7

役目上いかに高い地位に就(つ)いていても同じですが、とにかく教会に属する人に欠点や惨めさが認められるからといって、教会とキリストに対する信仰が弱くなるという人がいるとすれば、そういう人はあまり成熟していないと言えるでしょう、教会を治めるのは、ペトロでもヨハネでもパウロでもなく、聖霊です。しかも、主は「世の終わりまでいつも」教会の傍にいると約束なさいました。

 この点で意見を同じくする聖トマスは、成聖の恩恵を与える手段でありしるしである秘跡にあずかることについて説明しています。「秘跡に近づく人は、確かに教会の聖務者(役務者)からそれを受ける。しかし、それが誰それだからという理由でなく、教会の聖務者であるという理由で受ける。それゆえ、教会によって秘跡の授与を認められた聖務者の授ける秘跡を受ける人は、ふさわしくない聖務者の罪にあずかることにはならず、教会と交わることになるのである」。主がお認めになるゆえ、人の弱さが表に現れたなら、母親が病に伏しているとか、薄情な仕打ちを受けた時のような反応をすべきでしょう。すなわち、もっと愛さなければならない、心の中でも行いにも、もっと愛情を示さなければならない、ということです。

 教会を愛する人なら、幾人かの教会の子らの惨めさを母なる教会の過失であるかのように、公に言い触らすような病的とも言える態度をとることはないでしょう。キリストの花嫁である教会が「我が過ちなり」と先唱する必要などありません。「我が過ちなり、我が過ちなり、我がいと大いなる過ちなり」と言うべきは、確かに私たち人間なのです。これこそ本当の意味で、自分の過ちを認める態度、個人的なメアクルピズムです。これなら、聖なる教会の中で人間が犯す過ちを大袈裟に言い立てて教会を攻撃することにはなりません。ところで、人間の過ちも、教会の根源的で構成要素となる聖性を破壊することはもちろん、それに触れることさえできません。

この点を別の言語で