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司祭と信徒

その驚きは理解できますが、その思いに賛成すると言えば、私が正直でないことになります。「そうしたいから」自らすすんでという、最も超自然的な理由で司祭職に入るこの人たちは、普通に用いられる放棄という意味で専門職を放棄するのではないことをよく知っています。オプス・デイヘの召し出し、神的な十全たる召し出しを受け、すでに以前から教会と人々のために役に立つよう奉仕してきた人たちです。目常生活を聖化し、その仕事の中で自らを聖化し、専門職を機会として活用することによって人々の聖化に努力してきたからです。

 すべてのキリスト信者と同様、オプス・デイのメンバーは、司祭も、そして常に普通のキリスト者である信徒も、聖ペトロの次の言葉の対象になります。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」。

 キリスト信者としての身分は、司祭の場合も信徒の場合も、唯一であり同じです。主なる神はすべての人を愛徳の充満、つまり聖性へと召されたからです。「主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。

 二流の聖性などあり得ません。神の恩恵の内にあって、模範であるキリストに一致するか、あるいはこの神的といえる戦いを捨ててしまうか、いずれかしかないのです。主はすべての人がそれぞれの身分で自己を聖化するよう招いておられます。一人ひとりの失敗や惨めさは無くならないにしても、オプス・デイにおいてこの聖性への熱意は司祭の場合も信徒の場合も同じです。さらに、司祭の数は属人区の信者の中でほんの僅かに過ぎません。

 信仰の目で見れば、司祭職に就くということは何かを放棄することではありません。また、司祭になることはオプス・デイの召し出しの完成でもありません。聖性とは、独身か既婚か司祭かというような身分とは関係なく、個人的に恩恵に応えるか否かの問題なのです。そして、闇の行いを打ち捨てて、落ち着きと平安、すべての人のために犠牲を払い、喜びに溢れて仕えることなど、光の武器を身に着けることができるよう、恩恵は誰にでも与えられているのです。

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