聖性の設計図

  神が要求なさる聖性という平面図は次の三点によって定まる。

聖なる非妥協と聖なる強制、それに聖なる恥知らず。

  聖なる恥知らずと世間的な図々しさとは別物である。

  聖なる恥知らずは〈幼子の生活〉の特徴である。幼い子供は思い煩うことが何もない。幼子は、皆に見つめられても、自分の惨めさ、あるがままの惨めさを、無邪気にさらけ出す。

この恥知らずな態度を超自然の生活に当てはめると、次のように考えられる。称賛、軽蔑…、感嘆、嘲り…、名誉、不名誉…、健康、病…、富、貧しさ…、美しさ、醜さ…。

いいだろう。そして、それが…何だというのか。

  笑いものにされても、笑い飛ばそう。どう言われようとも、無視しよう。あなたと周りの事柄のうちに隠れておいでになる神を感じ取りなさい。そうすれば、キリストの紳士にふさわしい思いやりのある心で生きるために必要な、聖なる恥知らずになるだろう。何という逆説。

  聖なる無恥を備えているのなら、〈何を言われたか〉、〈何を言われるか〉など、まったく気にならないはずである。

  ベストを尽くす人にとっては、物笑いの種になる心配など存在しないと確信しなさい。

  ある人が…、たとえ紳士であっても、妥協に陥りやすい人なら、再びイエスに死刑を宣告してしまうことだろう。

  譲歩するとは、真理を持っていないことを示す明らかなしるしである。理想や名誉、あるいは信仰に関する事柄で譲歩する人は…、理想も名誉も信仰もない人間である。

  戦いで日焼けしたあの神の人は主張した。私が妥協しない人間だとおっしゃるのですか。もちろん、妥協などできません。私は自分の理想が真実であると確信しているからです。ところで、あなたは簡単に妥協なさる。2プラス2が3.5とでも思われますか。そうはお思いにならない? たとえ友情のためであってもこんな些細なことにも妥協できないと、おっしゃるのですね。

あなたは真理を持っていると初めて確信なさった。これで、あなたは私の味方になったのです。

  聖なる非妥協とは、不寛容のことではない。

  教理と行いにおいて妥協してはならない。ただし、物腰は柔らかく。真綿で包んだ強力な鉄棒のように。

 一徹でありなさい。しかし、無作法であってはならない。

  非妥協が単なる非妥協であってはならない。〈聖なる〉非妥協でなければならないのである。

そしてまた、〈聖なる強制〉があるということも、忘れないでおこう。

  自殺しようとする人の地上での生命を救うために、力ずくで止めさせることが称賛に値するのなら、愚かにも自分の霊魂を死に追いやろうとする多くの人の〈永遠の生命〉を救うため、同じく強制―聖なる強制―を行使することはできないのだろうか。

  いかに多くの罪が、正義の名において、犯されていることか。あなたが銃を販売しているとする。そして、あなたの母親を殺害する目的で銃を買う人がいるとしよう。あなたは銃を売るだろうか…。その人は正当な代金は支払うつもりなのに…。

大学教授、新聞記者、政治家、外交官諸氏、よくよく考えなさい。

  神と大胆さ。大胆は軽率ではない。大胆は無謀ではない。

  自分の罪の赦しだけをイエスにお願いしないように。あなたの心だけで…、主をお愛ししないように。

イエスに対する過去と現在と未来の…、すべての侮辱について、謝罪し、償いなさい。イエスを誰にもまして愛したすべての人々の、すべての心の力を込めて、イエスをお愛ししなさい。

大胆になって、申し上げなさい。マグダラのマリアよりも、大テレジアや幼きイエスのテレジアよりも、あなたに夢中になっています。アウグスティヌスやドミニコやフランシスコよりも、イグナチオやザビエルよりも、あなたの愛に酔いしれています、と。

  もっと大胆になりなさい。何かが必要なときは、常に、〈フィアット〉(なりますように)心で始めて、お願いはしないように。その代わりに、「イエスよ、これが欲しいのです。あれが欲しいのです」と申し上げなさい。子供たちはこういう願い方をするからである。

  あなたは失敗した。―いや決して、私たちは失敗しない。あなたは全幅の信頼を神に寄せた。そのうえ、打てる手はすべて打ったのだから。

次の点を確信しなさい。今回のその点に関するあなたの成功とは、失敗することであった。神に感謝して、さあ、やり直そう。

  失敗したと言うのか。あなたが失敗するはずのないことは、確信しているはずだ。

失敗したのではない。経験を積んだのである。前進しなさい。

  あれは完全な失敗、大失敗だった。あなたは私たちの精神を失ったのだから。しかし、もう知っていると思うが、〈勝利か敗北かなど、どちらでもいい〉、超自然的に見れば、結局は同じこと、いずれも成功なのである。

  職務上の権利と個人の権利とを混同しないようにしよう。職務上の権利を放棄することはできないのだ。

  信心に凝り固まった人と信心深い人との違いは、聖人ぶった人と本物の聖人との違いに等しい。前者は後者のカリカチュア(戯画)である。

  キリスト者としての通常の善徳が身についていなければ、聖人たちの善徳を上辺だけ実行しても無益であることを考えよう。

それは、豪華な宝石で下着を飾るようなものである。

  あなたの徳が鳴り物入りの徳にならないように。

  多くの似非使徒たちは、偽者であるにもかかわらず、大衆・民衆の役に立つことをする。自らは実行しないが、彼らが説教するイエスの教えそのものに力があるからである。

しかし、役に立つとは言っても、他人には教えるが自分では実行しない連中に嫌悪感を覚え、彼らから離れ去るリーダーや使徒の霊魂を潰すという、大きな悪・実害を相殺することはできない。

だから、どこから見ても申し分のない生活を送りたいと望んでいない限り、男性であれ女性であれ、グループの先頭に立つリーダーや指導者になるべきではない。

  あなたの神への愛が鬼火であってはならない。鬼火とは幻覚であり錯覚であるから、何に触れても、燃え上がらせることも、熱を与えることもできはしない。

  悪魔の〈仕えまい〉という叫びは、あまりにも多くの実を結んだ。あの反逆の叫びを遥かに凌いで豊かな実を産み出すために、祈りと行いの意欲にあふれて、「私はお仕えします」、忠実を保ちますと、日々、寛大に申し上げる衝動を感じないのだろうか。

  堕落した〈神の人〉を見ると、悲しい、の一言に尽きる。しかし、それにもまして悲しいのは、生温くて世間的な〈神の人〉を見ることである。

  世間で勝利とか敗北とか言われる事柄には、あまり頓着しないほうがいい。実に度々、勝利者が敗北の憂き目を見るからである。

「わたしを離れては、あなたたちは一つできない」。これは聖なる福音書の〈永遠の光〉であって、私の目には新たな光、いや、それ以上に、新たな輝きである。

私は〈自らの〉数々の…愚かさに驚くのだろうか?

私の事すべてにイエスを引き込もう。そうすれば、私の行いから愚かさが消えてなくなるだろう。正確を期するために、私の事と言わず、〈私たちの事〉と言うようにしよう。

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