愛の力

1967年4月6日


大勢の群衆の中に律法学者たちも混じっていました。そのうちの一人が主に質問します。すでに彼らは、良心の問題を複雑にしてしまい、どれがモーゼに示された教えであるのか判らなくなったほどでした。イエスは聖なる口を開き、一言ずつはっきりとお答えになりますが、その口調は豊かな経験に裏打ちされた人の確信に満ちていました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」1。

さて今度は、高間に集う弟子たちとの親密な雰囲気の中の主を眺めましょう。受難を目前にして、愛する者たちに囲まれたキリストの聖心は熱い焔と化しています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」2。

聖なる福音書の中の主に近づきたい人は、登場人物の一人となって福音書の場面に入り込みなさい。私はいつもこのように勧めています。そうすれば、すでにこれを実行している大勢の人々と同じく、皆さんも、イエスの言葉を一言も聞きもらすまいと耳を傾けるマリアと心をひとつにし、どんなに小さなことであろうと心配事はすべて主にお話しするマルタのようになるでしょう3。

主よ、なぜこの掟を<新しい掟>とお呼びになるのですか。ほんの今しが読んだように旧約聖書も隣人を愛せよと命じていました。公生活を始めたばかりのとき、イエスも隣人愛の義務に超自然の寛大さを付け加え、意味を拡大されたことを思い出すことでしょう。「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」4。

主よ、繰り返しお尋ねすることをお許しください。どうして今になってもこの掟を新しいと言われるのですか。あの晩、十字架上で<いけにえ>となる少し前、私たちと同じように、弱く惨めな弟子たちは、エルサレムまであなたに付き従いました。弟子たちと交わされた親しい語り合いの中で、あなたは愛徳の規準をお教えになったのです。それは思いもよらぬ規準でした。「わたしがあなたがたを愛したように」。使徒たちは主の計り知れない愛の生き証人でしたから、この言葉を本当に深く理解したに違いありません。

主の教えと規範は明快そのもの、間違う余地はありません。主は行いによって教えを一層はっきりとお示しになりました。それにもかかわらず、二十世紀が経った今もこの掟は<新しい掟>であると、私はいつも考えます。掟を実行する人はあまりにもわずか、大部分の人々は相変わらずこの掟について何も知りたくないようです。山と積もった利己主義に負けてしまい、なぜわざわざこれ以上、生活を複雑にする必要があるのか、自分の心配事で精一杯、それだけでも大変だ、とでも言わんばかりです。

このような態度はキリスト者には許されません。カトリックの信仰を告白するのなら、キリストが地上にお残しになった明白な足跡を踏んで歩みたいと心から望むなら、自分が望まぬ悪を人々にも避けてやるだけで満足するわけにはいかないのです。悪を避けてやるだけでも立派なことには違いないが、イエスの行いが愛の規準であることを考えれば、それだけではあまりにも小さな心だと言わなければなりません。しかも、この規準は人生の戦いを終えたときに達するという遠い目的ではありません。具体的な決心を立てて欲しいので繰り返します。この規準こそ出発点です。いうより、出発点でなくてはならないのです。主は、「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言って、この掟が前提であることをお示しになったのです。

主イエス・キリストは肉体となり、あらゆる徳の模範を全人類に示してくださいました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、(…)わたしに学びなさい」5とお招きになる。

少しあとで、キリスト者であるか否かを示す印について使徒たちに説明されますが、「あなたたちが謙遜であるから…」とは、おっしゃいませんでした。主は純潔そのもの、汚れなき小羊で、何者と言えど主の「一点の汚れもない」6完全な聖性を否定することはできなかった。それにもかかわらず、「貞潔で清い者であるから、人はあなたたちがわたしの弟子であることをみとめるだろう」とは、言われなかったのです。

