信仰生活

1947年10月12日


昨今ほとんど奇跡は起こらないという声を耳にします。信仰の篤い人があまりいないからではないでしょうか。「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」1と言われた神が、約束に背くとは考えられません。私たちの神は真理そのもの、存在するものすべての基ですから、全能の神がお望みにならない限り、何ひとつ実現しません。

「始めにありしごとく、今もいつも代々に至るまで」2。主に転変はありません。ひとつとして欠けるものはないのですから、探し求めて動き回る必要などないのです。神は、動きそのもの、美の美であり、偉大なお方、今も昔も全く同じ方です。「天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても、わたしの救いはとこしえに続き(…)」3とあるとおりです。

 神は人間との永遠に続く新しい契約を、キリストにおいて結んでくださいました。ご自分の全能を人々の救いのために役立ててくださったのです。人々が信頼を失い、信仰不足ゆえに震えおののく時、イザヤが主の名によって告げる言葉が再び響きわたります。「わたしが来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか。わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか。見よ、わたしが叱咤すれば海は干上がり、大河も荒れ野に変わる。水は涸れ、魚は異臭を放ち、渇きのために死ぬ。わたしは、天に喪服をまとわせ、粗布で覆う」4。

信仰とは、知性に働きかけて、啓示された真理を承認させる徳、三位一体の神の救いの全計画を告げるキリストの招きに応じさせる超自然の徳です。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであ(ります)」5。

シロアムの池で

信仰について、また信仰の教えについて、私はイエスに話していただこうと思っています。そこで、福音書を開いて、主の生涯の場面のいくつかに入り込んでみましょう。弟子たちが信頼して自らを捧げ、御父のみ旨を果たすことができるよう、主は少しずつお教えになります。言葉と行いで弟子たちに教示されたのです。

 聖ヨハネ福音書の第九章を開いてみましょう。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』」6。キリストに常に同行していたにもかかわらず、弟子たちはあの哀れな盲人を悪く思いました。一生の間、また、教会に仕えるべく努力を傾けているときにも、主の弟子でありながら同じような態度を示す人々に出くわすことがあるかもしれないが、そのような時にも驚かないように、という主の配慮を示す場面と言えましょう。たとえそのようなことが起こっても、この盲人と同じように気にせず無視して、キリストの手に何もかもすっかりお任せすることです。キリストは攻撃するどころかお赦しになります。罪に定めずに赦してくださいます。病に気づけば知らぬふりをすることなく、神としての力を発揮して、癒してくださいます。主は「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム―「遣わされた者」という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」7。

この盲人の確固たる信仰は、素晴らしい模範、行いに現れる生き生きした信仰の模範となるのではありませんか。よくあることですが、心配事が心の中の光を隠してしまったために何も見えなくなるとき、あなたはこの盲人のように神の命令に従っているでしょうか。池の水に濡らせば目が癒されると言われたところで、池の水にどのような力が備わっていたというのでしょう。魔法の点眼薬を使うか、錬金術師が実験室で発明した妙薬をつける方がよく効いたのではないでしょうか。しかし、あの盲人は信じました。神の命令に従ったのです。その結果、戻ってくると視力は回復していました。

 聖アウグスチヌスはこの場面を評して次のように語っています。「聖福音史家が池の名の意味を明かすために『遣わされた者』と書き残してくれたことは真にありがたい。おかげで、この遣わされた者がどなたを指すかが分かった。私たちのところへ主が遣わされなかったとすれば、ひとりとして罪から解放される人はいなかったであろう」8。癒すためにわざわざ遣わされた医者である私たちの主を、固く信じなければなりません。患う病が重ければ重いほど、より固く信じなければならないのです。

神がどのような尺度で事物をお測りになるかを知らなければなりません。超自然の「照準」から絶対に目を離さないようにしましょう。また、イエスは自らの光栄を輝かせるために、私たちの弱さを考慮してくださることを忘れるわけにいきません。そのためには、自愛心や疲れ、落胆や情欲が心の中で動き始めるやいなや、直ちに反応して、主に耳を傾け、聴き入る必要があります。生きている限り、常に弱さに付きまとわれる定めですから、自己のありのままの姿、その悲しむべき有様を見ても、決してがっかりしてはならないのです。

