愛徳

  自分の仕事を終えたときは、キリストのために、あなたがあたかもすべきことをしているに過ぎないかのように、兄弟の仕事をしていることを、相手が感じもしないほどの繊細さと自然さをもって手伝いなさい。

それこそ実に、神の子の洗練された徳である。

  あなたに対する隣人の愛が足りないので心が痛む。あなたの愛徳―神への愛―の不足のために、神はどれほど心を痛めておられることだろう。

  他人のことを決して悪く思ってはならない。その人の言動を見て、そう判断するのが当然のようであっても。

  ネガティヴな批判をしてはならない。誉めることができないときは、沈黙しなさい。

  あり余るほどの理由があるとしても、決して兄弟の悪口を言ってはならない。まず、聖櫃に馳せ寄りなさい。それから、父である司祭に会いに行き、悩みを打ち明けなさい。

その他の誰にも話す必要はない。

  陰口は使徒職を汚し、停滞させる垢である。陰口は愛徳にもとり、力を弱め、平和を奪い、神との一致を失わせる。

  あなたがそれほど惨めであるのに、なぜ他人の惨めさに驚くのだろう。

  大勢の人が、お喋りと饒舌と無駄話、さらにそれが招く結果のために、一生、全生涯を浪費するのを見た今、いっそう必要であり、いっそう愛すべきものは、沈黙であると思う。主よ、無駄口について申し開きを要求なさるわけがよく理解できます。

  言うは易く、行うは難し。あなたは…すべてを断ち切る―斧のような―舌を持っている。ところで、あなたの〈権威ある〉意見によると、他人があまり巧くやっていないことを、たとえ偶然にせよ、あなた自身が〈巧く〉やってみようと試みたことはあるのだろうか。

  そんなことは、呟き、中傷、トラブル・メーカー、悪巧み、ゴシップ、作り話、策略…、あるいは讒言?もしくは卑劣な行為と呼ぶべきか?

頼まれもしないのに〈批判役〉を買って出るなら、ほとんどの場合、〈井戸端会議〉になり果てる。

  〈正しい人〉の不義・不正は、なんとひどく神を悲しませ、なんと大きな害を大勢の人に与えることか。そして、どれほど他の人たちを聖化することか。

  人や物事を安易に裁かないようにしよう。誰でも自分の観点から物事を見る…。しかも、たいていの場合、非常に限られた知恵で判断し、多くの場合、激情で曇った目、朦朧とした目で見るものである。

そのうえ、ある人々の見方は、いわゆるモダニズムに染まった画家たちの見方と同じく、非常に主観的であり病的である。でたらめに書きなぐっておきながら、これがあなたの似顔、あなたの行動だ…と決めつける。

人間の判断のなんと値打ちのないことか! 判断を下すときは、必ず祈りの篩にかけてからにしよう。

  侮辱されても、必要なら、最初の瞬間から赦す努力をしなさい。受けた迷惑や侮辱がどれほどひどくても、神はそれ以上にあなたを赦してくださったのだから。

  陰口を言うのか。そうならば、あなたは善い精神を失っている。口の慎みを学ばなければ、一言口にするたびに、あなたが働くこの使徒的事業の出口に向かって一歩近づくことになる。

  双方の言い分を聞かずに裁いてはならない。自ら信心深いと思っている人たちでさえ、極めて容易に、この基本的な賢明の規準を忘れるものだ。

  目隠しをしたまま石を遠くに投げると、どんなに大きな害を引き起こすか分からないのか。

何でもないと思って口にした陰口が、時には重大な害を及ぼすことすら、あなたには分かっていない。無遠慮や激情によって目隠しされているからである。

  批判すること、破壊することは、難しくない。見習いの石工でも大聖堂の上質で美しい石に鑿を打ち下ろすことは可能である。

  建設すること、それには親方の腕が必要なのだ。

  上に立つ人の意見が、的を射ているかどうかと判断するあなたは、一体何者なのか。上に立つ人は、あなたよりも豊富な判断材料とより多くの経験を有すること、あなたよりずっと公正で学識に富む冷静な助言者を得ていること、そして何よりも、あなたよりもずっと豊かな恩寵(恩恵)、特別な恩寵(恩恵)、地位の恩寵(恩恵)、すなわち神の強力な光と助けを受けていることが分からないのか。

  世間の利己主義との、そのような衝突を経験すれば、仲間の兄弟愛のありがたみがいっそうよく分かるだろう。

  あなたの愛徳は…、尊大だ。遠くからなら人を惹き付ける、光り輝いているから。近づくと突き放す、温かみがないから。なんと残念なことか。

「兄弟に助けてもらう人は、強い城のようだ」。自分の兄弟に支えられていれば、城壁に囲まれた都市のように堅固である。

しばらくの間、考えてみなさい。そして、私がいつも勧めている兄弟愛を生きる決心をしなさい。

私が絶えず説く幸いな兄弟愛をあなたが実行していないようなので、聖ヨハネの愛のこもった言葉を思い出させたい。「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」。

  愛徳の力の素晴らしさ。幸いな兄弟愛を実行すれば、互いの弱さも支えとなり、しっかりと義務を果たすことができる。ちょうど、トランプのカードが互いに寄りかかり合い、支え合うのと同じである。

  愛徳は、〈与えること〉以上に、〈理解すること〉にある。だから、隣人を判断する義務のあるときは、その人のために言いわけを探してあげなさい。必ずあるはずだから。

  あの人の霊魂が危険に晒されているというのか。遠くにいても、聖徒の交わりを生きるあなたの生活によって、効果的な助けになることができる。だから、さあ、不安を吹き飛ばしなさい。

  あなたが、兄弟のことを思って感じる数々の心配、そう感じるのはいいことだと思う。あなたたちが互いに愛し合っている証拠だからである。しかし、あなたの心配が高じて不安にならぬよう気をつけなさい。

  通常、人は自分のお金について、あまり寛大でないとあなたは書き寄こした。お喋りや騒々しい熱狂、数々の約束や計画には熱心だが、いざ犠牲を払うべき時が来ると、「肩入れする」人は少ない。たとえ、いくらか出すとしても、ダンスパーティーや籤引き、映画や夜会などの娯楽、あるいは新聞や雑誌に寄付の一覧表を公表するなどの見返りを要求する。

悲しい光景である。しかし、例外もある。あなたも施しをするとき、右手のすることを左手に知らせない人の一人になりなさい。

  書物。私はキリストの貧者として、手を差し出して本を願った。書物は、大勢の若い大学生の、カトリック的、使徒的、ローマ的な知性の糧だからである。

 私はキリストの貧者として手を差し出して願ったが、その度にがっかりした。

 イエスよ、良質の麦から作ったパンよりもずっと役に立つこの施しが、深い愛徳の行為であることを、なぜ人々は理解しないのでしょうか。

  あなたはあまりにも無邪気である。愛徳を実行する人のなんと少ないことか、愛徳とは古着や小銭を恵むことではないと言う。

そして、あなたは自らの経験と幻滅について話す。

私に言えることはただ一つ。あなたも私も物惜しみせずに与え、自らを与え尽くそうではないか。そうすれば、私たちに接する人たちがあなたの悲しい経験を味わわなくてもすむだろう。

「聖なる者たち一同によろしく。聖なる者たちは皆、あなたたちに挨拶を送ります。エフェソに住む聖なる者一同に、フィリピに住むキリストにおける聖なる者たち一同に」。初代のキリスト者たちが互いに呼び合うのに使っていた〈聖なる者たち〉という呼び方には、本当に心打たれるのではないだろうか。

あなたの兄弟たちとの接し方を学び取りなさい。

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