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神から離れて盲目になった結果、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と言うように、キリストが創立された教会とは似ても似つかない教会像を作り出します。祭壇上の聖なる秘跡、カルワリオの犠牲の更新までもが冒涜され、いわゆる人間同士の交わりの象徴に変えられています。万一、主が私たちのために聖なる御血の最後の一滴までも流してくださらなかったならば、いったい人間はどうなっていたことでしょう。聖櫃内のキリストの現存という絶え間ない奇跡を軽んじることなど、どうしてできるのでしょう。そこに残ってくださったのは、私たちが主と付き合うため、礼拝するため、将来の栄光の保証として、その足跡を辿る決心をするためです。

 今は試みの時ですから、「喉をからして(び)」、主にお願いしなければなりません。この試みの時を短くしてください、慈しみの目で教会をご覧ください、牧者とすべての信者の心に再び超自然の光をお恵みください、と。教会が人々を喜ばせることに腐心すべき理由はありません。人間は、個人としても共同体としても、永遠の救いを与えることなどできません。救いをもたらされるのは神なのです。

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