この世では地上の富から全く離脱して過ごし、全宇宙の創造主・主宰者でありながら、「枕するところもなかった」7。けれども、「富から離脱しているから、人々はあなたたちがわたしのものだと知るだろう」とは、言われませんでした。福音宣教を始める前に、厳格な断食を守って四十日四十夜を砂漢でお過ごしになった8。それなのに、「大食漢、大酒飲みでないから、人々はあなたたちが神に仕えるものであると考えるだろう」とも、おっしゃらなかったのです。

あらゆる時代の使徒たち、真のキリスト者達の特徴は、すでにご存じのように、次の点にあるとお教えになります。「互いに愛し合うならば、それによって」、正にそのことによって、「あなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」9。

主の再三の教えを耳にして、神の子らが、今の私たちと同じように、心を強く動かされたのは当然と言えましょう。「聖霊においてそうするための力が与えられていたとは言え、主は人目を引くようなこと、耳にしたこともない奇跡をするか否かが、弟子が忠実であるか否かの決め手になるとは仰せにならなかった。それでは、何をお教えになったのか。次の通りである。『互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる』」10。

神の教育法

敵を僧んではいけない、悪に悪を返してならない、復讐を捨てなさい、恨みなしで赦しなさい、―この教えは当時も今も、異常で英雄的かつ度を越した行為であると考えられています。人間はこれほど<けちな考え方をするようになっていると言わねばなりません。全人類を救うためにこの世に生まれ、信者を自らの贖いのわざに協力させようと望まれたイエス・キリストは、ご自分の弟子たち―あなたと私―に大きな愛、誠実、高潔で勇気溢れる愛の必要を教えたいとお望みです。キリストが一人ひとりを愛してくださるように、私たちは互いに愛し合わなければなりません。このようにしてのみ、つまり粗野な私たちではあるが、神の愛し方を真似ることによってのみ、すべての人々に心を開き、新たな心で深く愛することができるからです。

初代のキリスト者たちは、この燃えるがごとき愛徳を見事に実行していました。単なる相互扶助や温和な性格をはるかに超える愛を実行していたのです。キリストの聖心で互いに優しく強く愛し合っていました。二世紀の著作家テルトゥリアヌスは異教徒の間に広まっていた噂を伝えています。当時の信者は超自然的にも人間的にも魅力に溢れていましたが、その信者たちの振舞いをみて、驚嘆した異教徒が繰り返し口にした言葉です。「本当に、見事に愛し合っている!」11と。

日々、そして今、あなたが行っていることを顧みて、このような賞賛には値しない、あるいは、神のお望みに応えていないと思うなら、行いを正す時が訪れた証拠です。聖パウロの招きに応じましょう。「すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」12。

キリスト者がこの世で実行すべき第一の使徒職、言い換えれば、最も効果的な信仰の証しは、真実の愛が教会を支配するよう手を貸すことです。互いに心から愛し合わなければ、そして、攻撃、中傷、諍いをなくさなければ、「福音」を告げるためにどれほど苦労を重ねても、人々を惹きつけることなどできるはずがありません。

信者・未信者の区別なく、全人類を愛さねばならない。こう口先だけで言うのは簡単です。たいへん流行していることでもあります。しかし、そのように言っている人が同じ信仰をもつ兄弟を冷たくあしらうならば、その人の行為は偽善者の無駄口と大して変わらないと考えざるをえません。「同じ父の子供であり、同じ信仰に結ばれ、同じ希望を受け継いでいる」13人々を、キリストの聖心で愛するからこそ、心が広くなり、すべての人を主に近づけたいという熱意が燃え上がるのではありませんか。

今、愛徳を実行すべきであると申し上げていますが、正に、私が口にしたばかりの言葉に愛徳が欠けている、と考える人がいるかもしれません。しかし、そうではない。私は聖なる誇りをもって、また誤れるエキュメニズムに陥ることなく断言します。全人類を救いたいという熱い望みが、飢えのように私を食い尽くしていると。唯一の道であるイエスから離れている人々に、神の真理を伝えなければならないと、第ニバチカン公会議が以前にも増して力強く主張したとき、私は本当にうれしく思いました。

