性格

  あなたの一生が無益であってはならない。役に立つ人になりなさい。後に何かを残しなさい。あなたの信仰と愛の光ですべてを照らしなさい。

憎しみを撒き散らす不純な人々が残した汚い泥の痕跡を、使徒としての生き方でぬぐい去りなさい。この世のすべての道を心のうちに燃えるキリストの火で燃え上がらせなさい。

  あなたの振る舞いを目にし、あなたの言葉を耳にする人が皆、「この人はイエス・キリストの生涯を読み込んでいる」と言えるようになれば、なんと素晴らしいことだろう。

  重厚な態度。女々しい態度や子供じみた顔つき、軽薄な態度をやめなさい。あなたの立居振る舞いは、精神の平安と秩序を表していなければならない。

  こういう性格だから、これが私の性格だから、などと言わないでほしい。意気地がないからそんなことを言うのだ。勇ましく雄々しく生きなさい。

「ノー」と言う習慣を身につけなさい。

「なぜあなたの生活を複雑にするのか」とささやきかける卑劣な(悪魔)には、背を向けなさい。

  井の中の蛙のような狭い心を捨てなさい。普遍的、カトリックと言えるまで心を広げなさい。

鷲のように天空高く舞い上がることができるのに、なぜ飼い鳥のような飛び方をするのか。

  落着き。みだりに怒れば、神に背き、人を困らせ、自分でも不愉快になるだけでなく、いずれは怒りを静めなければならない。それなのに、なぜ腹を立てるのだろう。

言ったことを怒らずに優しい口調で言い直してみなさい。あなたの言い分は説得力を増すだろう。何よりもよいのは、神に背かなくてすむことである。

  憤りを感じているときは、決して他人の過失をとがめないようにしよう。翌日まで、必要ならもっと後まで、待ちなさい。そして、心が静まり、意向が清くなったなら、必ず諭しなさい。三時間も説き続けて得られなかった効果が、優しい一言で得られるだろう。短気を抑えなさい。

  意志、活力、模範。果たすべきことは、ためらわず、人目を気にせず、果たしなさい。

そうしていなかったら、シスネロスはあの有名なシスネロスにならず、アウマダのテレジアは大聖テレジアにならなかっただろう。ロヨラのイニゴも聖イグナチオになり得なかったことだろう。

神と大胆さ。「我々はキリストが支配することを望む!」

  障害を前にして、成長しなさい。主の恩寵(恩恵)が不足するはずはない。「山々の間にも水は流れる」、あなたは幾多の山々を貫き、乗り越えていくことだろう。

今しばらく活動を中断するほかはないとしても、圧縮されたバネのように、やがて夢にも見なかったほど遠くまで飛躍できるのだから、心配するには及ばない。

  せいぜい時間の無駄にしかならないような無益な思いは、遠く投げ捨ててしまいなさい。

  あなたのエネルギーと時間は神のものであり、道端で吠えかかる犬に石を投げたりして、無駄にしてはならない。無視しなさい。

今日の仕事を明日まで放置するな。

  凡庸な人間になりたいって? 大勢のうちの一人になりたいって? あなたはリーダーになるために生まれたのに!私たちの間に生温い人のための場所はない。遜りなさい。そうすれば、 再びキリストが神の愛の火で燃え上がらせてくださるだろう。

  すべてにおいて無節操、行いにおいては軽々しさ、言葉においては軽率…、一言でいうなら、軽薄。このような兆候を示す性格の病にかかってはならない。

そして、忘れないでほしい。その軽薄さが、あなたに毎日そんなに空虚な(空虚さで一杯の)計画を立てさせるのである。間に合ううちに、明日とは言わず、今すぐ何とかしなければ、あなたの一生は命なく役立たずの藁人形のようになるだろう。

  軽薄で軽率な俗物にならぬよう手を打たないのは、あなたが臆病だからだ。自分自身と対決することを望まないのは、臆病だからとしか言いようがない。

  意志力、それは非常に重要な特質である。小事を軽んじてはならない。それら小さなことは無意味なことでも、つまらないことでもない。なぜなら、小さな事柄を否定し、小さなことにおいて自己を否定する訓練を絶え間なく続けるなら、あなたの意志は、神の恩寵(恩恵)の助けを受けて、強められ、雄々しくなるからである。その結果、あなたはまず自らの主人となり、次いであなたの模範と言葉、知識と権威によって、人々に命じ、励まし、その心を捉える導き手、頭、リーダーになるだろう。