 これこそ信者の歩む道です。あなたに全幅の信頼を置いていますが、主よ、あなたは私を信用なさらないでくださいと、謙遜で強い信仰の心から弛まず主の助けを請い求めなければならないことが理解できます。決して私たちを見捨てないキリスト・イエスが、優しく見つめ、理解し、愛してくださっていることを心に感じるようになれば、使徒の言葉の深い意味が理解できるのではないでしょうか。「『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」9。たとえ芥のごとき身ではあっても、というよりは惨めなところがたくさんあるからこそ、かえって主を信じ、父なる神に対する忠実を保つことができるのです。神の力が発揮され、弱さに圧倒されんばかりの私たちを支えてくださいますから。

バルティマイの信仰

今度は、もう一人の盲人が癒される場面の出てくる、聖マルコによる福音書を開いてみましょう。「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた」10。人々の騒ぎを耳にした盲人は尋ねます。「何が起こったのでしょうか」。人々が、「ナザレのイエスだ」と答えると、キリストヘの信仰に燃えるバルティマイの口からあの叫びがほとばしりでました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」11。

 あなたも自分のために同じ叫びを上げたいとは思いませんか。短い人生という道の傍らに立ち尽くしているあなた、聖人になる決意を固めるため一層多くの恩寵を必要とするあなた、光に欠けるあなた自身に、叫びたくはないでしょうか。矢も盾もたまらず、「ダビデの子イエス、私に憐れみを」と、大声を上げたくはならないでしょうか。何度も何度も繰り返す射祷として美しいこの言葉を。

 奇跡が起こる前の様子をじっくり黙想しましょう。イエスの慈悲深い聖心に比べて私たちの心がいかに哀れであるかを、しっかりと心に刻みつけておきたいからです。そうすれば、いつでも役に立つことでしょう。特に、誘惑や試みのとき、また、日常の小事あるいは英雄的な大事を果たす努力を続けるとき、必ず強い支えになるはずです。

「多くの人々が叱りつけて黙らせようとした」12。イエスがすぐ傍らをお通りになっているのではないかと感じるあなたにも、人々は沈黙させようとして叫び立てます。あなたの鼓動は激しく打ち、遂に大声を上げる、心の奥底で逆巻く不安にいたたまれなくなって。ところが、友人、習慣、気楽な生き方、環境などすべてが一団となってあなたに忠告します。「黙れ。大声を張り上げるな」、「なぜイエスを煩わせるのか。呼ぶ必要などないではないか」と。

 哀れなバルティマイは人々の言うことに耳を貸さず、さらに力をふりしぼって叫びたてます。「ダビデの子、どうかわたしにご慈悲を」。主は初めから彼の声を聴いておいでになりましたが、素知らぬふりをして盲人が祈り続けるままにしておかれました。あなたの場合も同じでしょう。私たちが最初に祈りを始めたときから、イエスはちゃんとご存じです。しかし、お待ちになります。私たちに主が必要であることを確信させるために。エリコの道端で叫び声を上げるあの盲人のように、私たちが執拗に願い続けることをお望みなのです。「バルティマイを見倣いましょう。たとえ神が願いごとをすぐに聞き入れてくださらなくても、たとえ大勢が祈りを止めさせようと妨害しても、倦まず弛まず願い続けねばなりません」13。

「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた」。そして、近くにいた何人かの善良な人々が盲人に伝えます。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」14。これがキリスト教の召し出しではないでしょうか。ただし、召し出しとは、神が一度だけお呼びになることではありません。神は常に呼びかけておいでになります。立ちなさい、怠惰を捨てなさい、つまらない利己主義や安楽、さほど大切とは言えぬあなたの心配ごとなど忘れてしまいなさい。不恰好に地に這いつくばった、役立たずな状態から早く抜け出しなさい。高さと重さと量、それに超自然の見方を取り戻しなさい、と。