あのときの喜びは、それは大きなものでした。オプス・デイが好んで力を入れる使徒職、<人々を信仰に導く使徒職>が、新たに確認されることになったからです。一人として拒むことなく、未信者、無神論者、異教徒にも、できる限り私たちの霊的善を分かち合えるよう、門戸を開いています。はっきりと申しましょう、遠くの人々にできるだけ親切を示そうと主張しながら、同じ信仰にある人々を踏みつけ、軽く見るなら、その人の熱意は偽善的な偽りである、と。同じように、家族の者の喜びや苦しみ、不愉快なことには関心を示さず平気で家族を苦しめているなら、あるいは、欠点とはいえ、罪ではないことを理解しようともせず、忍んでやろうとも思わないなら、たとえ道端の物乞いに親切を示したとしても、そのような人の愛徳はとうてい信じることができません。

すでに年老いていた使徒ヨハネは、書簡の大部分を費やして、神がお示しになる愛徳の教えに従って生きなさい、と励ましていました。心を打たれずにはおれません。キリスト者同志の愛は、真の愛である神から生まれます。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」14。キリストのおかげで私たちは神の子となったのですから、兄弟愛についてこのように細かく考えるのは当然でしょう。「考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」15。

使徒聖ヨハネは、良心に強く訴え、神の恩寵にもっと敏感に反応するよう励ましながら、御父が確かに素晴らしい愛を注いでくださっている証拠を示しました。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」16。主がイニシャティブをとられる。主が先に、私たちに会いに来られました。望むところあって模範をお示しになりました。私たちが主と共に隣人への奉仕に駆けつけるように、また、私の大好きな言葉で言えば、寛大に自分の心を<敷物>にして人々がその上を気持ちよく歩けるように、さらに、人々の内的戦いを楽にしてあげるために努力するよう、主はお望みだからです。そのとおり実行しなければなりません。私たちを、独り子を躊躇せず与える御父の子、つまりキリストの御父の子にしてくださったのですから。

愛徳とは、自分の努力で獲得できるものではなく、神が恩寵と共に注ぎ込んでくださる徳です。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」17くださった。この真理をしっかりと心に刻みつけておいてください。「神を愛することができるのは、神が先に愛してくださったからである」18。あなたも私も、神の愛のおかげで信仰を得ることができたのですから、周囲の人々にも愛を注がなければなりません。この超自然の宝である愛徳をくださるよう、大胆にお願いしましょう。愛徳を細やかに実行できるよう、主にお願いしてください。

私たち信者は、この恩寵にたびたび応えなかったのではないでしょうか。ある時は、愛徳を低く見積もって心のこもらぬ冷たい施しにすり替え、またある時は、愛徳を多かれ少なかれ形だけの慈善に限ってしまいました。このような思い違いは、病床に伏すある婦人の諦めにも似た不平を聞けば、よく分かります。「ここでは愛徳を込めて世話をしてくださいますが、母は愛情を注いでくれたものです」。キリストの聖心から生まれる愛があるなら、愛徳と愛情の区別などできないはずではありませんか。

心に刻み込んでいただきたいので、私は何度もこの真理を説いてきました。神を愛し、人間を愛するために、私たちは二つの心があるわけではない。肉体を持つ人間の哀れな心は、人間的な愛情を注いで愛するのだが、その人間的な愛も、キリストの愛と結ばれると超自然の愛となる、その愛こそは、ほかでもない心の中に養うべき愛、隣人の中に主の姿を見つける愛なのだ、と。

愛は普遍

大聖レオは次のように述べています。「私たちにとって、隣人という言葉には、友情や血縁関係によって結ばれている人々だけではなく、同じ一つの本性をもったすべての人間が含まれている。唯一の創造主が我々をお造りになり、魂をお与えになった。すべての人間が同じ空をいただき、同じ空気を吸い、同じ昼と夜を過ごす。善人と悪人、義人と不義の人の違いがあるとしても、神はすべての人間に等しく寛大であり善を施される」19。

