人の前に出るだけでも行儀よく振舞うのであれば、あらゆるところに偏在なさる神のみ前、私たちが知り、愛する神のみ前で、どうして言葉や行い、思いすべてにおいて常により良くしようと努めないのだろうか」11。神は私たちをごらんになっている、このことをしっかり心に刻みつけているなら、また、何をするにも例外なくすべて神のみ前で行うわけで、神の御眼を逃れるものは何ひとつないことに気がついているなら、本当に注意深く仕事をやり終えるでしょうし、物事への対応の仕方も異なってくることでしょう。何年も前からずっと説き続けてきましたが、これが聖性を得るための秘訣です。神が私たちをお呼びになったのは、皆が神に倣うため、そして社会の直中にいる社会人として、真面目な活動すべての頂点に、私たちの主キリストを据えるためなのです。

 ここまで考えると、次の話がもっとよく分かるのではないでしょうか。万一、自分の仕事を愛さないとすれば、あるいは、聖人になるために仕事を真剣に果たそうと決心していないのなら、あるいは職業を持っていないとすれば、私が話す仕事の超自然的な意味を理解することは決してできません。職業人になるための条件を欠いているからです。

私の話を聞いてくださる人々が聞き過ごしているかどうか、私にはすぐ判ります。自惚れているわけではありません。共に神に感謝を捧げていただきたいので、私事で恐縮ですが、お話しさせてください。一九二八年、神のお望みが分かるとすぐに、私はすべきことを始めました。(苦しい事も甘美なこともたくさん送ってくださった神に感謝しています。) 当時、ある人々は私を気違い扱いしていました。別の人々は少しばかりの理解を示して夢想家と呼んでくれましたが、それは実現不可能な夢を追っていると言いたかったようです。欠点だらけの私であり、苦しみもありましたが、とにかくがっかりしないでがんばりました。<計画>そのものは私が考え出したわけではありませんでしたから、困難のさなかにあっても道はどんどん開け、今日では世界中に広がりました。また、主がご自分の計画であることを人々にお見せになりましたから、たいていの人はごく当たり前の教えだと考えるようになっています。

 ひとこと言葉を交わすだけで、話を理解してくださったかどうか、すぐに判ると申しました。卵を温めている鴨の巣に、横から誰かが家鴨の卵を押しつけたときのようなことは、私には起こりません。何日か経って雛がかえり、おぼつかない足どりであちらこちら歩きまわるのを見てはじめて、それは自分の雛ではない、いくら教えてもピョピョと鳴くことはできないと、やっと気がつく。このようなことは私には起りません。私に背を向けた人にも、せっかく助けてあげようとしたのに横柄な態度を示した人にも、悪意を持ったことはありません。一九三九年ごろ、学生グループの黙想会のために借りていた建物でのことですが、その建物の壁の透かし飾りの言葉に目を引き付けられたことをよく覚えています。「旅人よ、おのが道を行け」。本当に有益な教えでした。

本論から逸れるつもりはないのですが、少し脱線気味になったことをお詫びします。もとの話に戻りましょう。仕事はキリスト信者にとって欠くことのできない本質的部分であることを得心してください。どこで何をしていようと、動機が何であろうと、自分の選んだ職業によって聖人になれと、主は仰せになります。神法に反していない限りどのような仕事も貴く、神の子としての生き方の特徴というべき神愛の流れに乗っている、と言えます。

 仕事の話をすると、貧乏くじを引いたような顔をして、時間が足りない、時間が足りない、と言うくせに、その実、利己主義や、せいぜい人間的な動機だけで働く、同僚の仕事量の半分もできていない人をみると、心配になってしまいます。ここにいる私たちは皆、イエスとの個人的な話し合いを中断することなく、医者、弁護士、会計士といった仕事に従事しています。同僚の中で職業上の名声のある人、真面目な人、無欲の奉仕をする人のことを考えてごらんなさい。仕事のためなら、昼夜を問わず何時間も費やしているではありませんか。学ぶべきところがあるのではないでしょうか。

 こうお話ししながら、私も自分の行いを糾明しています。この質問を自分に投げかけるとき、少々恥ずかしくなって神に赦しをお願いします。私の応じ方があまりにも弱々しく、神がこの世で私たちにお任せになった使命から遠く離れているように思えるからです。ある教父は書いています。「キリストは私たちをこの世に誕生させてくださった。それは私たちが人々の灯となり師となって、パン種の働きをするためであった。また、人々の間にあっては天使のごとく、子供の中では大人らしく、理性だけをふりかざす人間の間では霊的な人となって、種子となり実を稔らせるようにとの思し召しであった。私たちの生活がこのように輝くなら、口を開く必要はないだろう。模範を示せば、言葉は不要である。私たちが真のキリスト者であるならば、異教徒がいるはずはない」12。

