Josemaría Escrivá Obras
831

  あなたは使徒であり、周囲の人々の間では、湖に落ちた石である。あなたの模範と言葉で最初の波紋を描きなさい…。すると、その波紋がもう一つの波紋を生み…、また一つ…、さらに一つと波紋を生み出す。次々と広範囲に大きく広がってゆくのである。

今こそあなたの使命の偉大さが分かったのではないだろうか。


832

  世の中には自分の場から出たがる人がなんと多いことか。からだの骨や筋肉の一つひとつが、各自の場所とは異なるところを占めたいと望んだら、一体どうなることだろう。

世間でよく耳にする不満も、これと似たようなものだ。わが子よ、自分の場に留まりなさい。その場から、わが主の御国実現のために、どれだけ多くの貢献ができることか。


833

  リーダー。…神があなたをリーダーに相応しくしてくださるよう、あなたの意志を雄々しくしなさい。忌々しい秘密結社がどういうやり方をするか知らないのか。連中が大衆を自分たちの方へ引き寄せたことはなかった。自分たちの洞窟の中で幾人かの悪魔的な人間を育て上げ、扇動し、群衆を狂奔させた後で、付き従わせる。挙句の果てに、あらゆる無秩序の絶壁へと導き…、遂には地獄へ連れ去る。呪われた種を蒔き広めて行くのである。

あなたがその気にさえなれば…、尊さの極みである神の言葉を必ず広めることができるだろう。もし、あなたに物惜しみしない心があれば…、もし、あなたが聖人になるための努力をもって応えるならば、人々の聖性も実現し、〈すべての人を、ペトロと共に、マリアを通して、イエスのもとに〉導き、キリストのみ国を建設することができるだろう。


834

  黄金色の麦を大地に蒔き散らして腐らせるほど、愚かなことがあるだろうか。これほど愚かな寛大さがなければ、収穫は見込めない。

子よ、あなたの寛大さはどうだろうか。


835

  星のように煌きたい…、はるか高みを望み、天空で光り輝きたいのか。

むしろ、隠れた松明のように燃えて、触れるものすべてに火を点けるがよい。これがあなたの使徒職である。そのために、あなたはこの世にいるのである。


836

  敵の拡声器になるなんて、愚の骨頂だ。万一その敵が神の敵であれば、それこそ大きな罪である。だから私は、専門分野において、自らの知識を教会攻撃のために利用するような人間の学問を、絶対に称賛しない。


837

  駆け足、駆け足…。活動、活動…。熱狂、憑かれたような奔走…。外観は素晴らしく立派な建物…。

しかし霊的には、木箱の板、裏地の端切れ、塗りたくったダンボール…。狂奔また狂奔、活動また活動。大勢が右往左往して走り回る。

今この瞬間だけを視野に、彼らは動いているのだ。いつも〈現在〉に〈留まっている〉。しかしあなたは…、永遠の目で物事を見るべきである。未来と過去を、〈現に〉考えながら。

落ち着き。平安。あなたの内的に強烈な生命。駆けずり回ることもなく、自分の場を変えるという愚かなことをせず、与えられた場にいながらも、強力な霊的発電機のように、光とエネルギーをなんと大勢に与えられることか…。しかも、自分の力と光を失わずに。


838

  敵を作ってはいけない。友人だけを持ちなさい。あなたに善いことをしてくれた人や善行をしたいと望んでいる人なら、右側の…友である。もし、あなたに害を与えた人や害を与えようとする人なら、あなたの左側の…友にしておけばよい。


839

  隣人の役に立たない限り、〈あなたの〉使徒職について細々と話さない方がよい。


840

  三十年間のイエスの生き方が人目を引かなかったように、あなたたちの献身も人目を引かないようにしなさい。


841

  アリマタヤのヨセフとニコデモは、平隠な時と勝利の時にはこっそりとイエスを訪れた。

しかし勇敢な彼らは、人々が臆病な態度を示した時、権力者を前にして〈大胆に〉キリストヘの愛を宣言したのであった。学びなさい。


842

  あなたたちの行いによって人々が〈あなたたちのことを知った〉としても、心配するには及ばない。それこそ、キリストのよき香りである。そのうえ、キリストのためだけを思って働いているのだから、聖書の言葉が実現していることを見て喜びなさい。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめる」。


