教会に忠誠を尽くす

1972年6月4日 聖霊降臨第二主日


今週の日曜日の典礼文は、主に呼びかける一連の祈りとなっています。主は私たちの支え、岩、保護者とお呼びします。 祈りも、「御身は、御身の愛に固く立つ人々から、光を取り去ることはない」、入祭唱と同じテーマを扱っています。

 昇階唱でも主に訴え続けます。「艱難のとき、わたしは主に叫ぶ…、主よ、わたしの霊魂を、不義の唇より、偽りの舌より救い給え。主よ、御身に寄りすがり奉る」。何が起ころうとも、常にわたしの慈しみに助けを求めよと、幾度も繰り返し思い出させてくださる父なる神の辛抱強さには感動させられます。混乱した声が教会を傷つけている今もそうなさっているのです。今は正道を踏み外している時期だと言えます。大勢の人々が善き牧者、主の愛へと導くもうひとりのキリストに出会うことができず、出会うのは「盗み、殺し、滅ぼすために」来る「盗人と強盗」だからです。

 しかし、恐れる必要はありません。キリストのからだである教会は、善き牧者の不滅の道であり囲い場、すべての人々のために開かれた確固たる拠り所であり、通り道であるはずなのです。聖福音書の言葉を読んだばかりです。「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」。

ところで、教会とは何でしょうか。教会とはどこにあるのでしょうか。方向を見失い困惑した大勢のキリスト者はこれらの質問に対して確実な答えを得ることができないので、教導職が幾世紀にもわたって公式に表明し、優れたカトリック要理がまことに単純明解に説明してきた事柄〈過ぎ去ったもの〉を新しい説明に替えなければならないと考えるかもしれません。一連の出来事や困難が寄り集まって、教会の清楚な顔に影を落としています。教会は、ここ、いわゆる〈現代〉に適合させる努力にこそ存在する、と言う人もいれば、人間の連帯志向に過ぎないから現在の状況に合わせなければならない、と言う人もいます。

 いずれも間違った考えです。教会は今も、キリストが創設なさったものであって、他の何ものでもあり得ません。「使徒たちとその継者は、信仰と秘跡を土台とした教会を統治する神の代理者である。彼らが(キリストの教会とは異なる)他の教会を設立することが正当でないように、他の信仰を伝え、他の秘跡を制定することはできない。教会は、十字架に掛けられたキリストの脇から流れ出る秘跡によって建てられたのである」。真の教会を見分けるしるしは、初期の公会議の使徒信経に表明され、ミサの信仰宣言で告白する「一、聖、公、使徒継承」です。この四つは、キリストの望まれた教会の本質から出たもので、教会の本質的特徴と言われます。それは本質を示すものですから、同じキリストの御名を呼ぶとはいえ、人間的な制度に過ぎない他のものと区別するしるしとなります。

 一世紀ほど前に教皇ピオ九世は、この伝統的な教えを簡潔に要約されました。「イエス・キリストの真の教会は、神が与えた四つの特徴によって見分けられる。この特徴を私たちは信経の中で信ずべきこととして唱えるが、四つは互いに結ばれていて、一つひとつを別々にすることはできない。従って、真にカトリックであり、カトリックと呼ばれる教会は、同時に、唯一、聖、使徒継承の特権が輝いていなければならない」。最近、この伝統的な教えは、偽りのエキュメニズムに走る人たちに忘れられていますが、第二バチカン公会議が改めて繰り返したものです。「これが唯一のカトリック教会である。私たちは信経の中で、この教会を唯一、聖、公(カトリック)、使徒継承と宣言する。私たちの救い主は復活の後、この教会を牧するようペトロに渡し、それを治めるようペトロと他の使徒たちに委ね、それを『真理の柱と基礎』として永久に立てた」。

教会は一つである

 キリストは御父に嘆願されます。「わたしたちのように、彼らも一つとな(りますように)」。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」。イエス・キリストは一致を勧める言葉を絶えず繰り返されます。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」からです。主の教えは熱い望みに変わります。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊を導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。

 主なる神は何と感嘆すべき調子で話されたことでしょう。私たちがこの一致への情熱を理解し、それをしっかり心に刻み付けることのできるように、たくさんの説明や比喩を使って話してくださったのです。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(…)わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。

 教会から離れる人々も、葉が生い茂るように生き生きする時がありますが、遅かれ早かれ枯れてしまい、その実りさえ蛆虫の巣になることはお分かりでしょう。使徒継承の聖なるローマ・カトリック教会を愛してください。教会は唯一です。聖チプリアヌスが書いているように「教会の外で集める人は、キリストの教会を四散させる」からです。聖ヨハネ・クリゾストムも主張しています。「教会から離れてはいけない。教会より強いものは何もないのだ。教会はあなたの希望である。教会はあなたの救いである。教会はあなたの拠り所である。それは天よりも高く、大地よりも広い。決して老いず、その力は永遠に続く」。

