糾明

  糾明。毎日の仕事。商人なら決してなおざりにしないのが帳簿付けである。ところで永遠の生命という商売より、重要な仕事が他にあるだろうか。

  糾明の時には、口を利けなくする悪魔に用心しなさい。

  糾明しなさい。勇気を出して、ゆっくりと。あなたの理由のない不機嫌と悲しみは、一見したところ理由がないようだ。しかし実は、か細いが〈具体的な〉罠、つまり情欲が狡猾に立ち回って仕掛けた罠を、とり壊す決意のないところに原因があるのではないだろうか。

  一般糾明は防衛で、特別糾明は攻撃のようなものである。第一のものは盾であり、第二のものは有名なトレドの剣である。

  過去を振り返る。そして、…嘆き悲しむのか。いや、それは無益なことである。そこから学び取ること、これこそ、実り豊かなことである。

  光を求めなさい。根本的な原因が見つかるまで求め続けなさい。見つけたら、原因を狙って特別糾明という剣を振るいなさい。

  特別糾明の戦いでは、脇目も振らずに突進し、身につけたい徳を獲得するか、あなたを支配している欠点を根こそぎにするか、どちらかでなければならない。

「キリスト者として、こんなに恩を受けていながら、神様によく応えていないので、悲しみにくれ、神の愛ゆえに覚える悲しみに襲われて泣きました。『悪いのは私です』と」。負い目を認め始めたのは良いことである。しかし、負い目は、涙で…そして行いで返すべきことを忘れてはならない。

「小さな事に忠実な者は、大きな事に忠実である」、小事に忠実な者は、大事にも忠実な者である。聖ルカのこの言葉は、あなたの誤りの原因を教えてくれている。糾明してみなさい。

  反応しなさい。聖霊が言われることに耳を傾けなさい。「嘲る者が敵であれば、それに耐えもしよう」、敵が私を罵るのなら、不思議ではないし、我慢もできる。だが、お前…、「お前なのだ。わたしの同僚、わたしの導き手、わたしの親友」、私と食卓につき、おいしい料理を共にした私の友、私の使徒であるお前なのだ。

  黙想会の日々は、いつもの夜の糾明よりも、さらに深く、さらに広範囲の糾明をしなければならない。さもないと、自分を正すための絶好の機会を失ってしまう。

糾明は常に愛の行為、愛徳唱―神を愛するゆえの痛み―で終えるようにしなさい。それは、あなたのためであり、すべての人間の罪を悲しむための痛みである。そして、あなたが躓いて倒れないよう、邪魔物を取り除いてくださった神の親心についてよく考えなさい。

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