その他の善徳

  信徳唱、望徳唱、愛徳唱は、神の命を生きる者が持つ心の火が、勢いよく燃え上っていくためのバルブの働きをする。

  賞も罰もないかのごとく、利害を抜きにして、ひたすら神を愛するためにのみ、万事を行いなさい。しかし、一方では、栄光に輝く天国への希望を心の中に燃え上がらせなさい。

  神の子として、何らの報酬も求めず、惜しみなく神に仕えるのはよいことである。けれども、時に報いのことが頭に浮かんでも心配することはない。

  イエスは仰せられる。「わたしのために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子を後にし、田畑を手放す人は、今この世では百倍を受ける。そのうえ、また後の世では永遠の生命を受ける」。

この世に、これほど寛大に報いる人がいるだろうか。

  イエスの沈黙。「イエスは黙り続け」られたと、聖書にある。あなたはなぜ話すのか。自分を慰めるためか、それとも自分を正当化するためか。

口を閉じなさい。蔑みを喜びなさい。あなたに相応な軽蔑と比べれば、いつもずっと少な目だから。

あなたは、イエスのように、「一体、私がどんな悪い事をしたのか」と尋ねることができるのか。

  喜びと沈黙のうちに不正を忍ぶ人は、確かに神の人である。

  不正を受けて嘆いていた青年に対して、あの高徳の人が与えた言葉は実に見事である。

その人はこう言ったのだった。「それであなたは悩むのか。それなら、善い人になりたいという望みなど捨てなさい」。

  これ以上正しい意見はないと思っても、求められない限り、あなたの意見を披瀝すべきではない。

確かにその人は罪人だった。しかし、そんなに断定的な判断を下してはならない。もっと同情心を持ちなさい。その人はもう一人のアウグスティヌスになるかもしれないのに、あなたは凡人の域を出ないかもしれないことを忘れないように。

  この世のものはことごとく土に過ぎない。あなたの足下に、それを山と積み上げなさい。そうすれば、もっと天国に近づくことができるだろう。

  金銀や宝石などは、土や塵芥の山。快楽や感覚的楽しみ、本能の満足などは、獣、ロバ、豚、鶏、牛のようなものである。

名誉、勲章、称号などは、希薄な空気、膨れ上がった高慢、偽り、無に等しい。

  この世のものを愛してはならない。この世の愛はいずれも利己的である。あなたが神のみ前に召されると間もなく、あなたの愛する人々は恐れと嫌悪を感じて、あなたから遠ざかるだろう。永遠に続くのは、天国の愛である。

  貪食は醜い悪徳である。著名な紳士諸士が、まじめな顔と儀式ばった様子で食卓を囲んで席につき、あたかも、それこそが〈目的〉であるかのように、消化器に脂肪を詰めこむのを見るにつけ、いささか滑稽に思え、いささか嫌悪を感じるのではないだろうか。

  食事中は、食べ物について話さないほうがよい。そんな話題は下品だから、あなたにふさわしくない。もう少し気高くて精神的なこと、知的なことについて話しなさい。そうすれば、この食事という義務を高尚なものにすることができる。

  小さな節欲を一つも捧げないで食事を終えた日、あなたは信仰のない人のように食事をしたことになる。

  普段、あなたは食べ過ぎる。その満腹がしばしば招く重苦しさや不快感が禍となって、あなたは超自然的な宝を味わうことができなくなり、頭は鈍くなる。

この世のためにも、節制は素晴らしい徳である。

  キリストの〈紳士〉を自任するあなたは、見たところ確かに、ご絵に接吻し、祈りを呟き、教会の敵に向かって腹立たしげに抗議する。そのうえ、聖なる秘跡にも度々あずかる。

しかし、次のようなあなたを見たことはない。犠牲を捧げる、ある種の世間的な(もっと適切な言葉があるのだが、とにかく世間的な)…話題を避ける、あなたより下の立場にいる人やキリストの教会に対して気前よく振る舞う、兄弟の弱さを辛抱する、皆のためにあなたの高慢心を挫く、利己主義の堅い殻を破るなど。まだまだ沢山ある。

キリストの〈紳士〉を自任するあなたの、すること、しないことを見ていると、あなたの頭の中にあるキリストの姿はまことに貧弱であるとしか言いようがない。

  あなたの才能、他人に与える好感、適性や素質…、すべてが失われる、能力を発揮させてもらえない、と思っているらしい。ある霊的著者の次の言葉をよく考えてみなさい。「神に捧げる香は決して無駄にならない。あなたの才能を虚しいことに費やすよりも、これを無にする方がより大いなる誉れを主に帰することができる」。

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