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私たちは今、一、聖、公(カトリック)、使徒継承の教会の秘義について黙想しています。自らに問いかけてみましよう。キリストと同じように、人々の救いを熱望しているでしょうか。私には代わってもらうことのできない特定の使命があり、それを教会の中で果たすべきだが、その教会のために祈っているだろうか。教会に属しているということ自体素晴らしいが、それだけでは充分ではありません。私たち自身が教会になりきらなければならないのです。母なる教会は、私たち自身の思いや考えとは異質で無縁で外部的なものではないからです。

 教会の特徴に関する考察はこの辺で終わりましょう。教会は、恩恵の生活を与え、日々の尽きない心遣いで私たちを養ってくれますが、その母なる教会をもっと愛するという明確で確実な神的基準は、主の助けを受けて、心に刻み付けられ、確信となったことでしょう。

 万一、教会を侮辱するような言葉や叫びを耳にした時には、愛徳に溢れた謙遜な心で、その無情な人たちに言ってあげなければなりません。こんなに素晴らしい母親を酷く扱ってはならない、と。今、教会は、罰を受けないのをいいことに平気で攻撃する人々の標的になっています。この国は、師にして創立者である御方の王国であって、この世のものではないからです。「藁の間で麦が呻き、毒麦の間で穂が溜息をつき、怒りの器の間で慈しみの器が嘆き悲しみ、茨の間で百合が涙を流している間、敵は言い続けることだろう。いつ、その名が死して滅びるのだろう、キリスト信者が姿を消し、誰一人いなくなるのはいつのことだろうか、と。しかし、そういう彼らこそ必ず死んでしまう。そして、教会は存在し続ける」。

 何が起ころうとも、キリストがご自分の花嫁を見捨てられることはありません。凱旋の教会はすでに御父の右に座す御方の傍にあります。すでにそこに居るキリスト信者・私たちの兄弟は、澄みきってはいても薄暗い信仰という光の中で(この世に生きる)私たちが見ている一、聖、公(カトリック)、使徒継承の教会を眺め、神を賛美しつつ、私たちを招いているのです。

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