私たち神の子が、自ら切磋琢磨して新しい掟を実行し、教会の中では「仕えられる者ではなく仕える者」20となり、全人類を新しい仕方で愛するよう努力するなら、人々はそれがキリストの恩寵のおかげであることに気づくでしょう。単なる仲間意識や感傷と綯い交ぜにするわけにはゆきません。言うまでもなく、優越感を味わうために他人を助けるという、不純な野心とも異なります。愛とは、周りの人々と手を取り合って生きること、人々のうちにある神の像を尊重すること、さらには、人々が自らの中にある神の像を見つめてキリストに近づくことができるよう、助けてあげることだからです。

それゆえ、愛の普遍性は使徒職の普遍性にほかなりません。「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」21神の大きな熱意を、私たちが実際の行いで表すことなのです。

敵をも愛すべきであるなら、(私は誰に対しても、何に対しても、私の敵だとは思っていないので、私のことを敵だと考えている人がいるとすれば、として申しますが)、ただ遠く離れているというだけの人、多少とも肌の合わない人、あるいは言葉や文化、教育の相違のためにあなたや私に対立しているかのように見えるだけの人たちを愛するのは、なおさら道理にかなっていると言わなければなりません。

ここで言う愛とは、どのような愛のことでしょうか。聖書では、単なる感覚的愛情とはっきり区別するため「ディレクツィオ」(愛)という言葉を使っていますが、この語は言うならば、意志の固い決意を表します。「ディレクツィオ」は「エレクツィオ」(選ぶ)に由来し、さらに付け加えるなら、キリスト者の愛とは、「愛したいと望むこと」だと言えるでしょう。キリストにおいて決意を固め、いかなる差別もなく万人の善を図る、ひいては最善のものを与えること、つまり、人々がキリストを知り、キリストの愛に夢中になるよう努力することです。主は私たちを急き立てておいでになる。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」22。私たちを受け入れない人に、あまり心を惹かれないのは当然です。しかし、イエスは言われました。悪に悪を返してはならない、と。辛いかもしれませんが、心を込めて仕える機会を無駄にすることのないよう努力しましょう。忘れずに、絶えず、祈ってあげてください。

この「ディレクツィオ」(愛)は、信仰における兄弟、とりわけ神の摂理によって私たちにもっとも近しい人々、父母、夫または妻、子供、兄弟、同僚、隣人を対象とするとき、一層深く愛情の色合いを増していきます。万一、神に基を置き、神に秩序づけられている、高貴で清らかな人間的な愛情が伴っていないとすれば、本当の愛徳であるとは言えないでしょう。

愛の表明

聖霊が預言者イザヤの口を借りて伝えている言葉を取り上げてみましょう。「善を行うことを学べ」23。私はよくこの勧めを内的生活の色々な面に当てはめて考えることにしています。毎日の実質的な努力があってはじめて徳の進歩が見られる以上、キリスト教的な生活に、もうここまで充分だと言えることは決してありませんから。

社会で様々な仕事に携わるにあたり、多くを学ぶためにはどうすればよいのだろう。第一に、目指す目的と目的達成に必要な手段を調べる。続いて、しっかりと根をおろした習慣が身につくまで、その手段を飽かず繰り返す。何かを学んだと思った瞬間にまだ知らないことがあったのに気づき、今度はそれが刺激となって仕事を続ける。もう充分だというような言葉を口にしないようにしましょう。

隣人愛とは神の愛のあらわれですから、この徳に進歩しようとする人が限度を設けることは許されません。神に対して唯一可能な尺度とは、尺度なしということ、つまり限りなく愛することです。なぜ?理由の一つは、神が私たちにしてくださったことについて正当に感謝することなどできないから。もう一つは、人間に向けられた神の愛が、行き過ぎと言えるほどの愛、無制限の愛であるからです。

