永遠の司祭

1973年4月13日


数日前のことです。ミサをたてるにあたり、しばし聖体拝領の詩編の言葉を考えていました。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。これを祈ると、むかし剃髪式(ていはつしき)で唱えられていたもう一つの詩編の言葉を思い出します。「主はわたしの運命を支える方」。キリストが司祭の手にご自分をお任せになり、司祭は「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」となります。

 この夏には五十人余りのオプス・デイ属人区の信者が聖なる叙階の秘跡を受けます。一九四四年以来ずっと恩恵の働き、そして教会への奉仕を示す現実として、毎年僅かずつ司祭が誕生しています。それにも拘わらず、毎年思議に思う人がいます。どうして司祭になる決心をするのでしょうか、と。今日はいくつかの考察を示すつもりですが、ひょっとすると、不思議に思っている人たちの困惑をもっと増すことになるかもしれません。

なぜ、司祭になるのか

 聖なる叙階の秘跡を受けるこれらオプス・デイの少数のメンバーは、すべて医師や弁護士、技師、建築家、あるいはその他の専門職に就いていて、長期にわたる貴重な経験の持ち主で、社会にあっては自分の仕事の実りとして多少とも重要な地位が期待できる人々です。

 叙階の秘跡を受けるのは仕えるためです。命令するためでも自分が輝いて良い格好をするためでもなく、すべての人に役立つよう、絶えず崇高に黙々と自らを捧げるためです。それまで自分が携わってきて精通した仕事があり、その中で生涯失うことのない社会人としての考え方を身に着けていたとしても、司祭になってからは、信徒が従事する仕事や職業を真似たいという誘惑には決して負けないことでしょう。

 歴史や自然科学、心理学、法学、社会学など、あらゆる分野の人間的な知識の専門家であり、それは必然的に社会人としてのものの見方の形成に資するでしょうが、それにも拘わらず司祭心理学者や司祭生物学者、司祭社会学者として自らを提示することはありません。彼らが叙階の秘跡を受けたのは、まさしく司祭、百パーセント司祭になるためなのです。

彼らが、かなりの信徒よりもさらに深く、現世的あるいは人間的な事柄を理解している公算は大です。しかし、聖職者になってからは、これらの分野での資格や能力については喜んで沈黙を守り、絶えざる祈りに強められて、神についてのみ話し、福音を説き、秘跡を授けます。こういう言い方ができるとすれば、これこそ彼ら司祭にとっての新しい専門職であり、いつも時間は不足がちとは言え、毎日毎日それに没頭します。絶えず神についての知識を深め、霊的に人々を導き、告白を聞き、常に教えを説かなければならないからです。さらに、人間である限り必ず経験する種々の困難をものともせず、素晴らしい献身を喜んで実行し、彼らをご自分のものとするために選ばれた主が実際に現存なさる聖櫃を常に思いつつ、たくさん祈らなければならないからです。

 先に申し上げたように、このような考察はかえって驚きを増すだけかもしれません。疑問を持ち続ける人もいることでしょう。どうしてたくさんのこと、公正なこと、大なり小なり卓越した専門職を捨てないで、文化や教育や経済、その他あらゆる分野で社会にいながら、自らの模範でキリスト教的な影響を与え続けないのだろうか、と。

 また、今日多くの所で司祭像について著しい混乱が見られ、司祭とは何者か、司祭の本質とは何かを探求しなければならないと無駄口を叩く人や、現在の社会で司祭職において神にすべてを捧げることの意義を疑問視する人がいることは、ご存じでしょう。あるいはまた、司祭への召し出しの少ない時代に、努力の甲斐あって社会での就職や仕事の問題を解決したキリスト信者の内から、司祭になる人が出てくることに驚きを感じる向きもあるでしょう。

