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しかし、忘れてならないのは、自分の責任で良心を歪め、罪に凝り固まり、神の救いの業に抵抗することもあり得るということです。そこで必要になるのが、キリストの教えと信仰の真理、倫理道徳の基準を説くことであり、同時に必要なのが、恩恵を与えるための道具因として、ならびに堕落した私たちの本性に付きまと惨めさに対する薬として、キリストが定められた秘跡なのです。さらにその結果、悔俊(告解、ゆるし)の秘跡と聖体の秘跡を頻繁に受けるのが望ましいということになります。

 というわけで、教会に属するすべての人、中でも牧者の大変重い責任が聖パウロの次の言葉に具体化されています。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」。

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