こころ

心を手に持って、「ご希望の方はおられませんか」と、まるで商品を売り歩いているようだ。誰も欲しがらなかったら、神にお捧げするらしい。

聖人たちはそんなことをしたと思うのか。

あなたのための被造物? 被造物はすべて神のためにある。たとえあなたのためであっても、それらは、神のためにあなたに委ねられているのである。

なぜ世俗的な慰めの水溜りから飲もうとするのか。永遠の命にいたる水で渇きを癒すことができるというのに。

被造物からは、赤裸になるまで離脱しなさい。聖グレゴリオ教皇が言うように、悪魔はこの世で自分のものを何一つ持たないので、裸で戦いに赴く。服を身に着けて悪魔との戦いに挑めば、たちどころに投げ倒される。悪魔に掴まれやすいところがあるからだ。

守護の天使が言っているようだ。おまえの心はあまりにも人間的な愛情で一杯になっている…。にもかかわらず、それを、あなたの守護の天使に守ってもらいたいというのか。

  離脱。なんと辛いことか…。私を縛り付けるものは三本の釘だけ、体に感じるものは十字架だけであるなら、どんなによいことか。

  全面的に離脱するよう要求する、その特別の恩寵(恩恵)に応える時、さらに深い平和と一致があなたを待っていることを予感しないのだろうか。

 主のために、主をお喜ばせするために、戦いなさい。ただし、あなたの希望の徳は、強めなさい。

  さあ、子供のように寛大に主に申し上げなさい。あなたは〈これ〉を要求なさいますが、代わりに何をくださいますか。

  あなたは完全に離脱したいと望みながらも、そうすれば皆に対して冷淡でそっけない人間になるのではないかと恐れている。

そんな心配は捨てなさい。キリストのもの、徹底的にキリストのものになれば、同じくキリストの火と光と熱を、皆のために持つことができるだろう。

  イエスは〈分かち合い〉では満足なさらない。すべてをお望みである。

  あなたは神のみ旨には従いたくない…。ところが、どれほど哀れなものであっても人間の意志には従う。

  事実を歪めないでほしい。神は御自らをお与えになっているのに、あなたはなぜ、それほど被造物に執着するのか。

  涙が出る。痛いのだろう? 当然だ。だから、そこを狙ったのだ。

  意気消沈 しているあなたは、この世に支えを求めている。いいだろう。しかし、倒れまいとして掴んだ支えが、逆にあなたを引きずり下ろす重荷になったり、あなたを奴隷にする鎖になったりしないよう気をつけなさい。

  さあ、答えてごらん。それは友情なのか、それとも鎖なのか。

  優しさを振りまき過ぎる。そんなあなたに言おう。隣人には愛徳を示さなければならない。そう、常にそうすべきである。ところで、使徒であるあなたに、しっかり聞いてほしいことがある。主が心にお与えになったもう一つの感情はキリストのものであり、キリストのためだけである。そのうえ、あなたの心には七つの閂が必要なのだが、その閂を一つ外しただけで、超自然的な地平線に一度ならず疑いの雲が浮かんできたのではなかったのか。意向は正しかったにもかかわらず、愛情を表し過ぎたのではないかと自問し、思い悩んだのではなかったのか。

  心は脇に置きなさい。第一に来るのは義務である。ただし、義務を果たすに当たっては心を込めなさい。優しい心で義務を果たすのである。

  右の目があなたを躓かせるなら…、抉り出し、捨ててしまいなさい。哀れな心、それがあなたを躓かせるのである。

心を荒々しく握りしめ、手中で手荒く扱ってやりなさい。慰めを与えてはならない。心が慰めを求めたときには、高潔な同情にあふれ、打ち明け話をするかのように言ってやりなさい。「心よ、おまえのいるところは十字架である。十字架の上なのだ」と。

  心の様子はどうだろうか。安心しなさい。あなたや私のように普通の体を持ち、普通の人間だった聖人たちも、〈自然の〉傾きを感じていたのである。まったく感じなかったとすれば、心を、つまり霊魂と体とを、異性ではなく神に捧げるという〈超自然的〉な決心に、大した功徳はなかっただろう。

 というわけで、道を見定めて決心し、〈夢中になって〉神を愛する人にとって、心の弱さは妨げになりえないと思う。

  この世での気まぐれな恋のために、あれほど多くの卑しいことも忍ぶことができたのに、主のためにその屈辱ひとつさえ忍べない。それでほんとうにキリストを愛していると言えるのだろうか。

「神父様…、心の奥歯が痛みます」と、手紙に書いてきた。私は笑ったりはしない。あなたは、腕のよい歯医者に歯を何本か抜いてもらう必要があるからだ。

あなたさえ、その気になれば…。

「最初に断ち切っておけばよかった」と、あなたは言った。願わくは、そのような手遅れの叫びを二度と繰返さなくてもすむように。

「主が要求なさる〈決算〉に関するお話。微笑ましく思いました。しかし、キリストは皆さんに対して、厳しい裁判官としてではなく、ただ単にイエスとして対応なさるでしょう」。聖なる司教様が書いてくださったこの言葉は、幾人かの嘆き悲しむ心に慰めを与えたが、あなたの心の慰めにもなると思う。

  苦しみに圧倒されるのは、びくびくしながらそれを受けるからである。キリストの精神で勇敢に受け入れなさい。そうすれば、その苦しみの値打ちを知って、宝物のように大切にすることだろう。

  道はまことに明らかである。障害ははっきり目に見えている。障害を克服する武器もまことに強力である。それにもかかわらず、幾度道を踏み外し、幾度躓いたことか。そうだろう。

その極細の糸、実は鋼鉄製の鎖、あなたと私が知っている糸、あなたが切りたがらない糸、その糸こそが道を踏み外させ、躓かせ、果ては倒してしまうのである。

何をぐずぐずしているのか。早く糸を断ち切りなさい。そして前進しなさい。

  神の愛、それは確かに愛をことごとく捧げる値打ちのある愛である。

この章を他の言語で