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試みの

 使徒のこの言葉がどの程度現実に起こったのか、私には分かりません。しかし、盲目でない限り、現にこの言葉通りに起こっていることはよく分かるはずです。神と教会の掟に関する教えは拒否され、至福直観の中身は政治的・社会的なキーワードで解釈され歪曲されて、謙虚で柔和で心の清い人間であろうとする者は、無知か、あるいは古色蒼然たる過去の支持者であるかのように扱われています。貞潔のくびきに耐えられないので、キリストが与えられた神の掟をあらゆる手を使って愚弄しています。

 これらすべてを含む兆候があります。つまり、教会の超自然の目的を変えてしまおうという試みです。正義(義)とは聖性の生活ではなく、キリスト教信仰とは相容れない、多少ともマルクス主義に染まった特定の政治闘争であると考える人がいます。解放とは、罪を避けるための個人的な戦いではなく、ただ人間的な課題と考えられているのです。このような考え方も高貴で正当であるとはいえ、ただ一つ必要なこと、すなわち一人ひとりの霊魂の救いをおろそかにするなら、キリスト信者にとって全く無意味なことになります。

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