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カルワリオの犠牲はキリストの寛大さが無限であることを示す証しです。私たち一人ひとりはいつも打算的です。しかし、私たちが必要とすることを聖なるミサの中で悉くみ前に申し出ても、主なる神は気になさいません。主よ、この病を、主よ、この悲しみを、主よ、御身への愛を示すためと思いつつも忍ぶことのできないあの辱めを、というように、誰にも願うべきことがあるでしょう。家族には、良いこと、幸せ、喜びを望んでいます。食物と正義に飢え渇く人々の不運、孤独を味わっている人々、晩年になって愛情や世話を受けることのできない人々を見ると心が痛みます。

 しかし、私たちの苦しみのもとであるたいへん惨めな状態、手段を講ずるべき緊急事態といえば、それは罪であり、神からの離反、人々が永遠に滅びる危険です。神の愛のうちに人々を永遠の栄光に導くこと、これこそ、キリストがカルワリオで生命を捧げられた時と同じく、ミサをたてるに当たり、私たちが根本的に望む事柄なのです。

 罪なき犠牲であるキリストが司祭の手においでになるとき、このようなことを誠実に話すことにしましょう。主は必ず助けてくださると信頼しているなら、濃やかな心で、苦しむ人や、すぐに悲しみに変わってしまうのも知らず、空虚な満足を装っている人に対して、常に良い行いと愛、理解と優しさを示すことができるでしょう。

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