司祭と信徒

その驚きは理解できますが、その思いに賛成すると言えば、私が正直でないことになります。「そうしたいから」自らすすんでという、最も超自然的な理由で司祭職に入るこの人たちは、普通に用いられる放棄という意味で専門職を放棄するのではないことをよく知っています。オプス・デイヘの召し出し、神的な十全たる召し出しを受け、すでに以前から教会と人々のために役に立つよう奉仕してきた人たちです。目常生活を聖化し、その仕事の中で自らを聖化し、専門職を機会として活用することによって人々の聖化に努力してきたからです。

 すべてのキリスト信者と同様、オプス・デイのメンバーは、司祭も、そして常に普通のキリスト者である信徒も、聖ペトロの次の言葉の対象になります。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」。

 キリスト信者としての身分は、司祭の場合も信徒の場合も、唯一であり同じです。主なる神はすべての人を愛徳の充満、つまり聖性へと召されたからです。「主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。

 二流の聖性などあり得ません。神の恩恵の内にあって、模範であるキリストに一致するか、あるいはこの神的といえる戦いを捨ててしまうか、いずれかしかないのです。主はすべての人がそれぞれの身分で自己を聖化するよう招いておられます。一人ひとりの失敗や惨めさは無くならないにしても、オプス・デイにおいてこの聖性への熱意は司祭の場合も信徒の場合も同じです。さらに、司祭の数は属人区の信者の中でほんの僅かに過ぎません。

 信仰の目で見れば、司祭職に就くということは何かを放棄することではありません。また、司祭になることはオプス・デイの召し出しの完成でもありません。聖性とは、独身か既婚か司祭かというような身分とは関係なく、個人的に恩恵に応えるか否かの問題なのです。そして、闇の行いを打ち捨てて、落ち着きと平安、すべての人のために犠牲を払い、喜びに溢れて仕えることなど、光の武器を身に着けることができるよう、恩恵は誰にでも与えられているのです。

司祭職の尊さ

 司祭職とは、それ自体、他の人たちと比べてより良い身分でも、より悪い身分でもありません。それは人々と本質的に異なった身分を受けて神に仕えるということです。しかし司祭の召し出しは、この地上で並ぶものがないほどの尊厳と偉大さとを持っています。シエナの聖カタリナは、次の言葉がイエス・キリストの口から出たと記しています。「司祭に対する敬いの心が少なくならないよう望む。司祭に対する敬意や尊敬は彼らのためではなく、それを司るよう彼らに与えた血ゆえに、わたしに対して示されるものである。もしそうでなければ、司祭に対する敬いは、他の信者に対するのと同じでなければならず、それ以上ではあり得ない。(…)司祭を侮辱してはならない。司祭を侮辱する者は、わたしを侮辱することになる。それゆえ、わたしはそれを禁止し、わたしのキリストたち、つまりわたしの注油されたものに触れるなと言ったのである」7。

 いわゆる司祭の独自性や本質を懸命になって探し求める人がいます。聖カタリナの言葉で明らかではありませんか。司祭の独自性とは何でしょうか。キリストの独自性のことです。キリスト信者はすべて、もう一人のキリストではなく、キリスト自身になるべきです。ところで司祭の場合には、これが秘跡のかたちで直接に与えられています。

「キリストは、このように偉大な業 ― 贖い ― を成就するために常に自分の教会と共に、特に典礼行為に現存している。キリストはミサの犠牲のうちに現存している。『かつて十字架上で自身を捧げた同じキリストが、今、司祭の奉仕によって奉献者として』、司祭のうちに現存するとともに、また特に、聖体の両形態のもとに現存している」。叙階の秘跡によって、実際に司祭は声と手と自分の全存在を主に貸すことになります。聖なるミサ中、聖変化の言葉でパンとぶどう酒の実体をキリストの御体と御霊魂、御血、神性に変えるのは、イエス・キリストです。