 その男はすぐに、「上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た」15。上着を脱ぎ捨てて!戦場に足を踏み入れたことがあるでしょうか。もうずいぶん昔のことですが、戦いが終わったばかりの戦場に立ったことがあります。そこには毛布や水筒、それに愛する人たちの手紙や写真の詰った背のうが散乱していました。それらはいずれも敗残兵の持ち物ではなく、勝利を得た兵士たちのものでした。突撃に入り、敵陣を突破するとき、邪魔になるので、キリストに付き従ったあのバルティマイのように、兵士たちはすべてを投げ捨てて敵に立ち向かっていったのです。

 キリストのもとへ行くには犠牲を払わねばならない。このことを忘れないでください。毛布も水筒も背のうも、邪魔になるものはすべて捨てなければなりません。神に光栄を帰するための戦いにおいて、また、キリストの王国を広めるための平和と愛の戦いにおいて、私たちも同じことをしなければならないのです。教会と教皇と人々に仕えるには、足手まといになるものをすべて放棄する必要があります。たとえそれが夜の寒さを耐え忍ぶための毛布や愛する家族の思い出、元気をつけるための水であっても。以上が、信仰の教えであり、愛の教訓であります。

行いを伴う信仰

続いてすぐに、心を震わせ燃え上がらせる素晴らしい対話、神との語り合いが始まります。さあ、あなたも私も、バルティマイになったつもりで、福音書の場面に入り込むことにしましょう。キリストが口を切り、お尋ねになります。「何をしてほしいのか」。そこで盲人は答えます。「先生、目が見えるようになりたいのです」16。まことに当然な願いではありませんか。いつか、あなたにもエリコの男と同じことが起こったのではないでしょうか。ずっと昔、福音書のこの章を黙想して、イエスが私に何かを望んでおられることに気づいたとき、実はそれが何であるかはまだ知らなかったのですが、そのとき、この言葉を射祷にしたことを思い出します。主よ、何をお望みですか。何を私に要求しておいでになるのですか。何か新しいことを主が私にお求めになっていることを予感し、「ラッボー二、ウット・ヴィデアム」(先生、見えるようにしてください)とキリストにお願いし、あなたのみ旨が実現しますようにと祈り続けました。

私と一緒に主に祈りましょう。「御旨を行うすべを教えてください。あなたはわたしの神」17。行いにあらわれる効果的な望みをもって、創造主の招きに誠実に応える決意の言葉が私の口から出ますように。神が失敗なさることはないという不抜の信仰と確信に支えられて、主の計画実現に全力を尽くしたいものです。

 神のみ旨をこのような態度で愛することができるなら、真理をはっきりと提示すべきであることのみならず、信仰を守る決意を行いに表すことが信仰の本領であるということも、理解できるでしょう。そして、この理解に基づく行動に力を尽くすはずです。

 エリコの場面に戻りましょう。今キリストは、あなたに向かって話しかけておいでになる。「何を望むのか」とお尋ねになっています。そこであなたは、見えますように、主よ、見えるようにしてください、と答える。すると、イエスの言葉が返ってきます。「『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』。盲人は、すぐ見えるようになり、お道を進まれるイエスに従った」18。主に従って主の道を歩むこと。あなたは主の提案を知りました。そして、同行の決意を固めます。主の跡に従い、「キリストを着」、キリストになりきるために努力します。主がお与えになる光に対する信仰、あなたの信仰は、行いと犠牲にあらわれなければなりません。新しい方法を探し求めても無駄ですから、つまらぬことを夢に見ないようにしましょう。主が要求なさる信仰とは、神の歩調に合わせて数多くの寛大なわざを実行し、邪魔物を捨て去り、障害物を乗り越えて、道を歩むことなのです。

信仰と謙遜

今度は聖マタイが感動的な場面を示してくれます。「そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた」19。バルティマイのように、大きな信仰の心から、大声で自らの状態を告白する病人はどこにもいます。ところで、キリストの道を歩む人々の間には二人として同じ人はいません。この女性の信仰は立派です。彼女は叫び声を上げません。誰にも気づかれぬうちに近寄ります。癒されると確信していました20から、イエスの衣に少し触れさえすればよかったのです。衣に触れるか触れぬかのうちに、主は振り返ってごらんになります。女の心の中で起こったことを、すでにご存じでした。そして、その信仰をお知らせになります、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」21と。

