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ところで、教会とは何でしょうか。教会とはどこにあるのでしょうか。方向を見失い困惑した大勢のキリスト者はこれらの質問に対して確実な答えを得ることができないので、教導職が幾世紀にもわたって公式に表明し、優れたカトリック要理がまことに単純明解に説明してきた事柄〈過ぎ去ったもの〉を新しい説明に替えなければならないと考えるかもしれません。一連の出来事や困難が寄り集まって、教会の清楚な顔に影を落としています。教会は、ここ、いわゆる〈現代〉に適合させる努力にこそ存在する、と言う人もいれば、人間の連帯志向に過ぎないから現在の状況に合わせなければならない、と言う人もいます。

 いずれも間違った考えです。教会は今も、キリストが創設なさったものであって、他の何ものでもあり得ません。「使徒たちとその継者は、信仰と秘跡を土台とした教会を統治する神の代理者である。彼らが(キリストの教会とは異なる)他の教会を設立することが正当でないように、他の信仰を伝え、他の秘跡を制定することはできない。教会は、十字架に掛けられたキリストの脇から流れ出る秘跡によって建てられたのである」。真の教会を見分けるしるしは、初期の公会議の使徒信経に表明され、ミサの信仰宣言で告白する「一、聖、公、使徒継承」です。この四つは、キリストの望まれた教会の本質から出たもので、教会の本質的特徴と言われます。それは本質を示すものですから、同じキリストの御名を呼ぶとはいえ、人間的な制度に過ぎない他のものと区別するしるしとなります。

 一世紀ほど前に教皇ピオ九世は、この伝統的な教えを簡潔に要約されました。「イエス・キリストの真の教会は、神が与えた四つの特徴によって見分けられる。この特徴を私たちは信経の中で信ずべきこととして唱えるが、四つは互いに結ばれていて、一つひとつを別々にすることはできない。従って、真にカトリックであり、カトリックと呼ばれる教会は、同時に、唯一、聖、使徒継承の特権が輝いていなければならない」。最近、この伝統的な教えは、偽りのエキュメニズムに走る人たちに忘れられていますが、第二バチカン公会議が改めて繰り返したものです。「これが唯一のカトリック教会である。私たちは信経の中で、この教会を唯一、聖、公(カトリック)、使徒継承と宣言する。私たちの救い主は復活の後、この教会を牧するようペトロに渡し、それを治めるようペトロと他の使徒たちに委ね、それを『真理の柱と基礎』として永久に立てた」。

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