職業生活は模範としての価値を持つ

使徒職とは一連の信心行為を実行することである、と考えるのは間違いです。私たちはキリスト信者であると同時に、社会人であり勤労者です。本当に聖人になりたいのなら、与えられた義務を模範的に果たさねばなりません。私たちを急き立てるのはイエス・キリストです。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」13。

 どのような種類の仕事をしていても、同僚や友人を照らす灯になることができます。オプス・デイの召し出しを受けた人たちに私が常に繰り返すことがあります。それは今、わたしの話を聴いてくださっている人々にも当てはまります。誰それはエスクリバー神父のよい子で、よい信者だが、靴屋としては最低だと、噂されるようなことが万一あれば、聞き捨てにできません。自分の仕事をよく研究し、心を込めてやり遂げようとしないのなら、仕事を聖化することも、神に捧げることもできないでしょう。現世の事柄に浸っていながら、神と親しく交わる決意をした者にとって、日常の仕事の聖化とは、真の霊性の要なのです。

自分を甘やかす傾向に対しては断固として戦いなさい。自分自身にはもっと厳しい態度をとりましょう。健康や休息に気を遣いすぎます。力を回復して仕事に向かうため、休息が必要なことは確かです。しかし、何年も前に書いたとおり、「休息とは何もしないことではなく、少しの努力ですむ他の活動で気を紛らわすこと」であるからです。

 時には、ありもしない口実を探して安逸をむさぼり、双肩にかかる幸いな責任を忘れ、その場をしのいで満足します。理由にならない理由にごまかされ、手をこまねいて、突っ立ってしまうのです。その間中、サタンとその一味は休みなく働いているというのに。ここで、奴隷であったキリスト者に聖パウロが書き送った言葉に注意深く耳を傾け、しっかり黙想してください。主人に従えと命令しています。「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」14。まことに私たちに相応しい忠告ではありませんか。

 私たちの主イエス・キリストに光を求めましょう。そして、仕事が聖化の基盤であり軸であることを、各瞬間に再発見できるようお願いしましょう。福音書によると、イエスは「大工で、マリアの子」15と思われていました。それなら私たちも、聖なる誇りをもって、働き人であることを行いで表しましょう。労働にいそしむ人間であることを、身をもって示すのです。

 常に神から遣わされた者として振舞わねばなりません。万一、自分の任務を放棄したり、職務上の責任を協調の精神で果たさなかったり、あるいは、怠け者、だらしない者、軽薄な者、役立たずなどと見なされているとすれば、真心込めて神に仕えているとは言えません。表面的にあまり重要でなさそうな義務をおろそかにする者は、おそらく内的生活に関する義務を果たすこともできないでしょう。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」16。

空想を述べているのではありません。私がお話ししているのは、非常に具体的で、非常に重要なことです。救いのわざが始まったばかりの頃、社会はすこぶる異教的で、神の要求に強い敵意を示していましたが、そのような社会をさえ変えることができた理由について話しています。当時の無名作者の言葉をよく味わってください。召し出しの偉大さを次のように要約しています。「この世にいるキリスト信者は、肉体の中にある霊魂のような役割を果たす。霊魂が体の四肢に行き渡っているように、キリスト信者は世界の諸都市に行き渡っている。霊魂が体に住んでいても体のものでないように、キリスト信者はこの世に住んでいながらこの世のものではない。見えない霊魂は見える体に保護されている。事実、キリスト者も、この世にいることは知られているが、彼らの内的生活は見えないままである。(…)死滅しない霊魂が、死滅する幕屋に住んでいるように、キリスト信者も天上の朽ちない住処を仰ぎ見ながら、朽ちるこの世に寄留人のように住んでいる。霊魂が犠牲によって一層美しくなるように、キリスト信者は迫害にあって日に日に増加してゆく。(…)霊魂は自ら望んで肉体から離れることができないように、キリスト信者も社会における自分の使命を放棄することは許されていない」17。