 「上衣の裾回しにそっと触れた。信仰をもって近づき信じた。そして、癒されたことを知ったのだ。救われたいなら、我々も信じて、キリストの衣に触れなければならない」22。 これで、あなたの信仰のあるべき姿が明らかになったのではないでしょうか。キリストが私たちを招いてくださるなんて、いったい私たちは何者なのでしょう。キリストのこんなにも近くにいることができる私たちは、そもそも何者なのでしょうか。群衆の中のあの女性に対するように、主は私たちにも機会を与えてくださいました。それも、衣服や上衣の裾回しだけでなく、ご自分を所有させてくださったのです。キリストは、御体と御血、霊魂、神性ともども、自らを食物として毎日お与えになる。そのおかげで私たちは、父親に対するように安心して、また愛する人と話すように親しく、主と語り合うことができる。これは嘘でも想像の所産でもありません。

努めて謙遜の徳を育てましょう。謙遜な信仰があればこそ超自然的な物の見方ができます。これ以外に方法はありません。この世での生き方には二通りしかない。超自然的な生き方をするか、動物的な生き方をするか。ところで私たちには、超自然的な生活、神的な生活を送る以外の生き方はありえません。「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」23。この地上に住まう生き物も、知性や意志が抱く大きな望みも、いったい何の役に立つでしょう。すべてに終わりがあり、すべては崩れ去る。この世の富といえども舞台の書割に過ぎません。ところが後の世は、いつまでもいつまでも、永遠に続きます。この世の事物にどれほどの価値があるというのでしょう。

 イエスのテレジアは、<永遠に>という言葉のおかげで、大聖テレジアになりました。幼いときテレジアは、アダハと称される城壁の門を通って、キリストのために、兄のロドリゴと共に首を刎ねてもらおうとムーア人の土地へと出かけて行きます。疲れた兄に向かって、<永遠に、永遠に>と囁きながら24。

 現世の事柄について永遠という言葉を使えば、嘘をつくことになります。神に向かつつ永遠と言ってはじめて、嘘偽りのない真理を述べることになるからです。あなたもこのように信仰の助けを借りて、蜜の味と天国の甘美を味わいながら、真の意味の永遠を考える毎日を送らなければなりません。

日常生活と観想

再び福音書を繙いてみましょう。今度は聖マタイの第二十一章です。「都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られた」25。空腹を覚えるあなた、渇きを覚えてシカルの井戸の傍らに立つあなたを見ると、喜びがこみあげてきます26。完全な神であると同時に骨肉を備えた完全な人間27であるあなたを眺めることができるからです。また、理解されていること、愛されていることを私が決して疑わないように、キリストは「自分を無にして、僕の身分に(って)」28くださったことがよく理解できるからです。

 <空腹を覚えられた>。仕事や勉強や使徒職に疲れ、地平線が見えなくなって希望を失うとき、そのような時にはキリストに視線を向けます。優しいイエス、疲れ切ったイエス、飢えと渇きを覚えるキリストに目をやるのです。何という悟らせ方、何という愛させ方でしょう。あなたは、罪を除いてすべての点で私たちと同じ人間になってくださいました。あなたと一緒であれば、悪への傾きにも、罪にも、打ち勝つことができることをはっきりとお教えになります。疲れも、飢え、渇きも、涙も、別に大したことではありません。キリストも、疲れを経験し、飢えを覚え、渇きに苦しみ、涙を流しました。大切なのは、天におられる御父のみ旨29を果たすために戦うことです。戦いと言っても、主が常に傍らで付き添ってくださいますから、甘美な戦いと言えましょう。

<イエスはいちじくの木に近づかれる>。人々の救いに飢え渇くイエスは、あなたに、そして私に近寄って来られます。主は十字架上で、「渇く」30と叫ばれました。私たちと私たちの愛に飢えておられます。不死と天の栄光につながる道である十字架を通って神のもと導いてあげるべき人々の霊魂と私たちの霊魂に、飢えと渇きを覚えておいでなのです。