 これこそ、他の追随を許さない司祭の尊厳のもとです。私の卑小さが借り物の尊厳と共存しているのです。すべての司祭が聖なる事柄を聖なる仕方で実現するため、また、私たち司祭が自らの生活に主の偉大さを反映させるための恩恵をお与えくださるよう、主にお願いしています。「主の受難の秘義を祝う私たちは、自分が祝うことを真似なければならない。私たち自身がホスチアとなれば、そのホスチアが神のみ前で私たちの場を占めてくれるだろう」。

 万一、見たところ福音に従った生活をしていないと思える司祭に出会っても、裁かないでください。お裁きになるのは神ですから。そしてその司祭も、聖変化させる意向のもとに有効なミサをたてれば、相応しくなくてもその手に主がおいでになることを知っておいてください。ベツレヘムやカルワリオさえ及ばない、これほどの奉献と自己放棄を考えることができるでしょうか。なぜなら、イエス・キリストは人々の贖いを切望するあまり、締め付けられるような思いをしておられるからです。呼ばれなかったという人が一人もいないようにとお望みですし、主を探し求めていない人には偶然に出会ったようになさるからです。

 愛、これしか説明のしようがありません。キリストの愛を言葉で言い表すことなどできないのです。傷ついた聖心の鼓動に気づくかもしれないたった一人のためであっても、主はその可能性を与えるために、すべてにおいて身を低くして近づき、すべてを認め、汚聖にも冒涜にも大勢の無関心の冷淡にも、身をさらされます。

 キリストが勝ち得てくださった救いの恩恵を、人々に日々直接伝える道具になる、これこそ司祭の独自性です。このことが理解できれば、祈りの活動的な沈黙の中でこの点を黙想するなら、司祭職を、何かを放棄することだと考えるようなことはできないはずです。計算などできない利益です。私たちの母である聖マリア、被造物の中で最も聖なる御方、神に次ぐ御方はこの世に一度だけ主をもたらせました。ところで、司祭は私たちの世界と体と霊魂のもとへ毎日キリストをもたらし、そしてキリストは、私たちに糧を与え、元気づけ、永遠の生命の保証をすでに今から与えるために来てくださいます。

共通の司祭職と職位的司祭職

 司祭は、人間としてもキリスト者としても、他の信者以上の存在ではありません。それゆえ、司祭は深い謙遜を育むべきであり、聖パウロの言葉が特に当てはまるのは自分であることを理解すべきです。「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」。受けたもの、それは神です。受けたものとは、司祭叙階の目的である聖なるミサ・聖体の秘跡を捧げる力であり、さらに、罪を赦し、他の秘跡を司り、権威をもって神の言葉を説き、天の国に関する事柄について他の信者を導くことです。

「司祭の司祭職はキリスト教入信の諸秘跡を前提とするが、別個の秘跡によって授与される。この秘跡は、聖霊の塗油によって特別な霊印(印章)を司祭にしるし、こうして、司祭は頭であるキリストのペルソナにおいて行動できるように、司祭キリストに似たものとなる」。教会とは、人間の気紛れによってではなく、創立者であるキリストの明白なみ旨によって、こういうものなのです。「犠牲と司祭職とは神の計画によって結ばれており、旧約と新約の両時代に常に存在した。新約において、カトリック教会は主の制定によって聖体の可見的犠牲が与えられたのであるから、その教会に新しい可見的、外的司祭職があることを認めなければならない。こうして旧約の司祭職はこの新しい司祭職に代わったのである」。

 司祭叙階を受けた人の場合、すべての信者に共通の司祭職に職位的司祭職が加えられます。従って、司祭が他の信者よりもっと信者であるといえば間違いですが、司祭が他の信者よりもっと司祭であるとは言えます。司祭は他のすべての信者と同じように、キリストが贖われた司祭的な民に属しているだけでなく、職位的司祭職の霊印(印章・カラクテル)をも押されており、これを信者の共通の司祭職と比べると、「段階においてだけでなく、本質において異なる」ということになります。