  あの人やこの人の性格とぶつかる。避けられないことだ。あなたは誰もが喜ぶ金貨ではないのだから。

そればかりか、隣人と接するときに生じるそのような摩擦がなければ、どのようにして刺々しさや凹凸―あなたの気質の不完全さや欠点―を取り除き、柔和と磨かれた洗練、確たる優しさをもつ愛徳・完全性を備えた人になれるというのか。

あなたと隣人の性格が綿菓子のように甘くてふんわりしたものなら、決して自らを聖化することはできないだろう。

  言いわけ。務めを怠ろうと思えば、適当な口実はいくらでも見つかる。この世には、なんと身勝手な屁理屈の多いことか。

そんなことを考えるのは止めなさい。すぐに退けなさい。そして、あなたの義務を果たしなさい。

  強くなりなさい。雄々しくありなさい。人間でありなさい。そしてその後で、…天使になりなさい。

  何だって? それ以上はできないと言うのか。それ以下はできないと言うのではなくて?

  もっと知りたい、指導者になりたい、大胆になりたい、と強く望んでいる。いいだろう。結構なことだ。しかし、キリストのため、神の愛のために、そう望んでほしい。

  言い争いはしないように。言い争いからは解決の光はささない。激情が解決の光を消してしまうからである。

  結婚は聖なる秘跡である。この秘跡を受ける時が訪れたら、霊的指導者か聴罪司祭に適切な書物を勧めてもらいなさい。家庭生活の重荷を堂々と担うための良い準備ができるだろう。

「あなたには結婚への召し出しがある」と言ったから笑うのか。ところが、あなたにはそれがある。そう、結婚は召し出しなのである。

トビアの時のように、あなたが旅路の果てまで、貞潔な生活を送ることができるよう、大天使聖ラファエルの助けをお願いしなさい。

  結婚はキリストの兵士のためであるが、参謀の地位にある者のためではない。一人ひとりの人間にとって食事は生命維持のために必要であるが、子供をもうけることは、人類にとって必要であっても、個々の人間にどうしても必要というわけではない。

子供が欲しいのか。肉の利己主義を犠牲にすれば、子供、それも大勢の子供と、消えることのない光の跡を残すことができるだろう。

  象牙の塔や自分の殻に閉じこもる人々、そのような利己主義者の軽くて哀れな幸せを、この世で得るのは難しくない。しかし、利己主義者の幸せは長続きしない。

そんな漫画に等しい幸せのために、終わりのない栄光という幸せを失ってもいいのだろうか。

  あなたは打算的なのだ。若いからです、などと言わないでほしい。若さとは、できる限りすべてを与えること、限りなく自らを捧げることである。

  利己主義者。いつも〈自分のことだけ〉。キリストの兄弟愛を感じとることができないようだ。あなたにとって隣人は、兄弟ではなく、踏み台のようなものだ。

あなたの大失敗は目に見えている。そして、あなたが落ち込んだとき、自分が示さなかった愛を他人に求めることだろう。

  大衆は高い地位を得るための踏み台に過ぎないと考えているのなら、あなたは指導者たりえない。すべての人を救いたいという大きな望みを持っているなら、指導者になるだろう。

人々に背を向けて生きることはできない。万人に幸せをもたらしたいと、強く望まなければならないのである。

  あなたは決して〈真理を極めようとしない〉。時には礼儀を口実に、また時には、と言うよりも、多くの場合、嫌な思いをしたくないから。またある時には、人の気分を損ねたくないから。そして、常に臆病心から。

そのように真理の探究を恐れていては、あなたは決して、確かな判断基準を持つ人物になることはできない。

  たとえ真理が死をもたらすとしても、真理を恐れてはならない。

  私は遠まわしな言い方を好まない。あなたがたは臆病を慎重と呼ぶが、そのようなあなたがたの〈慎重〉が、考えも何もない空の頭を持った神の敵たちを賢く見せ、分不相応な高い地位に上げてしまうのである。

その乱用に対して打つ手があるはずだ。絶望的だ、正す方法はないと、諦めて何もしないで放っておくなら、それは気骨のない証拠である。

義務から逃げてはならない。他人が果たさなくても、あなたは、すぐさま実直に義務を果たしなさい。

  あなたはいわゆる〈口達者〉である。〈摂理的〉だなんて! しかし、あなたがいくら多弁を弄しても、正当化できないものは正当化できないのである。

  この世に人間はいない、あるのは腹だけだ、というのは本当だろうか。私は信じない。信じられない。

「容易なことだけで満足しないよう、お祈りください」と言う。私はもう祈った。今度は、あなたがその立派な決心を実行に移す番である。

  信仰、喜び、楽観。しかし、現実に対して目を閉ざすのは愚かなことである。

  空虚で愚につかない人生を、なんと〈深刻そうに〉生きることか。この世で一角の人物になりたいために頭も心も空にして、〈軽くなった〉のをいいことにどんどん上に昇るなんて、何というやり方だろう。