 いちじくの木のところへ行かれたが、「葉のほかは何もなかった」31。悲しい場面です。私たちもこのいちじくと同じなのではないでしょうか。残念ながら、信仰は弱く、躍動する謙遜もない。信仰は犠牲や行いにも現れない。なぜでしょう。見た目だけの役立たずの信者なのではないでしょうか。恐ろしいことですが、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」とイエスがお命じになると、「いちじくの木はたちまち枯れてしまった」32。この聖福音書の言葉を耳にすると悲しさに襲われます。しかし同時に、信仰を燃え上がらせ、その信仰と一致した生活を営むことによって、常に<利益>を主に献上しようという勇気も湧き上がってきます。

 自らを歎くようなことのないようにしたいものです。主が頼りになさるのは大人が建てる建物ではありません。主の最大のお望みは子供の遊びです。心を、そして愛を、要求しておられます。命ある限り思い切り働かねばなりません。ところで、日常の仕事は聖化されるべきものですから、<よく>働くことが大切です。神のために働いていることを決して忘れてはなりません。高慢心に負けて自らのためにのみ働くなら、生い茂るのは葉だけになります。神も、そして人々も、葉しかつけない木からは、わずかの甘美も得ることができないでしょう。

その後、弟子たちは枯れたいちじくを見て驚き、尋ねました。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」33。キリストがなさる奇跡に何度も立ち会った弟子たちはまたしても驚かされてしまいました。信仰はまだ、<完全に燃え上がっては>いなかったのです。そこで、主は保証をお与えになります。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」34。イエスは一つだけ条件をおつけになります、信仰に生きよと。信仰があれば、山さえ動かすことができるのです。揺り動かしてあげるべき人が世界中に大勢いるのではありませんか。しかし、まず自ら心を揺り動かさなければなりません。恩寵の働きを妨げる数多くの邪魔物がありますから、どうしても信仰が必要です。それも、行いと犠牲の伴う謙遜な信仰が必要なのです。信仰は私たちを全能にする力をもっています。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」35。

 信仰の人なら、現世的な事柄についても正しい判断が下せるはずです。大聖テレジアの言葉を借りるなら、この地上の生活は「貧しい宿で過ごす眠れない夜」36です。この世における一生は、働くためであり戦うためであること、また、神に対して罪の負債を払い戻すときであり清めのときであることを、改めて確信しなければなりません。地上の富はあくまで手段に過ぎないのですから、寛大かつ英雄的に用いるべきです。

信仰とは、人に説き教えるものではなく、実行すべき徳なのです。きっと、何度も何度も自らの力不足を痛感することでしょう。そのようなときには、福音書に教えを求めなければなりません。てんかんの子をもつあの父親のように振舞うのです。彼は子供の救いのことで頭がいっぱいになり必死でした。キリストが癒してくださることを期待していました。けれども、あまりにも都合のいい話ですから簡単には信じられません。いつも信仰を要求されるイエスは、その父親の困惑を見抜いて仰せになります。「信じる者には何でもできる」37。すべてが可能になる、全能にもなれよう、ただし、信仰がなければならないと。父親は己の信仰が揺らぐのを感じとり、信頼が不足しているから子供は癒してもらえないのではないかと恐れます。そして、その目から涙が。涙が出ても恥じることはありません。涙は、神への愛のあらわれ、痛悔の心から出る、祈りと謙遜の結果です。「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」38。この祈りのひとときを終えるに当たって、私たちもこの父親と同じことを主に申し上げたいと思います。「主よ、信じます」。信仰を鍛えて、あなたに付き従う決意を固めます。一生の間、何度も何度も、あなたの慈悲を願ってきました。しかし、同じくらい何度も何度も、信じ得ぬこともありました。あなたが、目を見張るほど素晴らしいわざを私の中で数多くなさるにもかかわらず、そんなことはできないのではなかろうかと疑ったことがあったのです。主よ、信じます。しかし、さらに深く信じることのできるようお助けください。

 同じことを、神の御母にして我らの母、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた幸いなる」39信仰の師、聖マリアにもお願いしましょう。

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