聖性を目指して

1967年11月26日


「実に、神のみ心は、あなたがたが聖なる者となることです」1。聖パウロのこの叫びに注意して耳を傾けると、心が強く揺さぶられます。そこで今一度、私たちが聖人になることこそ、神のお望みであることを考え、私自身が聖人たらんと決心すると同時に、皆さん方に、またすべての人々に、神のこのみ旨を思い起こして欲しいと思います。

真の平和で心を満たし、世を改め、現世において、現世の事柄を通して主なる神に出会うには、私たちが各々聖人になるほかありません。幾多の国の、様々な社会環境の人々と話すとき、次のような要望をしばしば受けました。結婚している者たちに何かおっしゃってください、農業にいそしむ者たちに何か一言を、夫に先立たれた者たちに何か一言を、青年たちにも一言を、など。

「釜は一つしかない」。これが私の決まった返事です。ついで、イエス・キリストは人の差別をせず、どのような人にも福音を教えたことを、詳しく説明することにしています。一つの釜からとる同じ食物。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」2。青年も老人も、未婚者も既婚者も、健康な人も病気の人も、教養のある人もない人も、どんな仕事をしていても、どこにいても、一人ひとりが聖性に召され、各々に愛が求められています。神をいよいよ信頼し、神との親密さをいや増す方法は、一つしかありません。そして、その唯一の方法とは、祈りにおいて主と交わり、主と語り合い、心と心の触れ合いのうちに、主への愛を示すことなのです。

神と語らう

「わたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」3。主に話しかけ、主と語り合い、主に祈り求めるのです。そのためには、「絶えず祈りなさい」4と勧める、使徒聖パウロの忠告を実行しなければなりません。たとえ何が起ころうとも絶えず祈るのです。「心の底から、そして、全心を込めて」5。

人生が常に楽であるとは限らない。人生には不愉快なこと、辛いこと、悲しいことがつきものだと考えることでしょう。ところでそのような考えにも聖パウロが答えてくれています。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」6と。何事がおこっても、神の愛、偉大な愛である御方、父なる神との絶えざる交わりから、私たちを引き離すことはあり得ないのです。

神との絶え間ない一致を勧めるということは、大部分のキリスト者にとって、とても到達できそうもないほど高い理想を掲げることにならないだろうか。確かに、高い目標には違いない。しかし、到達できないことはありません。聖性に至る道は祈りの道です。小さな種子が時を経て青々と生い繁る大樹に成長するように、祈りも心の中で少しずつ根をおろしていかなければなりません。

大勢の人々が子供の時から繰り返している口祷から始めてみましょう。口祷は、神に、そして、私たちの母マリアに捧げられる短いながらも熱烈な愛の言葉です。今でも私は、毎日、朝も夜も、両親から教わった奉献の祈りを唱えています。「御母マリアよ、あなたに私のすべてを捧げます。あなたを愛し、私の眼、耳、舌、心のすべてをあなたに捧げます。…」。これはすでに、ある意味で、観想の始まりであり、信頼に満ちた依託の明らかな証拠ではないだろうか。恋人たちが出会うとき、どのような言葉を交わすだろう。どのような仕草をするのだろうか。愛する人のために、自己の存在と所有するすべてを捧げるのではありませんか。

まず、射祷を一つ唱えることから始めて、次第にその数を増していくが、燃えるような射祷とはいえ、そのうちにそれだけでは充分でないと感じ始める。言葉ですべてを言い尽くすことができないから。そこで、神との親密な交わりへの道が開かれ、倦まず弛まず神を見つめるようになる。そうなると、捕われ人、虜になったように感じる。そして、力に限りがあり過ちを犯しつつも、最善を尽くして、職業上、身分上の義務を果たしているならば、心はそこから逃れて神に向かうことを熱望する。ちょうど鉄が磁石に吸い寄せられるように、甘美な驚きのうちに、いとも効果的にイエスを愛し始めているのです。

