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「キリストは、このように偉大な業 ― 贖い ― を成就するために常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。『かつて十字架上で自身を捧げた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として』、司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存している」。叙階の秘跡によって、実際に司祭は声と手と自分の全存在を主に貸すことになります。聖なるミサ中、聖変化の言葉でパンとぶどう酒の実体をキリストの御体と御霊魂、御血、神性に変えるのは、イエス・キリストです。

 これこそ、他の追随を許さない司祭の尊厳のもとです。私の卑小さが借り物の尊厳と共存しているのです。すべての司祭が聖なる事柄を聖なる仕方で実現するため、また、私たち司祭が自らの生活に主の偉大さを反映させるための恩恵をお与えくださるよう、主にお願いしています。「主の受難の秘義を祝う私たちは、自分が祝うことを真似なければならない。私たち自身がホスチアとなれば、そのホスチアが神のみ前で私たちの場を占めてくれるだろう」。

 万一、見たところ福音に従った生活をしていないと思える司祭に出会っても、裁かないでください。お裁きになるのは神ですから。そしてその司祭も、聖変化させる意向のもとに有効なミサをたてれば、相応しくなくてもその手に主がおいでになることを知っておいてください。ベツレヘムやカルワリオさえ及ばない、これほどの奉献と自己放棄を考えることができるでしょうか。なぜなら、イエス・キリストは人々の贖いを切望するあまり、締め付けられるような思いをしておられるからです。呼ばれなかったという人が一人もいないようにとお望みですし、主を探し求めていない人には偶然に出会ったようになさるからです。

 愛、これしか説明のしようがありません。キリストの愛を言葉で言い表すことなどできないのです。傷ついた聖心の鼓動に気づくかもしれないたった一人のためであっても、主はその可能性を与えるために、すべてにおいて身を低くして近づき、すべてを認め、汚聖にも冒涜にも大勢の無関心の冷淡にも、身をさらされます。

 キリストが勝ち得てくださった救いの恩恵を、人々に日々直接伝える道具になる、これこそ司祭の独自性です。このことが理解できれば、祈りの活動的な沈黙の中でこの点を黙想するなら、司祭職を、何かを放棄することだと考えるようなことはできないはずです。計算などできない利益です。私たちの母である聖マリア、被造物の中で最も聖なる御方、神に次ぐ御方はこの世に一度だけ主をもたらせました。ところで、司祭は私たちの世界と体と霊魂のもとへ毎日キリストをもたらし、そしてキリストは、私たちに糧を与え、元気づけ、永遠の生命の保証をすでに今から与えるために来てくださいます。

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