 こういうわけで、この世の事柄を無視するなら、道を誤ることになるでしょう。神は日常茶飯事のなかで待っていてくださいます。無限の知恵である神の摂理が、整え、あるいは許す日常生活の出来事を通して、人間は神に向かうべきなのです。しかし、自分の仕事を最後まで仕上げず、人間的にも超自然的にも意欲的に仕事を始めておきながら途中でくじけるなら、最も有能な人のように職務を果たさないとすれば、さらに本当に望むならできるはずですから、それ以上立派に仕事をやり遂げなければ、この目的を達成することはできないでしょう。私たちは完全に遣り遂げた仕事、精妙で巧みを尽くした細工の名品を神に捧げるために、この世の正当な手段だけでなく必要な霊的手段すべてを用いることができるのです。

仕事を祈りに変える

いつも述べていることを重ねて申し上げます。聖櫃から私たちをごらんになり、耳を傾けてくださっているイエスとのこの語らいのひとときは、一対一の個人的な祈りでなければなりません。神との語り合いをすぐに始めるために、多弁は必要ではありません。匿名の氏であることを止め、ありのままの姿で神のみ前に近づいてください。教会を埋める群衆のなかに逃げ込み、虚しい言葉の羅列でごまかしてはいけません。心から湧き出たものでもなく、中身のない言葉を、習慣的に繰り返しても役に立たないからです。

 さらに申し上げるなら、仕事を個人的な祈り、天におられる御父との素晴らしい語らいに変えなければなりません。仕事を通して、仕事のなかに、聖性を求めるなら、当然、神との個人的な祈りができるよう努力すべきでしょう。あなたの努力も、誰がしているのか分からないような、お決まりの仕事ぶりになってしまっては残念です。いうのは、その瞬間に日常生活に力を与える神の刺激が力を失ってしまうからです。

 スペイン内乱中、前線を訪問したときのことを思い出します。人間的な手段は何もありませんでしたが、私の司祭としての仕事を必要としている人がいれば、どこにでも行きました。当時、非常に特殊な情況であるのをいいことに、多くの人々は怠慢や不注意を平気で見過ごしていましたから、私は、内的生活に関わること以外にも助言を与えました。主が人々の目を覚ましてくださるよう、何とかしたかったのです。そして、今もその気持ちは変わりません。一人ひとりの霊的善に関心がありますが、同時に、この世でも喜びをもっていて欲しいからです。そこで、何か役に立つことをして時間を活用するように、戦争が人生の空白時期になってしまわないように、と励ましたものです。自棄になり、塹壕や哨楼を、鉄道の待合室に変えてしまわないようにと勧めました。当時の待合室では、皆が時間を潰していたのです。来るか来ないかわからない列車を待って…。

 兵役と両立することで何か役に立つこと、たとえば、勉強や外国語を学ぶことを具体的に提案しました。神の人であることを決して止めてはならない、毎日の振舞いが神の業となるよう努力しようと勧めました。そして、尋常でない情況のもとで青年たちが忠告を見事に実行してくれるのを見て、彼らの堅固な内的生活に胸を打たれました。

この時期、ブルゴスに滞在したことがあります。その地区の兵営に配属された者以外にも、外出許可を得た若者たちが多数、私のところに来て数日を過ごしたものです。私は、数人の霊的子供たちと共に、おんぼろホテルの一室を住居としていました。必要なものにも事欠く有様でしたが、やってくる百人以上もの若者たちに、休息し元気を回復するために必要なものが不足しないように、一所懸命工夫したものです。

 アルランソン川のほとりを散歩しながら、語り合ったり、彼らの打ち明け話を聴いたり、また、内的生活を強め、あるいは視野を広げるのに役立つ忠告を与えて指導したりしていました。こうして神の助けによって常に彼らを励まし、元気づけ、キリスト者らしく振舞いたいという望みを燃え上がらせることができたのです。時には、ラス・ウェルガスの修道院まで足を伸ばし、大聖堂に入ることもありました。

 私は好んで塔に登り、高いところにある装飾の彫刻を眺めたものです。それはまさしく石でできたレースであって、辛抱強い仕事の実りでした。青年たちと話しながら、あの見事な彫刻は地上からは見えないことを示しました。そして、繰り返し説明してきたことをもっとはっきりと分からせるために、地上からは見えないあの石のレースこそ、神の仕事、神の業だ、言ったのです。それこそ、仕事を完璧に美しく仕上げること、石であっても華奢な絹のカーテンのように巧みに仕上げることです。若者たちは目に見えるこういう事実を前にして、これがすべて祈りであり、神との美しい対話であることを悟りました。このように仕事に精魂こめた人々は、自らの努力が道を行き交う人たちのためではなく、ひとえに神のためであることをよく知っていたのです。職業上の召し出しをどうすれば神に近づけることができるのか、もうお分かりになったでしょう。あの石工たちと同じようにするのです。そうすれば、あなたの仕事も神の業となる、すなわち、人間の仕事ではあっても、神的な中身と輪郭をもつようになるのです。