教会の一致を守る心は、ぶどうの木であるイエス・キリストとしっかり一致して生きる努力に表れます。具体的にどうすればいいのでしょうか。教会の永続する教導職に対する忠実の度合を増せばいいのです。「聖霊がペトロの後継者たちに約束したのは、聖霊の啓示によって、新しい教理を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである」。そう、汚れなき母なる教会を敬い、ローマ教皇を愛することによって一致を守るのです。

教会にはほとんど人が残っていないと言う人もいます。そう言う人にはこう答えさせてください。もし、皆がキリストの教えを忠実に守るなら、教会はすぐに相当な人数になるでしょう。教会の中で、愛の中の愛であるキリストを見出すことができます。そこで私たちは、この召し出し、魂を酔わせる深い喜び、慈しみに満ちたイエスの聖心の清い甘美をすべての人が味わうようにと願わなければなりません。

 エキュメニカル(教会一致)を望むべきだという声をしばしば耳にします。ぜひ、そうなってほしいものです。しかし、私の恐れていることがあります。自称エキュメニカルの背後に欺瞞が隠されているのではないか、ということです。キリストの愛、本物のぶどうの木に導かない活動です。だから、実を結びません。心を大きく広げてください。民族や国家、文化や財産などの区別なしにすべての人に対して持つよう主がお与えになった愛を、超自然の愛にしてくださるよう、私は日々主にお願いしています。カトリック信者であるか否か、何らかの信仰を持つ人か残念ながらそうでないかを問わず、私はすべての人に対して心からの敬意を払っているつもりです。しかし、キリストは一つしか教会を創設されず、唯一の花嫁しか持っておられないのです。

キリスト者の一致だとおっしゃるのですか。その通りです。いや、それ以上に神を信じるすべての人々が一致していなければなりません。ただし、真の教会は一つしか存在しません。世界中に散らばった破片で教会を再建する必要などありません。清くなるために浄化する必要など一切ないのです。「キリストの花嫁は姦通者ではない。教会は不滅で純粋であるから。一軒の家で、貞潔な慎みを持って唯一の閨を神聖に保つ。教会は私たちを神のために守る。教会は産んだ子らを天の国に導く。教会から離れる者はすべて姦通者につき、教会の約束から遠ざかる。キリストの教会を捨てる者はキリストの褒美を手にすることができないだろう」。

教会は聖である

 こうして教会の一性が教会の聖性につながること、また聖性の主な側面の一つが、一にして三位の神の秘義を中心にしていることがより深く理解できます。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」。

 聖性とは、神との一致そのもののことです。主との親しさが深ければ深いほど、聖性はより優れているということになります。教会はキリストがお望みになり、キリストが創設されました。こうしてキリストは神のみ旨を果たされます。そして御子の花嫁である教会は聖霊の助けを受けています。教会は至聖三位一体の働きによるもの、聖にして母、私たちの聖なる母です。教会には、根源的と呼べる完全性と終末的と呼べる完全性が備わっています。聖パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、この二つに触れています。「キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」。

 教会の構成要素をなす聖性という根源的な特徴は、時として隠れていることがありますが、「陰府の力もこれに対抗できない」と言われたように教会は不滅ですから、決して破壊され得ないものです。ただ、ほとんど全面的と言えるほどの闇に包まれ、それが人間の目には覆い隠されることがあるということです。聖ペトロはキリスト信者に「聖なる国民」という称号を与えています。すべての信者は聖なる民の一員として聖性に向かうよう召されていますから、精いっぱい恩恵に応え、自ら聖人になるよう努力しなければなりません。今もそうですが、歴史を通して、老いも若きも、独身者も既婚者も、司祭も信徒も、男性も女性も、大勢のカトリック信者が実際に自らを聖化して聖人になりました。

しかし今も昔も、個人的な聖性が人目を引くことはありません。往々にして、私たちと一緒に働き、共に生活している平凡で聖なる人々には気づかないのです。現世的な目で見る限り、忠実に反することや罪しか目につきません。一般に、人目を引くのはこういう事柄なのです。

 惨めさだらけの人間が構成する「聖なる国民」。この一見矛盾と思えることが、教会の秘義の一面です。教会とは、神的であると同時に人間的なものです。それは人間が構成するものですが、「人間は皆、土くれと灰にすぎない」と言うように、その人間が欠点だらけであるからです。

 聖なる教会を創設された私たちの主イエス・キリストは、その構成員が聖性を求めて絶えず励むようお望みです。しかし、皆がこの呼びかけに忠実に応えているとは言えません。キリストの花嫁を見ると、救いの道の素晴らしさと共に、その道を歩む人々の惨めさに気づきます。「贖い主は、自ら創設された団体があらゆる法的または社会的要素を持った、一つの完全社会であることを望まれたのも、人を贖う救いの業を地上に永続せしめるためです。もし教会において人間性の弱さを示す何ものかが時々現れるとしても、その責任は教会の法的構成に帰せられるべきでなく、むしろ個々の人間の中にある悔やむべき悪への傾向に帰すべきです。主イエスが、その神秘体の最も尊い人々の悪への傾きでさえ忍ばれるのは、牧者と羊との双方の徳を試みるためであり、またすべての人々の中にキリストヘの信仰のいさおしを増すものに他ならないからです」。