「あなたたちがどこにいても、捕われから解放しよう」7。祈りに頼れば束縛から解放されます。愛に夢中になった心は、自由に飛びまわって愛を言祝ぎ歌い、神からは離れたくないと切に望むに至る。これは地上における新たな歩み、神的、超自然的な歩みです。十五世紀のカスティーリャ地方の数多い著述家の言葉を思い出せば、次のような一節をしみじみと味わいたくなることでしょう。わたしは生きているが実はわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きておられる8。

何年も何年もこの世にとどまって働かなければなりませんが、与えられた寿命を喜んで全うしましょう。この地上ではイエスの友は多くないからです。神と教会に仕えるために生き続ける義務、また、レモンを搾るように力を使い果たすまで働く義務を拒むことのないようにしたいものです。ただし、そのときも、「キリストがわたしたちを解放されて」9得た自由、すなわち「神の子供たちの栄光に輝く自由」10を持って、十字架上の死去を通してイエス・キリストが勝ち得てくださった自由を持って、主に仕えなければなりません。

最初から埃が雲と舞い上がることもあるでしょう。それと同時に、聖性の敵が権力を濫用し、見事に組織された激しい心理的テロ行為の技術を用いて、長い間、正しく筋の通った態度を堅持していた人々を、自分たちの卑劣な行為の仲間に引き込もうとすることがあります。敵の声は、不純な金属で鋳造された鐘が壊れた状態で出す響きのようなもの、牧者の口笛とは明らかに異なっている。ところがその声は、人間が神から受けた賜物の中でも特に貴い、言葉という賜物を、下品なものにしてしまうのです。言葉は実に、神や人間との愛と友情について、気高い思いを表現するための非常に美しい賜物であるのに。おかげで、なぜヤコブが、言葉は「不義の世界」11であるというのか、そのわけを否応なしに納得させられます。言葉は、虚偽や中傷、名誉毀損やごまかし、侮辱や陰険な陰口など、数知れぬ悪のもとになり得るからです。

キリストの至聖なる人性

こういった不都合を克服するにはどうすればよいのだろう。決心したことが煩わしく感じ始めたらどうすればよいのだろうか。聖母マリアが示してくださった模範に倣いましょう。聖母マリアの道は非常に広い道であるだけでなく、必ずイエスのもと導いてくれます。

神に近づくには正しい道を通らなければなりません。その正しい道とは、キリストの至聖なる人性です。私が主の受難に関する読書を勧めるのはそのためです。誠実な信心に溢れるこのような書物は、神の御子が私たちと同じ人間であると同時に、世の贖いのために人々を愛し、生身で苦しむ真の神であることを考えさせてくれます。

キリスト者の間で最も深く根をおろした信心の一つ、ロザリオの祈りに注目してみましょう。教会はロザリオの神秘を黙想せよと勧めています。それは、聖母の喜び、苦しみ、栄えと共に、主の三十年間の隠れた生活、三年間の宣教、恥ずべき受難、光栄に輝く復活など、感嘆すべき模範を私たちの脳裡に焼きつけるのに役立つからです。

キリストに付き従うこと、これが秘訣です。キリストに付き従い、十二使徒のように主と共に生きようではありませんか。キリストと一体化するほどキリストのすぐ傍を歩むのです。恩寵の働きかけに逆らいさえしなければ、主イエス・キリストを着た12と断言できる日も遠くないことでしょう。私たちの振舞いは、主の姿を鏡のように映し出さねばなりませんが、その鏡が本来の働きをすれば、救い主のいとも甘美な姿を、歪めることも誇張することもなく、くっきりと映し出すはずです。するとその時こそ、周囲の人々は、主を賛美し、主に付き従う機会を得ることでしょう。

キリストと一体化する努力を、私は四段階に分けて考えます。主を探し求めること、主に出会うこと、主と交わること、主を愛すること。皆さんは、まだ第一段階のあたりにいることに気づくかもしれません。必死になって主を探し求めなさい。あなた自身のうちにおいでになるイエスを全力で探しなさい。このような努力を続けるなら、あなたはすでに主に出会い、主と交わり、主をお愛しして、天国での語らい13を始めていると、私は保証します。