843

  イエスは、「公にではなく、密かに」エルサレムの仮庵祭に行かれた。

同じように、キリストはクレオパともう一人の弟子と共にエマオの道を行かれる。復活後、マグダラのマリアが見たイエスもそうであった。

奇跡的な大漁の時にも同じようになさったので、弟子たちはそれがイエスであることに気づかなかった。「弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった」と、ヨハネが書いている。

そして、人々を愛するがゆえ、今はそれ以上に隠れた姿で、ホスチアのうちに留まっておられるのだ。


844

  壮大なビルを建設しているというのか。豪華な宮殿をこれ見よがしに造営している、と。建てさせておきなさい…。造らせておけばいい…。

大切なのは人々の霊魂である。あれこれのビルや宮殿を活かす人々の霊魂に、真に生き生きとした命を与えることである。

なんと素晴らしい建物が私たちを待っていることか。


845

  あなたが言ったことは分かりきったことだが、どんなに私を笑わせ、また考えさせたことか。「私は…釘を打つとき、必ず頭を叩いて打ち込む」と、あなたは言ったのだった。


846

  あの人やこの人との親しい語り合いや打ち明け話のほうが、何千人もの聴衆の前で見世物や興行物紛いの演説をするよりも、ずっと良い影響を与えることができる。それは賛成だ。

しかしながら、演説すべき時には、演説しなければならない。


847

  あなたたち各々が別々に努力をしても、効果は上がらない。キリストの愛を絆にして結束すれば、その効果に驚くだろう。


848

  殉教者になりたいのか。では、あなたの手近にある殉教を教えよう。それは、使徒であっても使徒と呼ばれないこと、使命を帯びた宣教師であっても宣教師と呼ばれないこと、神の人であってもこの世の人と思われること、つまり、隠れて過ごすことである。


849

  そんな馬鹿な。笑いものにしてやりなさい。そんなことは時代遅れだと言ってやりなさい。乗合馬車が…便利な交通機関だと信じるような人が未だにいるとは、嘘のような話である。そんなことは、埃まみれの鬘をつけたヴォルテール主義か、時代遅れとなった十九世紀の自由主義の蒸し返しを願ってやまない連中のものである。  

(注)ヴォルテール主義…ヴォルテール(十八世紀) の哲学、宗教的懐疑主義のこと。


850

  何とくだらなく、何と…汚らわしい話をするのだろう。だが、あなたは彼らと一緒に生活していかなければならない。職場で、大学で、手術室の中で…、つまり世の中で。

止めるようにと頼めば、笑い者にされる。不愉快な顔をすれば、なおさら熱心に話す。あなたが席を外しても話を続ける。

解決策を教えよう。第一に、その人たちのために神に祈り、償いを捧げること。次に…、男らしく立ち向かい、〈毒舌の使徒職〉をすること。今度あなたに会ったら、耳元で、一連の言い方を聞かせてあげよう。


851

  青年期の〈摂理的な軽率〉を善い方向に誘導しよう。 

 霊的幼児(852~874)


852

  〈霊的幼児の道〉を知るように努めなさい。しかし、〈無理をせず〉この道を歩みなさい。聖霊の働きに任せるのだ。


853

  幼子の道。依託。霊的幼児。これらはすべて愚かなことではない。それどころか、強くて堅固なキリスト教的生き方である。


854

霊的幼児の道において、〈子供たち〉の言うこと為すことは、決して愚かなことでも幼稚なことでもない。


855

  霊的幼児の道は、霊的な愚行でも〈柔弱〉でもない。それは賢明な逞しい道である。この道を歩む人は、その難しい易しさのために、神のみ手に導かれて歩みを始め、神のみ手に導かれて前進しなければならない。


