超自然の生命

人々の視野は平面的で二次元の現世に限られている。あなたが超自然の生き方をする時、神は第三の次元をお与えになるだろう。それは、高さとそれに伴う立体性、体積、そして重さである。

  生活の超自然的な意義を失うと、愛徳は博愛になり下がり、純潔は単なる慎みとなる。また犠牲は愚かな行いとなり、鞭は単なる苦行の鞭でしかなくなる。そして、行いはいずれも実を結ばない。

  沈黙は内的生活の門番である。

  逆説。誰にでも到達可能なのは、学者になるより、聖人になることである。しかし、より簡単なのは、聖人になるより、学者になることである。

  気晴らし。あなたには気晴らしが必要だ…、物の姿がよく見えるように大きく目を見開いたり、また近視だから目を細めたりして…。

完全に目を閉じてしまいなさい。内的生活を営みなさい。そうすれば、夢にも見なかった豊かな色彩と陰影のあるよりよい世界、新しい世界の素晴らしさが数多見えることだろう。そして、神と交わり…、自らの惨めさに気づき…、神化される…。それは、御父に近寄ることにより、兄弟である人々にとって、あなたをさらに兄弟らしい兄弟にする神化である。

  熱望。私が善い人間でありますように。しかし、他の人々すべてが、私よりもさらに善い人間でありますように。

  改心は一瞬の出来事である。聖化は全生涯にわたる仕事である。

  この世では神の恩寵(恩恵)の状態にいること以上に素晴らしいことはない。

  純粋な意向。常に、すべてにおいて、神をお喜ばせすることのみを求めるならば、意向を常に純粋に保つことができるだろう。

  十字架にかけられたキリストの御傷の中に入り込みなさい。あなたはそこで、五感の慎みを学び、内的生活を営み、自己の負債と人類のすべての負債を償うため、主とマリアの苦しみを絶えず御父に捧げるようになるだろう。

  神に仕えたいとの聖なる焦りを感じても、神を不愉快にすることはない。しかし、日頃の行いが着実に改善されないのなら、その焦りは実を結ばない。

  矯正していくこと。毎日、少しずつ。心の底から聖人になりたいと望むのなら、これこそ、あなたが絶えず果たすべき仕事である。

  自らを聖化する義務がある。そう、あなたにも、この義務があるのだ。聖化は司祭と修道者だけの仕事だと、誰が考えるのだろうか。

例外なくすべての人に、主は言われた。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。

  正に、内的生活はこれに尽きる。すなわち、始めること、そして、再び始めること。

  内的生活において、現行的な自発性をもって〈仕える〉ことがいかに美しいかを、あなたはじっくり考えたことがあるだろうか。

  作物は雪に覆われて見えなかった。畑の持ち主である農夫は、「今は内に向かって成長している」と、嬉しそうに言った。

私は、あなたのことを考えた。やむを得ず活動を中止しているあなたを…。

答えてごらん。あなたもやはり内に向かって成長しているのだろうか。

  あなたがどれほどの権力者であっても、自らを支配できないのなら、その威厳は私に哀れみと笑いを引き起こす種となる。

  福音書を開いてピラトの問いかけを読むのはまことに辛い。「どちらを釈放してほしいのか。バラバか。それともキリスト(メシア)といわれるイエスか」。それにもまして辛いのは、「バラバを!」という返答である。

さらに一段と恐ろしいのは、私がひんぱんに道から逸れて、同じように、「バラバを!」と言ったこと、それだけでなく、「キリスト(メシア)は?」と尋ねられて、「十字架につけろ」と言い足したことである。

  今あなたを煩わせている事柄はすべて、ある程度重要なことである。絶対的に重要なのは、あなたが幸せになること、救われることである。

  新たな光。主のおかげでもう一つの地中海、つまり新たな発見をしたので、あなたは嬉しくて仕方がない。

そんな瞬間を活用するのだ。今こそ、感謝の賛歌を大声で歌い出す時である。また今こそ、心の隅々のほこりを払い、慣れに陥ったお決まりのやり方のいくつかを捨て、もっと超自然的に振る舞い、隣人の躓きにならないようにする時である。

一言でいうなら、感謝の心を具体的な決心にして示す時なのである。

  キリストはあなたのために死去された。あなたは…、キリストのために何をすべきだろうか。

  あの無味乾燥、不安、悲嘆、そういう体験をしたおかげで、イエスの言葉が真実であることを身にしみて感じることができる。「だれも、二人の主人に仕えることはできない」。

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