ただひとつ気高く、ただひとつ価値ある野心を心の中で培う決意ができるように、主にお願いしましょう。この唯一の野心とは、聖母と聖ヨセフのように、神に対する燃えるがごとき心で、自分を忘れてイエス・キリストに付き従うこと。しかも、何事も疎略にしないで。そうすれば、仕事上の義務と社会人としての義務を果たしつつ内的沈黙を保ち、神の朋友となる幸せにあずかり、天におられる父なる神のみ旨を果たせと、優しくもはっきりと教えるキリストに対して、感謝の念が湧いてくることでしよう。

ところで、イエス・キリストと共に生きるなら、必ず主の十字架に出会うことを忘れてはなりません。神の手に自己を委ねると、主は、内外からの苦痛、孤独、反対、中傷、名誉毀損、潮笑を味わうに任せられることがしばしばあります。私たちが主に似た者となるようにお望みだからです。さらには気違いと呼ばれ、馬鹿者扱いされることさえお許しになることもあります。

思いがけないときに、こっそりと、あるいは横柄無礼にも正面から訪れる犠牲の機会を愛すべき時が来たのです。狼に投げつけるはずの石が羊を傷つける。キリストに従う人が、愛してくれるはずの人々の不信や疑惑、果ては憎しみまで、もろに体験します。彼らは、神との個人的な交わりや内的生活を信じることができず、猜疑心にかられてそんなことは嘘だと思い込む。ところが、無神論者、宗教に無関心な人、偏狭な人、粗野で厚顔な人々に対しては、臆面もなく優しく理解ある態度を示すのです。

きっと主はご自分の弟子が名指しで侮辱の槍玉に上げられることをお許しになるのでしょう。こういう個人攻撃の手段は、それを用いる人にとっても恥ずべき行為です。陳腐で常套的な攻撃であり、嘘偽りを大々的に宣伝した結果、邪悪と偏見にみちた流言飛語です。すべての人が慎みと良い嗜みとに恵まれているとは限りません。

不確かな神学と弛み切った倫理道徳を支持する人々、ヒッピーまがいの規律に則り、疑わしい典礼を司式する人々や無責任な統治者が、イエス・キリストのことしか話さない人々に対して、嫉妬や疑惑や讒言だけでなく侮辱と冷遇と辱め、あらゆる種類の悪評や厭がらせを流布したとて、不思議なことではありません。

イエスはこのような体験をさせながら私たちの霊魂を彫りあげ完成されます。しかし主のおかげで、内的平和と喜びを失うことはない。悪魔でさえ、百の嘘をもってしても一つの真理のデッチ上げも不可能であることを、よく知っているからです。また、平穏な生活を望むならば、かえって平穏な生活を諦める決心をしなければならぬことも充分承知していますから。

イエスの至聖なる人性に心から感嘆し、それを愛するならば、主の御傷を一つずつ発見していくことでしょう。辛くて厳しい受身の浄化のとき、隠そうと努める涙が甘くもあり辛くもあるとき、救いの御血に清められ、慰められ、強められるために、至聖なる御傷の一つひとつの中に入り込まなければなりません。嵐のときには岩穴に隠れると聖書が語る鳩のように14、御傷のもとに駆け寄るのです。この隠れ家の中で、キリストと親しい交わりを始めます。主の話し方は穏やかで、尊顔は麗しい15ことがわかるでしょう。なぜなら「み声は柔く快いと知るのは福音の恩寵を受けた者であって、その者のみが、あなたは永遠の生命の言葉を有しておられると主に申し上げることができる」16からです。

観想の小道を歩み始めさえすれば、情念は完全に黙する、とは考えないでください。キリストを求めるときの熱情、主との出会いと交わり、甘美な主の愛によって、私たちが罪を犯し得ない人間に変わると考えるなら、それは自己を偽ることになります。すでに経験済みで周知のことでしょうが、重ねて言わせてください。神の敵であり人間の敵である悪魔は、降参も、休戦もしない。それどころか、心が神の愛に燃えているときにも攻撃を仕掛けてくるものだと。もちろん、神への愛に燃えている人を、罪に陥れるのは至難のわざであると、悪魔は知っている。しかし、たとえわずかでも神を侮辱させることに成功すれば、その人を絶望の淵へ誘うことができることもよく承知しているのです。