856

  霊的幼児の道を歩むには、意志の服従よりもさらに難しい知恵の服従が必要である。知恵を服従させるには、神の恩寵(恩恵)に加えて、ちょうど意志が一度また一度と、常に肉欲を否定するように、意志の継続的訓練が不可欠である。逆説になるが、〈幼児の小道〉を歩む人が幼子になるためには、意志を強く逞しくしなければならないのである。


857

  小さくなりなさい。とてつもなく大胆なことをするのは、常に子供たちである。誰が一体…、お月さまが欲しいなどと、無理を平気で求めるだろうか。自分の望みを達するために全く危険を顧みないのは、誰だろうか。

〈このような〉子供に、神の豊かな助けとそのみ旨を果たす望み、イエスヘの大きな愛と、できる限りの人間的知識を〈付け加える〉なら…、確かに神のお望みになる現代の使徒の肖像が浮かび上がってくる。


858

  幼い子供になりなさい。もっと、もっと。しかし、大人か子供か判らない〈中途半端〉に陥らないようにしなさい。〈大人びた〉子供や〈子供っぽい〉大人ほど、馬鹿げたものはない。

神とともにいれば幼子であり、そうであるからこそ、それ以外においては非常に男らしい人であるように。

それはそうと、そんな甘えた小犬のような真似はやめなさい。


859

  子供っぽいことをしたくなる時がある。それは、神のみ前で素晴らしい行いである。馴れに陥らないようにすれば、豊かな実りをもたらす。神の愛は常に実り豊かなものだから。


860

  永遠の神のみ前に立つあなたは、目の前にいる二歳の子供よりもなお一層幼い子供である。

幼子である上に、あなたは神の子である。これを忘れてはならない。


861

  幼子よ、大人の生活中に犯した酷い過ちを償いたいという強い望みを持ちなさい。


862

  愚かな幼子よ、自分の霊魂に関する事柄を指導者に隠した日は、あなたが幼子であるのを止めた日である。単純さを失ってしまったからである。


863

  幼子よ、本物の幼子になれば、全能になるだろう。


864

  幼子になれば、悲しみはなくなる。子供たちは、不愉快なことをすぐに忘れ、いつもの遊びに戻るものである。だから、依託の心を持てば、心配事はなくなる。御父のもとに憩うからである。


865

  幼子よ、毎日…、あなたの弱さの数々さえも、神に捧げなさい。


866

  善良な幼子よ、神を知らないあの労働者たちの仕事を神に捧げなさい。神なき学校にいる可哀相な子供たちの自然な喜びを神に捧げなさい…。


867

  幼子たちは、自分のものが何もない。すべては親のものである…。ところであなたの御父は家族の財産をどのように管理すべきか、常によくご存じである。


868

  幼い子、とても幼い子供になりなさい。せいぜい二、三才の子供になるのだ。それより大きい子供は時にずるくて、およそ信じ難い嘘で親をだまそうとする。

それは、悪への傾き、原罪の〈傷痕〉があるからで、まだ彼らに悪の経験はない。そんな経験があれば、もっと悪賢くなり、さらに一層もっともらしい顔でごまかしを覆い隠すようになる。

純真さを失ったのである。ところで、神のみ前で子供になるために不可欠なこと、それは純真さである。


869

  しかし幼子よ、なぜ強情にも竹馬に乗って歩こうとするのか。


870

  大人になろうと望んではならない。子供のまま、たとえ年老いて死ぬとしても、常に幼子のままでいなさい。幼子がつまずいて倒れても、誰一人驚かない…。すぐに父親がかけつけて抱きあげる。

つまずいて倒れたのが大人なら、見ている人々はまず笑ってしまう。時には、その最初の反応の後、滑稽さが同情を引き起こすこともあるだろう。しかし、大人は自分で起き上がらなければならない。