聞く耳をもっている私たち全員に、イエスは山上の垂訓の中で愛の掟をお教えになりました。その結びは次の通りです。「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」24。

心のこもらない同情には憐れみのかけらも見られない。憐れみとは、溢れんばかりの愛のことで、当然ながら正義にかなう。憐れみとは、心を繊細に保ち、犠牲をいとわぬ寛大な愛で人間的にも神的にも心の痛みを感じうることです。聖パウロは賛歌の中でこの徳を説明しています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」25。

愛徳があれば、まず謙遜の道を歩み始めます。心から自らの無を悟ったとき、神の助けがなければ自分より弱く脆い人にさえ劣ることが分かったとき、さらに、どのような恐ろしい過ちを犯すかもしれないことや、多くの不忠実を避けるためどれほ必死になって戦おうとも、罪人であることに変わりのない自分に気づいたとき、そのようなときに、どうして他人を悪く思うことができるでしょう。

謙遜であれば、今述べたような接し方、つまり、隣人との最も望ましい付き合い方ができるようになります。すべての人を理解し、すべての人と共に生き、すべての人を赦す、また、人を区別したり隔たりを置いたりせず、いつも人々の一致に役立つように働くようになるのです。人は心の奥で、平和や同僚との一致、個人の権利の相互尊重などに強く憧れていますが、これは空虚な憧れではない。こういう考え方は兄弟愛へと育つべきなのです。人間であることの最も貴い証拠はそこに現れます。私たちはみな神の子です。兄弟愛を一つのお題目にしたり、夢のような理想と考えたりしないようにしましょう。難しい目標には違いないが、充分に実行できる目標ですから。

私たちキリスト者は、皮肉屋、懐疑主義者、冷血漢など、自分の臆病を土台にしてものを考える人たちを向こうにまわして、この愛情が実行可能であることを示さなければなりません。それには、おそらく色々と難しいこともあるでしょう。人間は自由な存在として創造されましたから、無益とは言え、神に刃向かうこともできるからです。しかし、とにかく、今お話ししている愛は必ず実行できます。神の愛と神への愛があれば、必ず愛にかなった生き方ができます。私たちがそのように望みさえすればよいのです。イエス・キリストもまたそうお望みになっています。苦しみと犠牲、自己を忘れた献身が、人々と共に歩む日々の生活の中で、どれほど深く、また豊かな意味をもつかが理解できることでしょう。

愛徳の実行

キリスト者の義務である愛徳の実行は容易だなどと、単純に考えるわけにはゆきません。人間社会の日々の営みの中で、また、悲しい限りですが教会内においても、現実はかなり異なっています。愛ゆえに沈黙する義務がなければ、誰もが分裂や攻撃、不正や中傷、策略などに関する話を、いつまでも際限なく続けるに違いありません。素直に実状を認めましょう。人を傷つけたり冷たく扱ったりしないために、悲しませずに正してあげることができるためにも、一所懸命に努力しなければならないのです。

このような悲しい状態は今に始まったことではありません。キリストの昇天から何年も経たない頃、多くの使徒たちが世界のあちらこちらに足を運んだ結果、信仰と希望の燃えるような熱意はすでに広くゆきわたっていましたが、それでも大勢の者は道を踏み外して、主の愛徳の実行に力を尽くさなくなっていました。

聖パウロはコリントの人々に書き送っています。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人に過ぎないではありませんか」26。キリストがこれらの分裂を克服するために来られたことを理解できていないではないか。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」27と。