私は、神についてのほかは話すつもりのない司祭ですが、この哀れな司祭の経験から何かを学びとりたいとお望みなら、次のようにお勧めしたい。肉が失われた権利を求めるとき、あるいは、肉以上に性質の悪い傲慢が反抗の鎌首をもたげるときには、主を十字架に釘付けた釘とキリストのわき腹を刺し開いた槍による御傷のもとに急いで身を寄せなさい。必要に応じて近づきなさい。そして、人間的愛情も神の愛も、ことごとく主の御傷に注ぐのです。これこそ一致を望む心のあらわれであり、キリストと血を分けた兄弟、同じ御母の子である自分を知ることにほかなりません。私たちをイエスのもと導いてくださるのは聖母なのですから。

聖なる十字架

熱い礼拝の心、静かな落ち着きと苦痛を伴った償いの心、このような心をもった人は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」17というイエスの言葉の真意をよく理解し、その忠告に文字通り従うことでしょう。主の要求は次第に厳しくなり、「神に対して生きるために(…)キリストと共に十字架につけられています」18と、燃えるように熱望するほどの償いを求めてこられます。しかし、私たちは<この宝>を、脆く壊れやすい「土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになる」19ためです。

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」20。

主が私たちに耳を傾けてくださらないとか、自分は欺かれているとか、さらには、聞こえるのは自分の声だけだとか想像してしまう。地上には支えがなく、天からも見放されたかのように感じる。しかし、たとえ小罪であっても罪は犯したくないと思う心は誠実で、罪を避ける努力もしている。私たちもカナンの女のように平伏して主を拝み、粘り強く主にお願いしてください。「主よ、どうかお助けください」21。すると、暗闇は愛の光に打ち負かされ、消え去ってしまうことでしょう。

今こそ叫ぶ時です。私を希望で満たすためにあなたの約束を思い出してください。すると、惨めな状態にいても私は慰められ、生命は力を漲らせる22。何事においてもすがるよう主はお望みです。主に頼らなければ、何事もなし得ない23ことは火を見るよりも明らか、また、主に頼るならば万事が可能になる24ことも。そこで、常に神のみ前を歩もうという決意25が強められるのです。

 活動していないかのような知性も、神の光に照らされると、敵を含めてすべての人々のためにすべてを配慮なさる主が、その友である私たちにどれほどの心遣いを示してくださるかを、はっきりと理解するようになる。いかなる悪や困難といえども、何らかの方法で善のために役に立つと確信するのです。すると、人間的な理由によっては根こそぎにすることのできないほど深い喜びと平安が、心にしっかりと根をおろす。悪や困難の<訪れ>は、必ず神的な何かを残してくれるからです。そして私たちは、感嘆すべきわざを行われた26主なる神を賛美し、また無限の宝を所有する能力27を備えてくださったことを悟るのです。

聖三位一体

子供のときに教わった単純で美しい口祷を出発点としましたが、もはこれらの口祷を捨てることはないでしょう。無邪気な子供の心で始めたこの祈りの道は、今や広くて静かな道、確実な道に発展しました。「わたしは道である」28と仰せになった御方との友情を保ち続けているからです。キリストをこのように愛するなら、そして、槍で貫かれた主のわき腹の傷口に超自然の大胆さをもって隠れ場所を求めるならば、主の約束は実現することでしょう。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」29という約束が。

そこで、心は、聖三位の各ペルソナを区別して、別々に礼拝する必要にかられる。これは、ある意味で、子供が目を見開いて物事を発見するように、超自然の生活において実現する心の発見であると言えます。聖父と聖子と聖霊との交わりを楽しみ、生きる力をお与えになる慰め主の御働きかけに容易に従います。受ける値打ちのない私たちに、超自然徳や賜物をお与えになる慰め主に従うのです。

「牝鹿が小川の流れを慕うように」30、渇きに喘ぎながら駆け寄りました。生きる水の泉で喉を潤すためです。永遠の生命に湧き出る31新鮮で豊富な清水の源で、なんら変わったこともせずに一日を過ごします。言葉で表すことはできないので、もは言葉は不要になる。知性は平静を取り戻し、思い巡らすこともなく見つめるだけ。そして、心は再び新しい歌を歌い始める。愛のこもった神の視線を、四六時中、感じ味わうことができるからです。

