聖なるミサ

  使徒である者が備えるべき重要な特徴は、ミサを愛することである。

「ミサが長い」と、あなたは言う。私は付け加えよう。「なぜなら、あなたの愛が〈短い〉、つまり、愛が足りないからだ」と。

  多くのキリスト者は、付き合いにおいても〈急がず〉、あまり重要とは言えない仕事を果たすときも、食事と休息においても〈急がずに〉、荘厳と言えるほどゆっくり落ち着いている。ところが、祭壇上のいとも聖なるいけにえを捧げるべき時間となると、短縮し、早く切り上げたいので、自分でも急き立てられているかのように感じ、司祭を急き立てる。これは奇妙なことではないだろうか。

「わが主を大切にしてください。心を込めて扱ってください」と、老司教は、叙階されたばかりの司祭たちに向かい、涙ながらに懇願していた。

主よ、私にも、多くの、大勢のキリスト者の耳と心に、このように叫びかける声と権威をお与えくだされば、嬉しいのですが。

  殉教の誉れを得たあの若くて聖なる司祭は、祭壇のもとで涙を流して泣いた。大罪の状態でキリストを拝領するために近づいた人を思い出したからである。

あなたも同じように主への償いを果たしているだろうか。

  ベツレヘム、ナザレ、カルワリオにおけるイエスの謙遜。しかし、さらに遜り、またそれ以上に自らを無になさったのは、聖なるホスチアにおいてである。馬小屋よりも、ナザレよりも、十字架の上よりも。

だからこそ、(〈私たちの〉ミサ、イエス…)ミサを愛することは重大な義務なのである。

「ずいぶん長い間、毎日、聖体拝領をしてきました。他の人なら、聖人になっていただろうに、私はいつまでたっても同じです」と、あなたは言う。

「子よ」と、私は答えた。「日々の聖体拝領を続けなさい。そして、拝領していなかったら、どうなっていたかを考えてみなさい」。

  聖体拝領、一致、交わり、打ち明け話。すなわち〈言葉〉、〈パン〉、〈愛〉。

  聖体を拝領しなさい。それは、敬いを欠くことではない。あの罠から逃れ出た今日こそ、拝領しなさい。

イエスが仰せられたことを忘れたのだろうか。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。

  聖櫃に近づくときには、神が二十世紀も前からあなたをお待ちであることを思い出しなさい。

  そこにおられるのは、王の王、主の主なる御方である。その御方がパンの外観の下に隠れておいでになる。

あなたを愛するあまり、そこまで遜ってくださったのである。

  神が残ってくださったのはあなたのためである。良い準備ができているのに拝領しないのは、尊敬を表すことにはならない。ふさわしい心がないのに拝領するときのみ、敬いを欠くことになる。

  霊的聖体拝領は、なんと素晴らしい恩寵(恩恵)の源であることか。ひんぱんに霊的聖体拝領唱を繰り返しなさい。そうすれば、もっと神の現存を保ち、行いにおいてもさらに深く神と一致できるだろう。

  信心にも優雅なよい作法があるから身につけなさい。毎日ミサにあずかりながら、まともなあずかりかたもできず、慌てて指を妙な具合に動かすだけで満足に十字も切れない。聖櫃に敬いを示す態度がとれず、まるで嘲りに見えるような姿勢をし、聖母像の前で恭しく頭を下げることもできない。このようないわゆる〈信心深い人々〉を目にするにつけ、本当に残念に思う。

  大量生産の聖画や聖像を崇敬の対象にしないでほしい。安っぽい絵具で塗りたてられた砂糖でできているかのような石膏のキリスト像よりも、素朴な鉄のキリスト像の方がどれほどよいことか。

私が祭壇後方の飾りもない簡素な祭壇でミサをたてるのを、あなたは見ていた。十字架は大きい。どっしりとした燭台の太いローソクは十字架に近づくにつれて段々と丈が高くなっている。祭壇正面の布はその日の典礼の色。幅の広い祭服。厳格さを感じさせる輪郭を持ち、口の広い立派なカリス。照明がなくても気にならない。

あの聖堂からは離れがたかった。居心地がよかった。やはり、厳密な典礼儀式に従えば、神のもとへと導かれ神に近づくことができると分かるだろう。

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