あなたは毎日幾度も、つまずいたり倒れたり、悲しい経験を繰り返している。その度にあなたがもっと幼い子にならないとすれば、一体どうなることだろう。

大人になろうと望んではならない。幼子のままでいれば、たとえ失敗しても、あなたの父なる神のみ手が助け起こしてくださる。


871

  子よ、依託の心を持つには素直でなければならない。


872

  幼子と、幼子のようになる者を、神が特別にお愛しになることを忘れないようにしなさい。


873

  幼児の逆説。世間が〈良い〉という出来事をイエスがあなたに送ってくださったなら、神の優しさと自らの悪さとを思い出して心で泣きなさい。人々が〈悪い〉と呼ぶ出来事をイエスがお送りになったら、心で喜びなさい。主はいつもあなたに適したものをお与えになるからであり、その時こそ、十字架を愛する時だからである。


874

  大胆な幼子よ、大声で叫びなさい。テレジアの愛はなんと素晴らしい愛だろう。ザビエルの熱意はなんと凄い熱意だろうか。聖パウロはなんと感嘆すべき人物なのだろう。ああイエスよ、それなら私は…、あなたのことを、パウロとザビエルとテレジアよりも、もっとお愛ししています。

 幼子の生活(875~901)


875

  愚かな幼子よ、神の愛があなたを全能にしてくださったことを忘れないように。


876

  幼子よ、あちこちの聖櫃に〈押し掛け訪問する〉という、愛のこもった習慣を失わないように。


877

  「良い子だ」と言っても、私があなたを、恥ずかしがり屋や臆病者だと思っていると考えないでほしい。雄々しくもなく、…普通の子でもないとすれば、あなたは使徒ではなく漫画となって笑いを招くだけだろう。


878

  良い子よ、一日中、頻繁に、イエスに申し上げなさい。あなたを愛しています。あなたを愛しています。あなたを愛しています、と。


879

  自らの惨めさを知って悩む時も、悲しんではならない。聖パウロのように、あなたの弱さにおいて誇りなさい。子供には、嘲笑いを恐れることなく大人を真似ることが許されているからである。


880

  欠点や不完全どころか重大な罪があったとしても、神から離れてはならない。か弱い幼子は、賢ければ、父親の傍を離れまいと努めるものである。


881

  お求めになる小さなことを実行するとき、腹が立っても気にしなくてよい。やがて、微笑むことができるだろう…。

父親が子供を試そうと、子供の手にあるお菓子を求めた時、無邪気な幼子が渋々それを差し出すのを見たことがあるだろう。渋々だが、結局は差し出す。愛が勝利を得たのである。


882

  上手にやろう、もっと上手にやり遂げようと思えば思うほど、ますます結果が悪くなる。イエスのみ前で遜り、こう申し上げなさい。ごらんの通り、失敗ばかりです。あなたがもっと助けてくださらなかったら、私はもっと下手なやり方しかできないでしょう。

あなたの幼子を憐れと思ってください。私の生命の本に毎日一頁ずつ大きくてきれいな字を書き込みたいのです…。けれども、こんなに不器用な私ですから、先生が手をとってきれいな字を書かせてくださらなければ、美しく均整のとれた線を書く代わりに、歪んだ字や書き損じだらけになり、他人には見せられません。イエスよ、今からは、いつも一緒に書きましょう。        


883

  私の愛なる神よ、私は粗野で不器用ですから、優しく触れようと思う時でさえ、害を与えてしまいます。

心の作法がもっと繊細になるようお助けください。幼児の生活に固有な力強い逞しさの中にも、幼い子供たちが親密な愛情を持って親に接する時に見せる、細やかさと優しさをお与えください。お願いします。