私が理解に苦しむのは、司祭とその他の信者との間に異なる点を無視して両方が全く同じであるように考えたり言ったりして、せっかくそのために叙階されておきながら、教会内で自らに固有な使命を忘れたり、ないがしろにしたりする司祭のいることです。キリスト信者は司祭のうちにもう一人の人間を見たがっていると彼らは考えます。しかし、本当はそうではありません。人々が司祭のうちに見たいと思い、また、感嘆するのは、キリスト信者としての徳であり、あるいは少なくとも高潔な人としての徳です。例えば、理解や正義、仕事(司祭の場合は司祭職)、愛徳と教養、心遣いの行き届いた付き合いなど。

 しかし、これに加えて信者は、司祭としての特徴が際立っていることも司祭に期待しています。つまり、よく祈り、秘跡を拒まず、どのような事柄であれ人間的党派のボスや闘士にならず、すべての人を受け入れる司祭を期待しています。また、愛と信心をもって聖なるミサをたて、告白場に坐り、病に伏す人や苦しむ人を慰め、子供にも大人にも要理を教え、たとえ熟知していることであっても、救いをもたらさず永遠の生命に導かない人間的な知識は教えず、神の言葉を説き、困っている人に勧めと愛を与える用意のある司祭を期待しているのです。

一言でいうと、司祭に要求されているのは、特に、御体と御血の犠牲を捧げるときと、ゆるしの秘跡を通して神の名において罪を赦すときに、自分のうちに現存されるキリストの邪魔をしないことです。この二つの秘跡の授与は司祭の使命のうち最も大切なことで、他のことは付随的であると言えます。説教や信仰教育といったその他の司祭の仕事も、キリストに接するよう教え、ゆるしの秘跡という愛の法廷と聖なるミサの中で再現されるカルワリオの無血の犠牲において、キリストとの出会いへと導かなければ、その根拠がないということになります。

 もうしばらく聖なる犠牲についての考えを続けさせてください。ミサが私たちにとってキリスト教的生活の中心であり根源であるなら、司祭の生活にとっては特にそうあるべきです。司祭が自分の落度で毎日のミサをたてずにいるとすれば、あまり神を愛していないと言われても仕方ないでしょう。万一、そうであればキリストの贖いの熱意を自分のものとせず、霊魂の糧として食物となり、無防備で自らを渡された主の焦慮を理解できず、かえってキリストを非難することになるでしょう。

司祭は聖なるミサのため

 しつこく繰り返しますが、ぜひ思い出してください。聖なるミサをたてるときの司祭は、罪人であっても、ただの人間ではありません。その時、私たちはカルワリオの神的な犠牲を祭壇上で更新するキリストです。「司祭たちがその主要な任務を果たす聖体の犠牲の秘義において、我々の贖いの業が実現する。そのため、この祭儀を日々挙行することが強く勧められる、日々の祭儀挙行に信者が参列できなくても、それはキリストの行為であり、教会の行為である」。

 トリエント公会議の教えを見ましょう。「ミサにおいて行われる神的な犠牲の中に、十字架の祭壇上で血を流して自分自身を捧げたその同じキリストが現存し、血を流さずに自分自身を捧げている。(…)事実、捧げものは同一である。あのとき自分を十字架の上で捧げたキリストが、いま司祭の役務を通して捧げているからである。違うのは捧げ方だけである」。

 信者が聖なるミサに参加していても、していなくても、この真理に変わりはありません。私は人々に囲まれて聖体祭儀をとり行うとき、自分が集会の座長であってもなくても、嬉しく思います。私は一方では他の人と同じ一信者ですが、他方では何にもまして祭壇上のキリストです。私は、血を流さずにカルワリオの神的な犠牲を更新し、キリストのペルソナにおいて聖変化を実現させ、本当の意味でのキリストの代理者となります。私の体と声と手、さらに何度も汚れ、主の清めを願う私の哀れな心を主にお貸しするからです。

 一人の侍者と聖なるミサをたてるときも、そこには民全体が居ます。私の傍にすべてのカトリック信者とすべてのキリスト者、さらに神を信じない人々が居るのを感じています。天も地も海も、動物も植物も、神のすべての被造物がそこに居て、全被造物が主に光栄を帰しているのです。

