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しかし今も昔も、個人的な聖性が人目を引くことはありません。往々にして、私たちと一緒に働き、共に生活している平凡で聖なる人々には気づかないのです。現世的な目で見る限り、忠実に反することや罪しか目につきません。一般に、人目を引くのはこういう事柄なのです。

 惨めさだらけの人間が構成する「聖なる国民」。この一見矛盾と思えることが、教会の秘義の一面です。教会とは、神的であると同時に人間的なものです。それは人間が構成するものですが、「人間は皆、土くれと灰にすぎない」と言うように、その人間が欠点だらけであるからです。

 聖なる教会を創設された私たちの主イエス・キリストは、その構成員が聖性を求めて絶えず励むようお望みです。しかし、皆がこの呼びかけに忠実に応えているとは言えません。キリストの花嫁を見ると、救いの道の素晴らしさと共に、その道を歩む人々の惨めさに気づきます。「贖い主は、自ら創設された団体があらゆる法的または社会的要素を持った、一つの完全社会であることを望まれたのも、人を贖う救いの業を地上に永続せしめるためです。もし教会において人間性の弱さを示す何ものかが時々現れるとしても、その責任は教会の法的構成に帰せられるべきでなく、むしろ個々の人間の中にある悔やむべき悪への傾向に帰すべきです。主イエスが、その神秘体の最も尊い人々の悪への傾きでさえ忍ばれるのは、牧者と羊との双方の徳を試みるためであり、またすべての人々の中にキリストヘの信仰のいさおしを増すものに他ならないからです」。

 これが地上の教会の現実の姿ですから、キリストの花嫁が聖であるということと、教会の中に欠点を持った人間がいるということとが、両立し得るのです。「キリストは、罪人が教会から退けられることをお望みにならなかったからです。それゆえ、もし信者のひとりが霊的な病に罹っているとしても、そのことは教会に対する私たちの愛を減ずることにはならないのであり、むしろかえって、教会の肢体に対する同情を強める理由になることでしょう」。

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