884

  あなたは惨めさだらけだ。それが日毎にますます明らかになる。しかし恐れてはならない。あなたがこれ以上の実を結べないことは、神がよく承知しておられる。

あなたの失敗は弱さによるもの、子供の罪であるから、父なる神はより丹念に配慮してくださり、御母マリアも優しいみ手をあなたから離されない。思い切りすがりなさい。毎日、主があなたを床から抱き起こしてくださる度に、力いっぱい主を抱き締め、主の広い胸もとに惨めなあなたの頭を寄り添わせなさい。愛深い聖心の鼓動に触れてあなたが愛に夢中になるためである。


885

  ちくりと一刺し、また一刺し、さらにもう一刺し。痛くても我慢しなさい。あなたはとても幼い子であって、一生、あなたの小道を歩む間、こんなに小さな十字架しか捧げられないことが分からないのか。

それだけではない。考えてもみなさい。十字架に、また十字架、一刺し…また一刺しと、少しずつ積み重ねてゆけば、山ともなるのだ。

幼子よ、遂にあなたはとても偉大なことをやり遂げたのだ。つまり、(神を)愛することができたのである。


886

  幼子の心で主に赦しを願えば、その望みはいち早くかなえられるに違いない。イエスは、過去の罪が引きずる汚れた尻尾を根こそぎにし、地面に這いつくばわせる重さとすべての汚れを取り除いてくださるだろう。幼子の心からすべての地上的な重しを取り去り、遠くへ投げ捨ててくださるので、子供は栄光に輝く神のもとまで昇り、愛そのものである御方の活きる炎に溶け込むことだろう。


887

  けち臭い行いや失敗に気づき、それに外見だけかもしれないが、後退りしたのを知ってがっかりすると、何か高価な物(あなたの聖化)が壊れてしまったかのような思いにしばしば襲われる。

心配するには及ばない。無邪気な子供たちが同じような問題を解決するために使うあの賢明な方法を、あなたも超自然的な生活に転用すればよいのである。

大抵の場合は不注意から、子供は父親の非常に大切にしていた物を不器用ゆえに壊してしまう。それを悲しみ、たぶん泣き出すだろう。そして、壊してしまった物の持主のところへ行き、慰めを求める…。すると父親は、壊れた物がどんなに高価であっても、その価値を忘れ、優しい心で許すばかりか、幼子を慰め励ます。これに倣いなさい。


888

  あなた方の祈りは逞しい祈りでなければならない。幼子になるとは柔弱になることではない。


889

  イエスを愛する者にとっては、たとえ無味乾燥な祈りであっても、祈りは常に悲しみを消し去る甘美となる。苦い薬を飲んだあとで砂糖に飛びつく幼子のように、祈りに赴くのである。


890

  あなたは祈りの途中で気が散る。気が散らないように努力しなさい。しかし、それでも気が散るようなら、その時は心配しなくてもいい。

よく見受ける風景である。どれほど真面目な子供でも、父親の道理に適った言葉に耳をかさず、周囲のものに気を散らして遊びほうける。だからといって、愛や尊敬の念が欠けているわけではない。それが、子供特有の弱さであり、幼さなのである。

幸いにも、あなたは神のみ前にいる幼い子供なのである。


891

  祈りの途中で関係のない考えが浮かんだら、交通巡査になったつもりでそのような思いを通過させなさい。霊的幼児の強い意志があれば、それぐらいのことはできるはずだ。時には、入り込んできた厄介な思いを一旦停止させ、そのような思いに現れた人たちのために祈りなさい。

さあ、前進だ…。こうして、時間が来るまで根気よく。このような祈り方が無益だと思えても、イエスをお喜ばせすることができたと信じて喜びなさい。


892

  幼子になるのは、何と便利なことだろう。大人がものを願うときは、願書に履歴や業績を添える必要がある。

物事を頼むのが子供であれば、幼い子供には業績らしきものは何もないから、私は、誰それの子ですと言うだけで済む。

だから、ありったけの心をこめて言いなさい。主よ、私は神の子です、と。


893

  堅忍すること。子供が戸口に立って戸を叩く。一度、二度、どんどん激しく、しかも長い間、無遠慮に。腹を立てて戸を開けた人は、目の前にいるうるさい子供の無邪気な様子を見て、心が和らいでしまう…。あなたも神に対してこの子供のように振る舞いなさい。