第二バチカン公会議の言葉を借りて申し上げますが、(聖体祭儀を行うとき)私たちは特に天上の教会の礼拝に最もよく結ばれています。第一に栄えある終生処女聖マリア、さらに聖ヨセフ、聖なる使徒、殉教者、諸聖人との交わりに結ばれ、彼らを記念し敬います。

 すべてのキリスト信者にお願いします。私たち司祭が聖なる犠牲を聖なる仕方で実現させることができるよう祈ってください。聖なるミサに濃やかな愛を示してください。司祭が皆さんの愛に動かされ、人間的超自然的な尊厳をもって優雅に、手入れの行き届いた祭服と典礼用具や器具を使い、信心を込めて急がずにミサをたてることのできるように助けてください。

 なぜ急ぐのでしょうか。恋人たちは大急ぎで分かれますか。彼らは分かれそうで分かれない。何度も戻って来てはありふれた言葉を今発見したかのように繰り返します。高貴で清い人間の愛を例に出して、神に関する事柄に当てはめてもかまいません。私たちは他の心を持ち合わせていないので、人の心で主を愛するわけですが、そうであるなら、神とのこの出会い、この愛の約束を急いで終らせてよいはずがありません。

 悠々としている人も居ます。お知らせと連絡を疲れ果ててしまうくらい続けるのです。ところが、聖なるミサの本質的な部分、固有の意味での犠牲の時が来ると、大急ぎで走る。こうして信者たちが、司祭であり犠牲であるキリストを信心深く礼拝することも、私たちのもとに再び来てくださった主に、拝領後、ゆっくり慌てずに感謝することもできなくさせるのです。

 ミサは、キリスト信者の心のうちにある愛情や望みを表すための最良の流れとなります。すなわち、聖霊において、キリストを通って、御父へと至る流れです。皆がこれを知り、そう生きるよう助けるのは司祭の義務です。聖体を愛し、敬うよう教える仕事に優先させるような活動はあり得ません。

「司祭は二つの行為を行う。一つは真のキリストの体に対するもの、もう一つは二次的でキリストの神秘体に対するものである。第二の行為あるいは聖務は、第一のものに依存する。その逆ではない」。それゆえ、司祭の務めのうち最良のものは、すべてのカトリック信者が、より清く謙遜と敬いをもって聖なる犠牲にあずかるよう助けることです。司祭がこのように努力すれば、落胆することも、兄弟である信者たちを裏切ることもないでしょう。

 「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という、創造主に対する被造物の義務の第一は、聖なるミサの礼拝において愛を込めて果たされます。召使のような冷淡で外面的な礼拝ではなく、愛する子が示す尊敬と敬意です。

 聖なるミサでは、私たちとすべての人々の罪の償いをするため、また聖パウロと共に、キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たす21と言うための、最高の機会が与えられています。この世では、一人だけで生きている人はいません。原罪そして多くの自罪すべての結果として、この世で犯される悪にくみしていない人はいません。犠牲を愛し、償いを探しましょう。どのように? 聖なるミサにおいて司祭であり犠牲であるキリストに一致することによって。被造物と私とあなたの不忠実という押しつぶされんばかりの重荷を背負うのは常にキリストですから。

カルワリオの犠牲はキリストの寛大さが無限であることを示す証しです。私たち一人ひとりはいつも打算的です。しかし、私たちが必要とすることを聖なるミサの中で悉くみ前に申し出ても、主なる神は気になさいません。主よ、この病を、主よ、この悲しみを、主よ、御身への愛を示すためと思いつつも忍ぶことのできないあの辱めを、というように、誰にも願うべきことがあるでしょう。家族には、良いこと、幸せ、喜びを望んでいます。食物と正義に飢え渇く人々の不運、孤独を味わっている人々、晩年になって愛情や世話を受けることのできない人々を見ると心が痛みます。