特別の状態について話しているのではありません。ごく普通にある現象です。愛に夢中になれば、突飛なことや目立った振舞いをせずに、苦しむこと、そして、生きることを学びます。神が知恵の賜物を授けてくださるからです。この「命に通じる狭い門」32に分け入るなら想像もできないほどの平安、得も言われぬ落ち着きが訪れることでしょう。

修徳主義だろうか、それとも神秘主義だろうか。いずれでも構わない。修徳主義であろうが神秘主義であろうが、問題ではありません。いずれにしても神の慈しみのあらわれであることに変わりはない。あなたが黙想に努めるなら、神は必ず助けをお与えになるでしょう。大切なのは信仰と信仰から生まれるわざなのです。わざであるというのは、あなたも最初から経験し、私もその都度強調したように、日毎に、より多くを要求なさる主に応えねばならないからです。これが観想であり交わり、一致です。たとえ気づく人は少ないとしても、これこそ大部分のキリスト者のあるべき姿なのです。この世界で営々と生活に励む信者が、無限とも言える内的生活の様々な道から、自分に固有な内的生活の道を選び、歩んで行かねばなりません。

日々の仕事を放棄しなくてもできる祈りの生活のおかげで、現世的に正しい抱負実現に努力し、神に近づくことができる。こういった日常の活動すべてを神に向けて高めるとき、世界を聖化することができます。手に触れるものをすべて金に変えたというミダス王の伝説を幾度も聞いたことがあるでしょう。私たちは過ちを重ねるばかりではありますが、触れるものをすべて超自然的に功徳のある金に変えることもできるのです。

父親のことも忘れて放蕩の限りを尽くしたあげく、有り金を使い果たしてしまった息子が家に戻ったとき、父親は言いました。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」33。私たちの父なる神はこのような御方です。たとえ私たちが罪を犯したとしても、痛悔して駆けつければ、惨めさから富を、弱さから力を引き出してくださる。神を無視せず日毎神に近づくなら、行いと言葉で神への愛を示すなら、全能と御憐れみに信頼してすべてをお願いするならば、素晴らしい賜物を与えてくださいます。裏切りのあとで戻ってきた息子にさえ、大宴会を準備してくださる神ですから、いつも主の傍らに留まろうと努める私たちに対して、いかほどのことをしてくださるか想像できるのではないでしょうか。

 というわけで、たとえ受けた侮辱や辱めが不当で無礼で粗野であったとしても、それを記憶に留めておくことは、私たちに相応しい態度ではありません。侮辱の数々を記憶に留めておくなんて、神の子にあるまじき態度です。キリストの模範を忘れてはなりません。キリスト教の信仰は、弱められたり、強められたり、失われたりすることはあっても、衣服のように着替えるわけにはいかないのです。

自然の生命があれば信仰は強められ、心は神の助けをもたぬ人間の赤裸々な惨めさを思い知って震えあがります。そこで他人を赦す心と感謝の念が湧き上がってくる。わが神よ、私の惨めな生活を想うと、虚栄心をもつことなどできません。まして、傲慢になる動機などひとかけらもありません。ただ、常に謙遜と痛悔の心をもって生きるべきことをひしひしと身に感じ、仕えることこそ最も泰然たる態度であることが分かります。

生きた祈り

「起き出して町をめぐり、通りや広場をめぐって、恋い慕う人を求めよう」34。心の平和を求めて、町々だけでなく、諸国を巡り、諸民族を尋ね、小道、抜け道にいたるまで、世界中くまなく駆け巡ろう。そして、日常の仕事の中に、平和を見出す。仕事は邪魔になるどころか、かえって一層愛を深め、神との一致を緊密にする動機であり近道です。

失望、戦い、争い、悲嘆、心の暗夜など、誘惑が再び待ち伏せ、あるいは襲いかかってくるとき、詩編作者と共に、「苦難の襲うとき、彼と共にいて助ける」35という一節を口ずさみつつ考えましょう。イエスよ、あなたの十字架と比べると、私の十字架にはどれだけの価値があるというのでしょう。あなたの傷口と比べれば私のかすり傷などなんでもありません。あなたの広大無辺で純粋な愛があれば、私の肩にお乗せになったこんな些細な悲しみなどとるに足りません。そこで、私たちも、「愛ゆえに死」36をも辞すまいという聖なる望みに駆られて、それを口にするのみならず、それを行いに表すのです。

