49永遠に司祭 聖なるミサをたてるとき、このようにキリストとひとつになって、礼拝と償い、祈願、感謝を捧げ、祭壇上の犠牲をキリスト者の生活の中心および根源とするよう人々に教える司祭なら、永遠に失うことのない印章で封印された召し出しの比類ない偉大さを示すことになります。 このような司祭がいる一方で、神の奉仕者(役務者)になることが何か恥しいことであるかのように振る舞う司祭の態度は、人間的にもキリスト教的にも間違っていると考えるべきでしょう。私がこう言っても、皆さんは分かってくださるでしょう。不幸なことです。なぜなら、聖職を捨て、信徒の真似をし、徐々に本来の召し出しと使命を脇に置き、二つ目の仕事を探し求めるようになるからです。人々の霊的な世話をする仕事から逃げると、往々にして社会活動や政治活動など信徒に固有な分野に介入するようになり、果ては、司祭の真の使命が歪められた状態、つまり聖職者主義に陥ってしまいます。 この点を別の言語で 選択するEspañol (原文)CatalàDeutschEnglishFrançaisItalianoLietuviškaiNederlandsPolskiPortuguêsРусский简体中文繁體中文…から印刷された文書 https://escriva.org/ja/amar-a-la-iglesia/49/ (2024/04/26)