「どんなところででも神に出会うことができると確信していれば、主を賛美しつつ土地を耕し、波を切って進み、神の慈しみを歌いながら他のどのような仕事にも従事する」18。こうして何時いかなる時でも神と一致することができます。塹壕の中のあの青年たちのように、いつもの生活の場から離れて、独りぼっちになるときも、仕事に精をだして、仕事を祈りに変えるときも、神のうちに浸って歩むことができるでしょう。神なる父、神なる御子、神なる聖霊のみ前で仕事を始め、そして終えているからです。

 しかし、人目もあること、キリスト信者としての証しが、皆さん方、特にあなたに期待されていること、この点を忘れないでください。私たちを知っている人、愛してくれる人が私たちの仕事ぶりを見て恥じ入り、赤面しないように、人間的な面でも正しく振舞わなければなりません。私が熱心に教えているこの精神に即して生きるなら、皆さんを信頼する人々に恥をかかせることはないでしょうし、皆さん自身が顔を赤らめることもないでしょう。また、喩えに出てくる、あの塔を建てようとしていた人のようになることもないはずです。「土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」19。

 超自然的な照準を見失わなければ、仕事を完成することができます。大聖堂を完成して立派に<最後の石>を置くことができるのです。

「できます」20。神の助けがあれば、この戦いにも勝つことができます。仕事を祈りに変えるといっても難しいことではありません。仕事を神にお捧げして着手するや、神はすぐに願いを聴き入れ、励ましてくださいます。日常の仕事を通して、観想生活を会得しましょう。神は常に見つめていてくださいます。しかし同時に、小さな犠牲、都合の悪いときに訪れる人に対する微笑み、楽しい仕事ではないが急を要する仕事から始めること、整理整頓に細かく気を配ること、あまりにも安易に放置しがちな任務を遂行するための忍耐、今日すべきことを翌日まで延ばさないなど、新たな戦いを要求なさいます。すべては父なる神に喜んでいただくためです。そして、観想的精神を目覚めさせるのに役立つよう、目立たない場所や机の上に十字架像を置きましょう。十字架はあなたが心と知恵で奉仕の教えを学ぶための教科書です。

 風変わりなことなどせずに、また世捨て人にならずとも、いつもの仕事を続けながら観想の道に分け入る決心をするなら、すぐに神の友となり、神に至るこの地上の道を人類全体に開くという役目を、神から受けることでしょう。そうです。あなたの仕事で、キリストのみ国を世界中に広げていくのです。信仰を受け入れる素地のある遠い国々のために、信仰表明を強制的に禁じられている東欧諸国のために、さらに、キリスト教的伝統を持ちながら福音の光が暗くなり、人々が無知の影のなかで戦っているかのような国々のために、何時間もの仕事を捧げることができるでしょう。こうして、もう一分、もう少しと、努力を重ねて遂に完成した仕事には、測り知れない値打ちがあります。ごく自然に、そして確実に、観想は使徒職に変わります。主イエスのいとも甘美にして慈しみ深い聖心に合わせて鼓動を打つ心は、必要にかられて使徒職となってあらわれるのです。

すべては神の愛のため

常にこのような精神に導かれて仕事を完璧にやり遂げるには、どうすればよいのでしょうと、お尋ねのようですが、私の代わりに聖パウロが答えてくれています。「雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」21。何をするにも愛をもって自由に行いなさい。恐れやマンネリに譲歩してはなりません。父なる神に仕えるのです。

 あまり大した詩ではありませんが、次の詩は私の体験を表しているので、好んで繰り返し味わっています。「私の命は愛すること。私が愛の熟練者なら、それは苦しみのおかげ。多く苦しんだ人ほどに、多く愛せる人はいない」。神の愛ゆえに職務に打ち込むのです。繰り返しますが、神を愛するための働きなら、たとえ人間的にみて無理解、不正、忘恩、さらには失敗を経験しても、愛するがゆえに、素晴らしい仕事の実りを目にすることができるでしょう。