神の涙のわけを悟りたい、神の微笑み、神の顔を仰ぎ見たいという熱い望みが生まれる。この気持ちは、聖書の次の一節に見事に表現されています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」37。心は神のうちに潜んで前進し、神化される。そして、喉の渇いた旅人のようになり、出合う井戸ごとに口を開いて渇きを癒します38。

こういう献身ができれば、使徒職への情熱は火のように燃え上がって日毎に強まり、その情熱を人々にも移さずにはいられなくなる。善は広がる性質をもっているからです。哀れな我々ではあっても、神の傍にいることさえできれば、焔と燃え上がらぬはずはありません。世界中に喜びと平和を<振り撒き>、キリストの傷ついたわき腹39から湧き出る救いの水を世界中に注いで、あらゆる仕事を神の愛ゆえに始め、そして、終えるために力を尽くさぬわけにはいかなくなるのです。

先ほど、悲しみと苦痛と涙について話しました。しかし、次のように断言しても辻褄の合わぬことを言うことにはなりません。愛を込めて偉大な師を探し求める弟子にとって、悲嘆や苦痛には独特の味わいがあります。たとえ神経は参ってしまい、苦痛が耐え難く思われても、忠実な子にふさわしく神のみ旨を心から受け入れ、神の計画を喜んで果たすやいなや、苦しみは直ちに消えてしまうからです。

日常の生活

特殊な信仰生活について話しているのではないことを重ねて強調したいと思います。一人ひとりのために神がなさったこと、そして、私たちがいかに応えたかについて、それぞれが糾明しなければなりません。勇気を出して自らを糾明することができれば、まだ足らない点が見つかることでしょう。昨日、日本の一求道者がキリストを知らない人たちにカトリック要理を教えていると聞いて感激し、また自分を恥ずかしく思いました。私たちにはもっと篤い信仰が必要です。そして、信仰と共に、観想が。

「わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」40。神のこの警告を静かに反復すれば、胸騒ぎは感じても、同時に甘美な味わいに浸ることができる。あなたを贖った、あなたをその名で呼んだ、あなたは私のものだ!生命を捨てるほど私たちを愛してくださった神、み前で聖なる者にするため41永遠の昔から私たちを選んでくださった神、浄化と献身の機会を間断なく与えてくださる神から、神ご自身のものを盗み取ってはなりません。

これだけの説明ではまだ疑問が残るというのなら、神の口からもう一つの証しを聴くことができる。「あなたたちがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたたちを選んだ。遠くに行って実を結び」、観想の精神から生まれるあなたたちの仕事の豊かな「稔りが残るためである」42と。

信仰、しかも超自然の信仰が要求されています。信仰が緩んでくると、神とは自分の子供など構わないほど遠い所においでになる御方であるかのように考えてしまう。宗教とは万策尽きたあとには必要であるが、それ以外のときは付足しに過ぎないと考え、いかなる根拠があるのかは知らないが、おおげさで突飛な出来事を期待します。反対に、信仰に燃えているときには、キリスト者の生活も人々の普通の生活と何ら変わるところのないことに気づく。神がお求めになる偉大な聖性は、今、ここで、日常生活の小さな出来事の中に潜んでいることが分かってくるのです。

私たちは天の祖国に向かう旅人ですから、私は好んで道について話します。あちこちで大きな困難に出合うこともあれば、時には川を歩いて渡り、踏み入り難い森に分け入るべきときもあるだろう。しかし、たいていの場合、何の変哲もない、なだらかな道をたどるだけでよい。私たちにとって最大の危険とは、慣れに陥ってしまうこと、すなわち、各瞬間の出来事があまりにも単純で平凡であるために、そのようなところに神はおいでにならないと考えてしまうことです。