その移り気は、一体どうしたわけだろう。いつになれば、一つのことに専念できるのやら。あれこれに手を出すかわりに、今ある計画の一つでいいから最後までやり遂げなさい。

  そんなに…敏感にならないでほしい。あなたは些細なことにも傷ついてしまう。まったく取るに足りない事柄について話すにも、あなたを相手にする時は、慎重に言葉を選ばなければならない。

あなたは…厄介な人だと言っても、気を悪くしないでほしい。その欠点を直さない限り、決して役に立つ人になれないだろう。

  キリスト教的愛徳と社交上の儀礼を尽くして、丁寧に対応しなさい。その後で、聖なる恥知らずとなって、義務の遂行という坂道を登りきるまで休まず前進しなさい。

  なぜあなたに関する違った憶測を嘆き悲しむのか。神に見捨てられていたら、もっとひどいことになっていたことだろう。善いことには, あくまでも堅忍しなさい。そして、肩をすくめていなさい。

  俗にいう平等とは不正義のことだと思わないだろうか。

その仰々しく尊大な態度はあなたに似合わない。取って付けた紛い物であることは明らかである。少なくとも、神に対して、指導者や兄弟に対して、そのような態度をとらないように努めなさい。兄弟たちとあなたの間をさえぎる壁が、一つなくなるだろう。

  あなたの性格はあまり強くない。何事に対しても、なんと熱心に、いらぬ差し出口をききたがることか。あらゆる料理の塩になろうとしている…。しかし、ずばり言っても怒らないでほしい。あなたは塩になるための才能がない。だから、塩のように溶けて目立たずにいることができないのである。

あなたには、犠牲の精神が足りない。ところが、好奇心と自己顕示欲はあり余るほどある。

  黙りなさい。あなたには、〈大人の出来そこない〉、子供の戯画、〈ゴシップ屋〉、不和の種まき屋、密告屋になってほしくない。あなたは作り話や陰口で愛徳を冷やしてしまった。最も悪いことをしたのである。そのうえ、万一その中傷が兄弟たちの堅忍という堅固な壁を基礎から揺るがすことにでもなれば、あなたの堅忍は神の恩寵(恩恵)のおかげとは言えなくなる。敵に加担して裏切りの道具となるからである。

  あなたは好奇心のかたまり、詮索好き、覗き見屋、嗅ぎまわり屋である。欠点までも男らしさを失って恥ずかしくないのか。雄々しくなりなさい。他人のことよりも自分自身を知りたいと望み、その望みを実行に移しなさい。

  竹を割ったような性格の素朴で男らしいあなたも、関わりたいなどと思ったことさえないのに、わけの分からぬ口論や縺れに引き込まれたことに気づいて当惑している。噂の種になったがために被る屈辱を忍びなさい。そして、これに懲りてもっと慎重になりなさい。

  あなたはなぜ、他人を判断するにあたって、自らの苦々しい失敗の数々をその批判に加えるのだろうか。

  あなたの批判精神が陰口でないことは認めるが、その精神を使徒職においても兄弟に対しても発揮してはならない。率直に言ってもいいだろうか? その批判精神は超自然の事業にとって大変な障害になる。あなたの言う通り、高い理想を求める心から出た批判であることは認めるが、必要もないのに他人の仕事を詮索している限り、前向きの仕事は何もできない。消極的な態度によって、かえって人々の事業の発展を妨げ、錆付かせるからである。

「そうすると、この批判精神、私の性格の真価は…、どうなるのでしょう」と、不安げに尋ねる。あなたを安心させてあげるから、よく聞きなさい。心をさいなむ事柄を単純率直に、ただし、簡潔にメモしなさい。それを上に立つ人に手渡したら、後は何も考えないことだ。地位に伴う恩寵(恩恵)を持つ責任者は、そのメモを保管するか、ごみ箱に捨てるか、いずれかを選ぶだろう。いずれにせよ、同じことである。あなたの批判精神は、高い理想から出たものであって、陰口ではないのだから。

  妥協する? 〈妥協すべし〉というような言葉は、日和見主義者、弱虫、卑怯者など、戦う気概のない者の辞書にしか見当たらない。彼らは戦う前から敗北を認めているからである。

  お願いだから、もう少し賢くなってほしい。(いくら幼子であっても、さらに神のみ前では幼子だからといっても、そうだからこそ)、他人の前で、兄弟を〈笑種〉にしてほしくはないのである。

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