しかしながら、善意の人の中には、信仰の美しい教えをぜひ広めたいと口では言いながら、実際の行いを見ると、軽率で、不真面目で、不注意な仕事ぶりの人がいるものです。こういう口先だけのキリスト者に出会ったら、助けるために、親切にはっきり言ってあげるべきです。必要ならば、福音的方法である兄弟的説諭を実行しましょう。「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」22。その人がカトリックであると公言するだけでなく、年長者であり、経験を持ち、責任ある地位にいる人であればなおさらのこと、話し合って、行いを改めるよう勧めなければなりません。辱めるのではなく、良き父・良き教師として導いてあげることによって、その人が職場で一層重きをなす人となるためです。

 聖パウロの行動をじっくり黙想すると、心打たれます。「わたしたちにどのように倣えばよいか、よく知っています。わたしたちは、そちらにいたとき、怠惰な生活をしませんでした。また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。(…)あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、『働きたくない者は、食べてはならない』と命じていました」23。

神への愛、そして、人々への愛ゆえに、またキリスト者としての召し出しに応えるために、模範を示さなければなりません。神の子が怠け者で役立たずだという印象をいささかなりとも与えないため、さらに、躓きを避け、悪い手本とならないように、責任ある人の見事な働き方、正しい行動規準を、努めて行いで示すべきです。耕作に従事する間に心を神に上げる農夫のように、建築家も、大工や鍛冶屋も、事務職員や知識人も、キリスト者一人ひとりが同僚の模範とならなければなりません。しかし、威張らないで。いうのは、神の助けによりすがらない限り<勝つ>ことができないことは周知のおりです。自分の力だけでは藁くず一本も拾いあげることもできないのです24。各自が社会で占める場で、自分の仕事についているところで、神の仕事を果たす義務を感じて、主の平和と喜びをいたるところに振り撒かなければなりません。「完全なキリスト者とは常に落ち着きと喜びを備えているものだ。神のみ前にいるがゆえの落ち着きであり、賜物で満たされているがゆえの喜びである。このようなキリスト者こそ本当の人間であり、神の聖なる司祭である」25。

この目標に到達するためには、神に愛を示すために働くべきであって、決して罰や呪いの重圧に耐える者のような働き方であってはなりません。「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」26。そうすれば、時間を充分活用し、日常の仕事を完全に終えることができるでしょう。私たちは、弱点だらけであるが、主がお与えになるどのような責任と信頼にもすぐ気づき、神の愛に夢中になる道具でもあるからです。神の力が支えであるからこそ、どのような仕事をしていても、ただ神を愛するためにのみ働かなければなりません。

 しかし、現実に目を閉ざした、浅はかで表面的な見方で満足するようなことがあってはなりません。道は容易であると思ったり、道を歩むには、誠実で熱心な決心さえあれば充分だと考えたりしてはならないのです。思い違いをしないでください。長年の間には、ひょっとすれば予想外に早く、非常に困難な情況に立たされて、一層の犠牲の精神と一層の自己放棄を要求されることがあるかもしれません。その時こそ、希望の徳を増し、使徒と共に大胆に叫びましょう。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」27。確信して平和な心で黙想してください。哀れな人間に注ぎ込まれる神の無限の愛はいかばかりでしょう。あなたの日常の仕事を通して信仰を実践し、希望を目覚めさせ、愛を生き生きとさせるべき時が訪れたのです。言い換えれば、三つの対神徳の実行によって、ごまかし、隠し立て、遠回しの表現などを用いずに、職業上の行為や内的生活における過ちをすぐに追い出すときなのです。

再び聖パウロの言葉に耳を傾けましょう。「愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい」28。お分かりですか。聖化すると決心して仕事に励むとき、色々な徳がすべて働きます。剛毅は、困難にもかかわらずへばらずに仕事を最後まで完成させるため、節制は、余すところなく捧げ尽くして安楽とわがままに打ち克つため、正義は、神に対する、また社会、家族、同僚に対する義務を実行するため、賢明は、各々の場合にどうすればよいかを知り、ぐずぐずせずに仕事にとりかかるため、というように。そして、繰り返しますが、すべてを神の愛ゆえに果たすこと、仕事と使徒職がもたらす実りが多いか少ないか、その責任を負うのは自分自身であることを忘れずに。

 「愛とは、行いであって、甘い言葉のことではない」と諺にあります。これには何も付け加える必要はないでしょう。主よ、恩寵をお与えください。ナザレの仕事場の扉を開いてください。あなたと、共におられる聖マリア、敬愛する聖ヨセフ、聖なる仕事に生活を捧げたこの三方を黙想したいのです。哀れな心は励ましを受け、日々の仕事の中にあなたを探し求め、あなたを見出すことでしょう。私たちの仕事を神の業、神愛の業に変えるよう、あなたはお望みだからです。

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