あの二人の弟子はエマオに向かって歩いていた。その道を通る多くの旅人たちと同じ歩調で普通に歩いていました。すると、そこヘイエスが何気なくお現れになり、彼らと共に歩み、語りかけ、疲れを癒されたのです。私にはその場面が想像できます。すでに夕やみが迫っている。そよ風が吹き、周りを囲むのは稔りに撓む穂をたたえた麦畑。オリーブの老木も繁っている、鈍い光を浴びて枝を銀色に輝かせながら。

路上のイエス。主よ、あなたは常に偉大な方です。日常の雑事に取り紛れている私たちを捜して、後を追って来てくださると思うと、胸に熱いものがこみあげてきます。主よ、光栄を内に隠しておいでになるときも、あなたであることを悟ることができるよう、鋭い頭脳と清らかな瞳、純な心をお与えください。

この旅路は村に着いたときに終わりました。人となった神の慈しみ深い言葉を耳にし、我知らず心に疼きを覚えた二人は、主が行っておしまいになるのではないかと思い、悲しくなります。イエスは「なおも先へ行こうとされる様子」43だったからです。私たちの主は決してご自分を押しつけたりなさいません。心のうちに注いでくださった清い愛を垣間見た私たちが、自由に主をお呼びすることをお望みになります。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」44、もうすぐ夜になりますからと、無理にも主をお引き止めすべきです。

正直でないからか、それとも遠慮しているからか、私たちはいつも勇気を欠いているようです。しかし、心の中では、主に申し上げたいのです。私の心は闇に包まれています。どうぞ一緒にお泊まりください。私たちにとってあなたのみが光であり、焼き尽くすような私たちの憂いを鎮めることがおできになるのもあなただけですから。それに、「美しいこと、正しいことの中でいちばん大切なことは、あなたを常に所有することであるという事実を忘れては」45おりませんと。

イエスは留まってくださいます。キリストがパンを割かれたときのクレオパとその仲間と同じように、私たちの眼も開かれる。そして、目の前から主の姿が消え去って、あたりは再び夜のとばりに包まれてしまったにもかかわらず、もう一度旅を始めることができる。このように大きな喜びは、胸に秘めておくことはできず、主について人々に伝えたくて仕方がなくなるからです。

エマオへの道。主のおかげで<エマオ>への道は優しい響きを伝える言葉になりました。<エマオ>とは全世界のこと、主は神に至る地上の道を開いてくださいましたから。

天使らと共に

この世を旅する間、私たちが神である旅人イエスから決して離れることのないよう、主に助けをお願いしましょう。そのために、聖なる天使たちとの友情も深めねばなりません。この世でも、天国でも、私たちは大勢の友が必要です。聖なる天使たちへの信心をもってください。私たちの生活が神的であると同時に人間的であるのと同じように、友情とは人間的であると同時に神的なものです。主の言葉を憶えているでしょうか。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。(…)わたしはあなたがたを友と呼ぶ」46。信頼せよと教えておられるのです。すでに天国に住み、神の友となった人々や、私たちの周囲に暮らしている人たちだけでなく、主から離れた人々にも、正しい道に導いてあげるために、信頼の心を寄せましょう。

聖パウロがコロサイの人たちに宛てた言葉を繰り返して、この祈りのひとときの結びにしましょう。「絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟るように」47。ここで言う知恵とは、祈りと観想、慰め主を与える知恵のことです。

「すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」48。

神の母であり私たちの母である聖母マリアの保護を受け、一人ひとりが、聖霊の賜物と観想生活と完全無欠な信仰で教会に奉仕できますように。各々が、自らの職務上、職業上、身分上の務めを果たしながら、喜んで主を称えることのできますように。

教会を心から愛してください。神の愛ゆえに仕える決心をした人が味わう喜びをもって、教会に仕えてください。エマオに向かうあの二人のように失意のうちに歩む人を見つけたなら、自らの名においてではなく、キリストの名において、また信仰をもってその人に近づき、イエスの約束は必ず実現されること、キリストはその花嫁である教会を常に見守ってくださり、お見捨てにはならないことを教えて、安心させようではありませんか。暗闇はすぐに過ぎ去ることでしょう。私たちは光の子であって49、永遠の命に召されているからです。

「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。また、わたしに言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる』」50と。

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