勉学

  知恵ある賢い人になり得る人がそうならないことを、私たちは許さない。

  勉学。従順、〈量より質〉。

  あなたは祈り、犠牲を捧げ、使徒職に関わる多数の仕事に手を出しているが…、勉強はしない。勉強しなければ、役に立つことはできない。

勉強も職業上の形成も、何であれ、私たちの間では重大な義務である。

  現代の使徒にとって、一時間の勉強は一時間の祈りである。

  知性を使って神に仕えるべきであるなら、勉強することはあなたの重大な義務である。

  あなたはしばしば秘跡にあずかり、祈りをし、貞潔である…。ところが勉強はしない。自分は立派な人間だなどと言わないでほしい。あなたは〈お人好し〉であるに過ぎないのだから。

  昔は、人間の知識―学問―が極めて限られていたから、きっと、賢い人が独りで、私たちの聖なる信仰を弁護し、護教を実現することも、容易かったのであろう。

今日、近代の学問は広範囲にわたる深い知識を擁するようになったので、護教に携わる人々は、あらゆる分野で学問的に教会を弁護するため、仕事を分担する必要がある。

あなたが…この義務を無視することは許されない。

  書物。本を買うときは、博学で分別のあるキリスト者に相談しなさい。無益な本や有害な本を買ってしまうかもしれないからである。

 脇に書物を抱えていると思っているが、実はごみをいっぱい抱えている人のなんと多いことか。

  勉強しなさい。本気で粘り強く勉強しなさい。あなたが塩であり光であるべきなら、知識と適性が必要だからである。

それともあなたは、呑気で気楽な生活をしていれば知識は授けられるとでも思っているのだろうか。

  そこまで精を出して勉学に励むのはよいことである。ただし、常に、同じように精を出して内的生活に励むなら。

  教える前に自ら実行すべきことを忘れてはならない。「行い、また教え始め」たと、聖書はイエス・キリストについて書いている。

第一に〈行い〉であった。あなたと私がイエスに倣って、まず行うためである。

  働きなさい。あなたが、専門とする仕事に、責任を持って没頭するなら、その時、霊魂の生活はよくなるだろう。そして、もっと雄々しくなるに違いない。あなたを消耗させてしまう〈お喋り癖〉を捨てることになるからである。

  教育者。あなたは、生徒に現世の知識を獲得させるため、最良の教授法に通じ、それを実践しようと、真剣な努力を傾けている。ところで、生徒とあなたがより善い人間になれる唯一の方法であるキリスト教的修徳を知り、そして実践していくためにも、真剣な努力を傾けなさい。

  教養、教養、結構なことである。教養を望み、教養を身につける点では誰にも引けを取らないようにしなさい。

ところで、教養は手段であって、目的ではない。

  学生。堅固で積極的な信仰生活を育て、勉学においては傑出するよう努力しなさい。仕事を通して行う使徒職に対する確たる熱意を持ちなさい。あなたが宗教的、学問的形成をしっかりと身につけるなら、広範囲で速やかな発展が実現すると私は約束しよう。

  教養を築き上げることだけに心を砕いているが、築き上げなければならないのは霊魂である。そうすれば、当然のこと、キリストのために働くだろう。ところで、世界中でキリストの支配を実現するためには、天を見つめながらあらゆる活動に専念して評判を上げ、その活動を基にして、職業を通して行う使徒職を黙々と―そして効果的に―行う人々が必要である。

  あなたの怠慢、投げ遣り、物臭は、良心がたえず告げるように、臆病であり安楽である。いずれも〈あなたが歩むべき道〉ではない。

  正当な意見をはっきりと主張したのなら、聞き手が悪意から躓いたとしても心配するには及ばない。それはファリサイ的な躓きだから。

あなたが良いキリスト者というだけでなく、学識のある人だとしても、それだけでは充分でない。その粗野な性格を改めなければ、熱意と学問を礼儀作法と共に備えていなければ、あなたが聖人になれるとは思えない。もし、あなたが学識のある人だというなら、たとえ実際そうであっても、ラバのように家畜小屋に繋がれているべきだろう。

  そんなに偉ぶるから、不愉快で嫌な人だと毛嫌いされ、物笑いの種になる。さらに悪いことは、使徒としてのあなたの仕事は効果を上げなくなる。

〈凡庸な人間〉であっても、知ったかぶりができることを忘れないでおこう。

  経験がないからこそ、自惚れや虚栄に陥り、いっぱしの人間だと錯覚するのである。

どうか、改めてほしい。どんな愚か者でも指導的な地位につくことができる(一度ならず目にしたことである)。あなたが才能のないことを納得していなければ、賢慮の賜物を有する人にも耳を貸さなくなるだろう。そして、あなたの誤った統治がもたらす害を考えると怖くなる。

  無教派主義。中立主義。常に新しい仮面をかぶって現れる古い神話である。

大学や同業組合、学術会議、国会議事堂に入るとき、入口で帽子を預けるように、カトリック信者としての身分を預けてしまうことが、いかに馬鹿げたことであるか、考えてみたことがあるだろうか。

  頼むから、時間を活用しなさい。呪われた無花果のことを忘れないようにしなさい。あの無花果とて何もしなかったわけではない。葉を生い茂らせていた。あなたと同じ…である。

わけがあるなどと言わないでほしい。福音史家が語るように、主が実を求めて近づかれた時は、無花果の時期ではなかったが、理由にはならなかった。

あれ以来、永久に実らぬ木となったのだ。

  この世の商売に関わっている人たちなら、時は金なりと言う。私はそれどころではないと思う。人々の救いに関わる者にとって、時は〈栄光〉である。

  自分ではキリスト者であると言いながら、無益な怠け者の生活をするあなたが、私には理解できない。キリストの営んだ仕事の生活を忘れたのだろうか。

  あらゆる罪が怠惰の最初の一瞬を狙っているようだ、「怠惰そのものがすでに罪に違いない」と、あなたは言った。

キリストのために身を挺して働く人には、一瞬たりとも空いた時間などありえない。休息とは、何もしないことではなく、あまり努力を要しない活動で寛ぐことであるから。

  使徒の心を持つ人が、日々、無為に過ごしているなんて、理解できない。

  あなたの通常の職務に、超自然の意向を加えなさい。そうすれば、仕事を聖化したことになるだろう。

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