自己形成

  独身の日々を聖ラファエルの保護のもとにおきなさい。大天使が、青年トビアの時のように、気立てのよい美人で金持ちの娘との聖なる結婚に導いてくれるように。冗談半分にこう勧めたら、あなたは快濶に笑っていた。

 そのあと続けて、若い使徒ヨハネの保護もお願いしなさい。主がそれ以上のことを要求なさるかもしれないからと勧めると、あなたは考え込んでしまった。

  他人から厳しい扱いを受ける、血縁の家族の者たちの態度と比べて厳しく感じると、あなたは心の中で不平を漏らしている。そこで、ある軍医の手紙から数行を写しておこう。「病人に対して二つの態度があります。一つは、職務に忠実な医者の冷静冷徹で抜け目ない態度です。これは患者にとって客観的かつ有益です。もう一つは、うるさく泣き喚く家族の愚かな態度です。戦闘中、負傷者が続々と野戦病院に送り込まれてくる時、その処置に手間取って患者は溜まる一方。そのような時に、担架一台毎に家族が付きまとったとすれば、一体どうなることでしょう。医者はまるで敵陣に乗り込むようなものです」。

  私に奇跡はいらない。福音書にある奇跡で充分である。むしろ、私が欲しいのは、あなたが義務を果たすこと、あなたが神の恩寵(恩恵)に応えることである。

  失望。あなたはがっかりしてやって来た。〈教訓を得たのである〉。人々はあなたに援助の必要がないと考えたから、援助を申し出た。ところが、わずかな金額とはいえ、あなたを経済的に援助する必要がありそうだと判った途端、友情は無関心に変わった。

神と、神ゆえにあなたに一致している人々だけを信頼しなさい。

  あなたがもし、野心や虚栄心や官能に仕えるときと同じ熱意をもって、〈真剣に〉神に仕える決心さえするならば…。

  指導者になりたいという衝動を感じるのなら、あなたの望みは次のようになるだろう。すなわち、兄弟の間では最後の者、他の人々の間では第一の者になりたい、と。

  考えてみよう。あの人やこの人が、以前から知り合いだった人や好感のもてる人、職業や性格が似ていて気の合う人など特定の人たちに、より厚い信頼を寄せているからといって、あなたを侮辱したと言えるだろうか。

とは言え、たとえ外からそう見えるだけであっても、あなたたちの間では特別な友情関係を注意深く避けなさい。

  飛び切り上等で選り抜きの料理でも、(文字通り、こうとしか呼べないから言うのだが)豚が食べるなら、豚の肉になるのが関の山である。

天使になろう。思想を吸収してそれをより尊いものにするために。それができなければ、せめて人間になろう。食物を摂取して、少なくとも高貴で見事な筋肉に変えるため、あるいは、脳を強力にして、神を知り、神を礼拝するために…。

いずれにせよ、大勢の、ほんとうに大勢の人々のように家畜のようにはなりたくないものである。

  退屈しているのか。五感が目覚め、霊魂が眠っているからである。

  イエス・キリストの愛があれば、多くの譲歩を…、それも極めて高貴な譲歩をするだろう。イエス・キリストの愛があれば、同じように多くの非妥協を…、それも極めて高貴な非妥協を貫くことだろう。

  悪くないのに悪く思われるのは、愚か者である。そして、その愚かさは躓きになるから、いっそうひどい悪である。

  職業面で評判の芳しくない人が、外的な宗教行事の〈責任者〉になって動き回っているのを見ると、きっと、「お願いですから、カトリックであることをあまり見せないようにしていただけませんか」と、耳元でささやいてやりたくなることだろう。

  公職についているあなたには職務遂行に伴う一連の権利と義務がある。

万一、使徒職をする時に、あるいは使徒職を口実にして、職務上の義務を果たさないとすれば、使徒としての道から外れることになる。まさに〈人を漁する釣り針〉である仕事の面で、評判を失ってしまうからである。

  使徒としてのあなたのモットーは、〈休みなく働くこと〉だと言う。気に入った。

  なぜ、そんなに慌てているのだろう。それが活動だなどと言わないでほしい。それは軽率というものだ。

  あなたは気を散らしている。感覚と能力はどんな水溜りからでも飲んでしまう。そして、その後、落ち着きがなく注意は散漫、意志は眠っているが情欲は目覚めて生きている。

キリスト者として生きるために、計画を立て、真剣にその計画に従いなさい。さもないと、有益なことは何もできないだろう。

  周囲の影響は大きい!」と、あなたが言った時、疑いなくそうだと認めるほかはなかった。だからこそ、あなたたちは固有の雰囲気を身につけ、〈自らの調子〉を自然に周囲の社会に与える事のできる形成を受けるべきなのである。

そして、あなたがこの精神を理解したなら、その時こそ、初代の弟子たちが、キリストの名において自らの手で行った最初の奇跡を見て驚いたように、あなたも「私たちは大きな影響を周囲に与えた」と言えるだろう。

  ところで、どのようにすれば、〈私たちの形成〉を身につけ、〈私たちの精神〉を保つことができるのでしょうか。指導者が与え、説明し、愛するよう教えたあの〈規定〉(一定の信心の業)を果たすことによってである。規定を果たしなさい。そうすれば、使徒になるだろう。

  悲観的にならないようにしなさい。起こることも起こりうることも、万事は善のためだと知らないのか。

あなたの楽観はあなたの信仰の必然的な結果である。

自然さ。キリストの紳士淑女であるあなたたちの生き方、つまりあなたたちの塩と光が、奇妙なところも上品ぶったところもなく、自然なかたちで表に現れるようにしなさい。常に、私たちの精神である単純さを身につけていなさい。

「自分の生き方が異教化された環境や異教そのものの雰囲気と衝突するとき、私の自然さは紛い物に見えるのではないでしょうか」と尋ねた。

では、答えよう。確かに、あなたの生き方は彼らの生き方と衝突するだろう。しかし、その衝突はあなたの信仰を行いで表明した結果だから、それこそ正に、私があなたに要求する自然さである。

  団結心が強いと言われても気にしないように。人々は何が欲しいのだろうか。握った途端に壊れ、粉々になるような道具を望むのだろうか。

  あの『イエス伝』を贈るにあたり、次の献辞を記した。〈あなたがキリストを尋ね、キリストに出会い、キリストを愛するように〉。

これは非常に明らかな三段階である。あなたはせめて第一段階だけでも実行しようと努めたのだろうか。

人々があなたの―責任者であるあなたの―優柔不断な態度を目にすると…、従順が実行されなくなっても不思議ではない。

  混乱状態。私は、あなたの判断規準の正しさがぐらついているのを知った。そこで、理解してもらうために書き送った。悪魔はほんとうに醜い顔をしている。そのうえ、非常に賢いので、絶対に角を見せることはない。正面からは向かって来ないのだ。

従って、気品ある仮面や霊的な仮面さえ被って、何度となく忍び寄ってくるものなのだ。

  主は仰せになる。「新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい…。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。

聖パウロはこう教える。「互いに重荷を担い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。

付け加えることは何もない。

  子よ、忘れてはならない。この世で、あなたが恐れるべき悪、そして、神の恩寵(恩恵)を得て避けるべき悪が一つある。それは罪である。

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