神の栄光

  やがて永遠の生命を得た時、神とともに栄光を満喫できるが、その栄光の前金(すなわち妻や子供や名誉…)を捨てて、神に栄光を帰するのはよいことである。

そのうえ、神は寛大な御方だから…、一つのことに百をもって報いてくださる。子供についても同じことが言える。大勢の人は、神の光栄のために子を持たないことにするが、大勢の霊的子供に恵まれる。子供、私たちと同じように、天にいます御父の子供に恵まれるのである。

  〈すべての栄光は神に〉。これは、私たちが無であることを端的に認める告白である。イエスはすべてである。イエスなしに、私たちには何の価値もない。無である。

私たちの虚栄は文字通り虚しい栄えに過ぎず、汚聖となる盗みである。〈自我は〉どこにも現れるべきではない。

「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と、主は仰せられた。あなたも私も、神に帰すべき成功を自分の手柄にしないためである。「わたしを離れては、何一つ…」。

  神の知性の閃きである理性を、なぜ、主に栄光を帰さないことのために用いるのか。

  万一、神に栄光を帰するという目的がなかったなら、人生とは軽蔑すべきもの、いや、憎悪すべきものであろう。

  〈すべての〉栄光を神に帰しなさい。神の助けを受けて、一つひとつの行いから意識的に、人間的な高慢心や〈あなた〉の自己満足臭いところを一つ残らず〈絞り出して捨てなさい〉。

「あなたはわたしの神、わたしはあなたに感謝しよう。あなたはわたしの神、わたしはあなたを称えよう」。あなたは私の神、私はあなたを賛美しよう。この祈りは、あなたほどの立派な使徒にとって、美しいプログラムである。

  キリストに栄光を帰し、また、キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、御父と聖霊とに栄光を帰すること。このすこぶる聖なる望み以外のいかなる愛情によっても、この地上に縛りつけられることのないように。

  意向は絶えず改めなさい。己に打ち勝つ努力をしたにもかかわらず、動機が人間的であるがゆえに、実りがなくなってしまうとすれば、残念なことだ。

  純粋な意向。あなたは高慢の唆しや肉の衝動にはすぐに気づいて戦う。そして神の助けを得て、打ち勝つ。

しかし、非常に聖なる行いに携わる時でさえ、行いの動機が明らかである…とは思えない。心の奥で人間的な動機を仄めかす声が聞こえるからである。しかも、ごく密やかに語りかけられるものだから、あなたは余計に不安になる。純粋な愛を持ってひたすら神の栄光のためにのみ働くべきなのに、そうしていないのではないか、と。

こんな不安を感じるたびに、直ちに主に申し上げなさい。「主よ、私のためには何も欲しくありません。すべては、あなたの栄光のため、愛なるお方のためにいたします」。

  私は今から、感謝と報酬をことごとく捨てます、言えるなら、その時こそ、あなたは確かに意向を清めたことになる。

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