使徒は、人間の多様性、一人ひとりの違いを否定しません。各々は神から独自の恩寵を受けており、それぞれが異なる存在だ28、言っています。むしろ、そういった違いを教会の善に役立てるべきです。いま私は主に向かって、教会の中に愛の不足による分裂が生じることのないよう強くお願いしたいと思っています。よろしければ皆さん方も私の祈りに意向を合わせてください。愛徳は、キリスト者の使徒職にあって塩の役目を果たします。万一、その塩が味を失うようなことにでもなれば、「ここにキリストがおられる」と、堂々と胸を張って人々に告げることはできなくなるでしょう。

聖パウロと共に繰り返します。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」29と。

異邦人の使徒、聖パウロの言葉を聞いて、ある人々は、イエスがその御体と御血の秘跡をお告げになったとき「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」30と言った、あのキリストの弟子たちと同じ反応を示しました。確かに、このような愛徳の実行は容易なことではありません。使徒の説く愛徳は、慈善事業や博愛主義、あるいは他人の苦しみを見て抱く同情のような、ちっぼけなものには限られていないからです。使徒の言う愛徳を実行するには、神への愛と、神ゆえの隣人愛という、対神徳を実行しなければなりません。だからこそ、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。 (…)信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」31と言うことができるのです。

唯一の

キリスト教的生活の基本となる徳でありながら、時として漫画のように描かれてきた愛徳は、本当の愛徳ではないことがよく分かりました。それでも、絶えずこの徳について説かなければならないのはなぜでしょうか。必須のテーマでありながら、具体的な行いに表されることがあまりにも少ないのはなぜでしょうか。

周りを見渡してみれば、愛徳は虚しい徳だと考えざるを得ない、とおっしゃるのですか。けれども、信仰の目で物事を見るなら、このように実のない状態に陥った原因が分かるのではないでしょうか。主イエス・キリストとの絶え間のない親しい交わりの不足、霊魂内で続く聖霊の働きを知らないこと、これが原因です。実は聖霊の働きの最初の実りは愛徳なのです。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」32。この使徒の勧告を黙想して、教父の一人は次のように付け加えています。「キリストを愛するなら、他人の欠点も容易に忍ぶことができる。善い行いをしないのでまだ私たちが愛するところまでゆかないような人、そのような人々の欠点も忍び易くなるだろう」33。

このあたりから愛徳を深める道が始まります。博愛的な活動や救済事業が第一で、これに力を注がなければ主を愛したことにはならないと考えるなら、それは大間違いです。「病床の隣人を心配するあまり、キリストをないがしろにしてはならない。キリストのために病人を愛すべきなのですから」34。

絶えずイエスを見つめてください。イエスは神であることを止めることなく、私たちに仕えるために遜り、奴隷の姿35をとってくださいました。全力を尽くしてイエスを見倣う必要があります。愛は一致を求め、愛する人とひとつになります。キリストと一致するなら、測り知れないほどの愛と献身、死に至るまでの犠牲を厭わない主の生涯を見て胸を打たれ、たとえわずかなりとも後押ししたいという望みが湧いてきます。主は二者択一をお求めになります。自分のことだけを考える利己的な生き方か、それとも、全力を傾けて人々に仕える生き方か。

最後に、主とのこの語り合いを終えるにあたり、聖パウロの次の言葉を繰り返すことができるようお願いしましょう。「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」36。

この愛について、聖書はまた、燃えるような言葉で歌っています。「大水も愛を消すことはできない。洪水もそれを押し流すことはできない」37。聖母マリアの心は、常にこの愛に満ち溢れていました。だからこそ、全人類の優しい母となってくださったのです。聖母の神への愛は、私たち子供への配慮とひとつに溶け合っています。ブドウ酒がありません38。マリアは甘美なみ心で、誰も気づかないような小さなところにまで気を配っていました。ところで、イエスの受難と死刑の際には、怒り狂った兵士たちと群衆の残忍な行為を目前にして、張り裂けんばかりの苦痛を耐え忍んだに違いありません。それでも、マリアは黙っておられる。御子と同じように、愛し、黙し、赦す。これこそ、愛の力なのです。

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