894

  あなたは、幼い子供たちの感謝する様子を見たことがあるだろうか。好運にあっても、不運にあっても、子供を真似てイエスに申し上げなさい。「イエス様、あなたはなんと善い方なのでしょう、なんと善い方なのでしょう…」と。

この言葉を本気で心の底から口にすることができれば、幼子の道を歩んでいる証拠である。幼子の道を歩むなら、笑いと涙において限度を守るが、神の愛においては限度を設けず、平和を得ることができるだろう。


895

  仕事で疲れ果てて祈ることができない。常に御父のみ前にいるのだから、言葉に表さなくても、幼い子供のように、時々、御父の方に眼を上げなさい。…御父はあなたに微笑んでくださるだろう。


896

  聖体拝領後の感謝の時、最初に口にのぼるのはどうしても、…願い事である。イエスよ、これをお与えください。イエスよ、あの人を。イエスよ、あの事業を。

心配しなくてもいいし、無理に変えなくてもいい。優しい父親と無邪気で厚かましい子供のようなものではないか。お帰りなさいの挨拶もろくにしないで、お菓子を求めて父親のポケットに手を入れる。それなら、あなたも…。


897

  恩寵(恩恵)に強められた意志は神のみ前で全能である。だから、主に対する様々な侮辱を見るにつけ、本気でイエスに申し上げよう。例えば、電車に乗っている時、「私の神よ、車輪の一回転ごとに、愛と償いをお捧げしたいのです」と言う。その瞬間、文字通りイエスのみ前で、望んだように神を愛し、償いを捧げたことになる。

この〈戯言〉も、霊的幼児の歩みに含まれている。それは、無邪気な幼子と子供に目のない父親との永遠の会話である。

「どれくらいお父さんが好きかな。言ってごらん」。すると、幼い子供は一言ずつ区切って応える。「とっ・て・も・た・く・さ・ん」と。


898

  あなたが〈幼子の生活〉を送るなら、幼い子だからこそ、霊的に大の甘党であるはずだ。だから、あなたと同じ年頃の幼子たちのように、あなたのために御母が取っておいてくださるあの良い物を思い出しなさい。

一日に幾度も思い出すのだ。ほんの数秒しかかからないから…。マリア…、イエス…、聖櫃…、聖体拝領…、神の愛…、苦しみ…、煉獄の霊魂…、戦う人たち。教皇、司祭たち…、信者たち…、あなたの霊魂…、仲間たちの霊魂…、守護の天使…、罪人たち…。


899

  その小さな犠牲がなかなか捧げられない。捧げようと戦いを続ける傍から、なぜそんな時間きっかりに生活プランを守らねばならないのかと唆されているようだ。ほら、あなたは幼い子供がやすやすと騙されるのを見たことがあるだろう。苦い薬は飲みたくない、しかし…そう! この一匙、パパのため。もう一杯は、おばあちゃまのため…。こう言われて、結局最後の一滴まで飲み干してしまう。

あなたも同じようにしなさい。煉獄の霊魂のためにもう十五分の鎖、両親のためにあと五分、使徒職の兄弟のためにもう五分…というふうに。決めた時間が過ぎるまで。

こうして果たした犠牲には、なんと大きな値打ちのあることか。


900

  あなたは独りぼっちではない。喜んで苦難に耐えなさい。可哀相に、なるほどあなたは御母の手を感じることができない。しかし…、誰の助けも借りずに冒険さながら震えながらも、よちよちと一人歩きを始めたばかりの幼子の後ろから、世の母親たちが両腕を広げてついて行くのを見たことがあるだろう。あなたは独りではない。マリアが傍らにおいでになる。


901

  イエスよ、私を幼子にするため、惜しみなく注いでくださった恩寵(恩恵)の代価は、たとえ私があなたへの愛のために死んだとしても、支払い切れないことでしょう。

  

  


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