 しかし、私たちの苦しみのもとであるたいへん惨めな状態、手段を講ずるべき緊急事態といえば、それは罪であり、神からの離反、人々が永遠に滅びる危険です。神の愛のうちに人々を永遠の栄光に導くこと、これこそ、キリストがカルワリオで生命を捧げられた時と同じく、ミサをたてるに当たり、私たちが根本的に望む事柄なのです。

 罪なき犠牲であるキリストが司祭の手においでになるとき、このようなことを誠実に話すことにしましょう。主は必ず助けてくださると信頼しているなら、濃やかな心で、苦しむ人や、すぐに悲しみに変わってしまうのも知らず、空虚な満足を装っている人に対して、常に良い行いと愛、理解と優しさを示すことができるでしょう。

最後に、主なる神がお与えになったことすべて、私たちのための主の素晴らしい献身に感謝しましょう。受肉されたみことばが私たちの心に来てくださいますように。天と地を造られた御方がちっぽけな私たちの内に入り込んでくださいますように。聖母マリアは胎内にキリストを宿らせるため、無原罪でお生まれになりました。賜物と功徳の間の相違が大きければ大きいほど、より一層深い感謝を示すべきであるのなら、私たちの日常の生活全体を絶え間ない感謝にすべきではないでしょうか。聖体を拝領してからすぐに教会を後にしないでください。ありがとうございますと申し上げるため、主に十分間も捧げることができないほど、あなたを待っていることは大切なのですか。さもしくはなりたくないものです。愛には愛をもって報わなければなりません。

永遠に司祭

 聖なるミサをたてるとき、このようにキリストとひとつになって、礼拝と償い、祈願、感謝を捧げ、祭壇上の犠牲をキリスト者の生活の中心および根源とするよう人々に教える司祭なら、永遠に失うことのない印章で封印された召し出しの比類ない偉大さを示すことになります。

 このような司祭がいる一方で、神の奉仕者(役務者)になることが何か恥しいことであるかのように振る舞う司祭の態度は、人間的にもキリスト教的にも間違っていると考えるべきでしょう。私がこう言っても、皆さんは分かってくださるでしょう。不幸なことです。なぜなら、聖職を捨て、信徒の真似をし、徐々に本来の召し出しと使命を脇に置き、二つ目の仕事を探し求めるようになるからです。人々の霊的な世話をする仕事から逃げると、往々にして社会活動や政治活動など信徒に固有な分野に介入するようになり、果ては、司祭の真の使命が歪められた状態、つまり聖職者主義に陥ってしまいます。

このような悲観的な響きを持つ暗い調子のままで終わりたくありません。神の教会から真のキリストの司祭職が消えてしまったわけではありません。神であるイエスがお教えになった事柄は不変です。教会の始めから存在している聖性と恩恵の宝を捨て去る誘惑に陥ることなく、黙々と恩恵に応えて働き続ける司祭が世界中に大勢います。

 世界中に散らばった(司祭職における)兄弟たちの示す、人間的・超自然的に洗練された尊い濃やかさを、私は心ゆくまで味わっています。彼らがすでに今から、大勢のキリスト信者の友情と助けと愛情に囲まれているのも当然でしょう。この世にいる間、主のみ名とペルソナにおいて聖務を果たし、自分の管理に委ねられた恩恵を寛大に人々の上に注いだ司祭は、神のみ前に出頭するとき、イエス・キリストの出迎えを受け、永遠に讃えられることでしょう。

 この夏、司祭になるオプス・デイ属人区の信者に再び思いを戻しましょう。彼らが常に忠実で、信心深く、博識を保ち、献身的で喜びに溢れた司祭であるよう、続けて祈ってください。御子であり永遠の司祭である主イエス・キリストの傍で、生涯をかけて仕える人々に、聖母は誠に母親らしい心遣いを示してくださいますから、彼らを特に聖母に委ねてください。

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