神のみ旨

  天国の扉を開いて中に入るための鍵はこれである。すなわち、「わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」。天におられる私の父のみ旨を行なう者だけが…入るのである。

  あなたと私が神のみ心にかなう振る舞いをするかどうか、この一点に多くの重大なことが懸かっている。これを忘れてはならない。

私たちは、動き、感じ、全く自由な意志を有する石、切り石である。

神ご自身は石工である。お望みのままに、金槌とたがねを打ちおろし、私たちの角を削り、形を整え、変えてくださる。

私たちは神のみ旨から離れたり、み旨を避けたりはしたくない。いずれにしても、衝撃は避け得ないからである。それどころか、もっとひどく、しかも無益に苦しむだろう。磨かれて建築に適した石になるかわりに、人びとに蔑まれ踏まれる砂利の山となるだけだろう。

  諦め…? 承諾…? いや、神のみ旨は、愛さなければならない。

  神のみ旨を完全に受け入れるなら、必ず、喜びと平和、つまり十字架の幸いを得る。その時こそ、キリストのくびきは快く、その荷は軽いことが理解できるのである。

  平和、平和、とあなたは言う。ところで、平和とは…〈み心に適う人々〉のものである。

  神のみ旨を求める者のために、前もって聖霊が準備してお与えになる考え、平和をもたらす思いがある。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。

誠実な心でこの言葉を繰り返す人に、不安を与えるものがありうるだろうか。

「テレジアよ、私は望んだのだ…、だが人々は望まなかった」。これはイエスがアビラの聖テレジアに話したと言われている言葉である。あなたは自由な人間だから自発的に服従しなさい。そうすれば、同じことをイエスがあなたに言う必要がなくなるだろう。

  神のみ旨とひとつになるための祈り。

主よ、〈これ〉をお望みですか…。それなら、私も喜んで〈これ〉を望みます。

  疑ってはいけない。なれかし、そうなりますように…、心を込めて唱えなさい。それがあなたの犠牲を飾る冠になるように。

  使徒は、神に近づくにつれて、心がどんどん広くなるのを実感する。使徒の心は大きく広がり、全宇宙をもイエスの足下に置きたいと望み、あらゆる人とそのすべてを受け入れるのである。

  わが神、万が一そのようなでたらめが可能だとすれば、の話ですが、仮に、み旨を行わずに天国へ行くことができたとしても、私はそれ以上にあなたのみ旨を望みます。

  神のみ旨にすべてを依託すること、これはこの世で幸福になるための秘訣である。だから、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行」うこと、神のみ旨を果たすことであると言いなさい。

  この聖なる依託こそ、あなたが今後平和を失わないための必要条件である。

  〈喜びと平和〉。これは、聖なる依託のもたらす確かな実り、甘美な実りである。

  聖なる無関心とは、そっけなく冷たい心のことではない…。イエスは冷たい心の持ち主ではなかった。

  足りないものがあっても、あり余るほど持っているより、不幸であるというわけではない。

  神のみ旨を果たす人は、かつて神が辱めをお与えになったのと同じ事柄において、高められる。

  一日のうちに度々自らに問いかけなさい。私は、この瞬間に、なすべき事をしているのだろうか、と。

  エスよ、あなたが〈お望みになる〉ことを、私は愛します。

四つの段階。神のみ旨に忍従すること、神のみ旨に同意すること、神のみ旨を望むこと、神のみ旨を愛すること。

  主よ、思し召しなら、私の哀れな肉体を十字架像にしてください。

「この件が何らかのかたちで片付いたら、その時こそ、私の神に対してもっと気前よく寛大になろう」と、あなたは考えている。しかし、そのような悪循環に陥ってはならない。

ひょっとしたらイエスは、あなたがまず惜しみない態度を示すのを待っておられ、その後で、御自ら、あなたが予期する以上に上手く物事をなさるおつもりかもしれない。

すれば、当然、次の固い決心を立てるはずだ。私は毎日、各瞬間、神のみ旨を、努めて惜しみない心で果たそう。

  あなた自身の意志、あなた自身の判断、それがあなたの不安の原因である。

  ほんの数秒のことだから…、何をするにしても、始める前に、この件において神は私に何をお望みなのだろうかと考えよう。

そして、神の恩寵(恩恵)に助けられて、それをやり遂げるのだ。

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