15

教会には色々な種類の役務がありますが、その目的は一つ、つまり人々の聖化です。そしてこの聖化の仕事には、洗礼と堅信の秘跡で受けた印章によって、すべての信者が何らかの形で参加します。私たち全員がキリストの使命であるこの教会の使命に対して責任を感じていなければなりません。人々の救いを熱心に望まない人、キリストのみ名と教えが知られ愛されるように全力を挙げて努力しない人は、教会の使徒継承という特徴を理解できないでしょう。

 何もしないキリスト者は、キリストが私たちに期待しておられることが分からずじまいと言えます。自分のことだけを考えて、人々の救いについては何も考えないキリスト者は、イエスの聖心で人々を愛しているとは言えないのです。使徒職とは、位階制に属する人や司祭や修道者だけの使命ではありません。すべての人は、模範と言葉で、永遠の生命に至るこの恩恵の流れを伝える道具になるよう、主の招きを受けています。

 使徒言行録を読む度に、キリストの弟子たちの大胆さ、使命に対する信頼、犠牲をものともしない喜びを知って感動します。人々を十把一絡げに扱ったりしません。大勢の人がやって来ても、使徒たちは個別に一人ひとりに接します。フィリポはエチオピア人に、ペトロは百夫長コルネリオに、パウロはセルジオ・パウロにという風に。

 彼らはこういうやり方を先生であるキリストから学びました。村の広場で仕事を待っている労働者の喩え話を思い出してください。そろそろ夕暮となり、ぶどう畑の主人が出かけてみると、未だに手持無沙汰で立っている日雇い労働者を見つけました。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と聞くと「だれも雇ってくれないのです」と答えました。こんなことはキリスト信者の生活にあってはなりません。誰も話してくれなかったのでキリストについて何も聞いたことのない人が、信者の周りに居るようなことがあってはならないのです。

 人々はしばしば神を度外視しても構わないと考えていますが、騙されています。自分では気づいていないが、ベザタの池の回廊に横たわっていた中風の人と同様、救いの力を持つ水、心に喜びを与える教えに近づくことができないのです。このように「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」、手を貸してくれる人がいないのです、と言う人のいる事実は、多くの場合、キリスト信者の責任です。すべてのキリスト信者は使徒でなければなりません。神は実際には誰をも必要とされませんが、それにも拘わらず、私たちを必要としてくださいます。救いをもたらす教えを広げるために、主は私たちの働きを頼りにしてくださるのです。

この点を別の言語で