 これが地上の教会の現実の姿ですから、キリストの花嫁が聖であるということと、教会の中に欠点を持った人間がいるということとが、両立し得るのです。「キリストは、罪人が教会から退けられることをお望みにならなかったからです。それゆえ、もし信者のひとりが霊的な病に罹っているとしても、そのことは教会に対する私たちの愛を減ずることにはならないのであり、むしろかえって、教会の肢体に対する同情を強める理由になることでしょう」。

役目上いかに高い地位に就(つ)いていても同じですが、とにかく教会に属する人に欠点や惨めさが認められるからといって、教会とキリストに対する信仰が弱くなるという人がいるとすれば、そういう人はあまり成熟していないと言えるでしょう、教会を治めるのは、ペトロでもヨハネでもパウロでもなく、聖霊です。しかも、主は「世の終わりまでいつも」教会の傍にいると約束なさいました。

 この点で意見を同じくする聖トマスは、成聖の恩恵を与える手段でありしるしである秘跡にあずかることについて説明しています。「秘跡に近づく人は、確かに教会の聖務者(役務者)からそれを受ける。しかし、それが誰それだからという理由でなく、教会の聖務者であるという理由で受ける。それゆえ、教会によって秘跡の授与を認められた聖務者の授ける秘跡を受ける人は、ふさわしくない聖務者の罪にあずかることにはならず、教会と交わることになるのである」。主がお認めになるゆえ、人の弱さが表に現れたなら、母親が病に伏しているとか、薄情な仕打ちを受けた時のような反応をすべきでしょう。すなわち、もっと愛さなければならない、心の中でも行いにも、もっと愛情を示さなければならない、ということです。

 教会を愛する人なら、幾人かの教会の子らの惨めさを母なる教会の過失であるかのように、公に言い触らすような病的とも言える態度をとることはないでしょう。キリストの花嫁である教会が「我が過ちなり」と先唱する必要などありません。「我が過ちなり、我が過ちなり、我がいと大いなる過ちなり」と言うべきは、確かに私たち人間なのです。これこそ本当の意味で、自分の過ちを認める態度、個人的なメアクルピズムです。これなら、聖なる教会の中で人間が犯す過ちを大袈裟に言い立てて教会を攻撃することにはなりません。ところで、人間の過ちも、教会の根源的で構成要素となる聖性を破壊することはもちろん、それに触れることさえできません。

確かに、私たちの主なる神は、教会を麦と藁が山積みとなっている麦打ち場に喩えられました。そこから食卓にのぼるパンと祭壇のためのパンができます。また教会を「いろいろな魚を集める」地引網にも喩えられました。あとで、良いものをかごに入れ、役に立たないものを捨てるのです。

 人間のさもしい行為の影に覆われて隠れてしまうことがありますが、教会の聖性という秘義は根源的な光で、母なる教会の美しさにいささかの疑いを挟む余地も与えません。母なる教会が侮辱されているのに、抗議もせずに我慢するようなことはしたくないものです。信仰も愛も示さない人のように、教会の弱みを批判するようなことはしたくないものです。自分の母親について冷淡な口調で話す人が、その母親に愛情を持っているなどとは私には信じられません。

 母なる教会は聖なるものです。清い状態で誕生し、永遠に汚れなく存続するからです。万一、その美しい顔を見つけられないときには、私たち自身の目を清めましょう。万一、その声が快く響かないときには、愛情に溢れた牧者の口笛を聞こえなくさせている耳のかさぶたを取り除きましょう。母なる教会はキリストの聖性によって聖なるものです。その聖性に、教会は体と霊において結ばれています。私たちは皆その体であり、神の恩恵を保つ限り、一人ひとりの内に聖霊がおいでになるからです。

 至聖三位一体の神を称える賛歌を思い起こし、あえて教会に、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかなと歌いかけます。わが母よ、聖なる神の御子が創設されたゆえに、あなたは聖なる教会です。聖性の源である御父がそうなさったがゆえに、あなたは聖なる方です。天の教会、永遠のエルサレムに住むはずの御父の子らを集めるため、信者の心に住まいを定められた聖霊が助け支えているゆえに、あなたは聖なる方です。

教会はカトリック(普遍)である

 「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです」。イエス・キリストはご自分の教会をたった一つだけ創立されました。ですから、キリストの花嫁は一つであり、公(カトリック)、すべての人のため、つまり普遍なのです。

 数世紀前から、教会は世界中に広がり、あらゆる人種と社会条件の人々から成り立っています。しかし、地理的な広がりは見えるしるしであり、信仰の動機ではあっても、教会の普遍性(カトリック)の理由ではありません。教会は聖霊降臨の日にすでに普遍的(カトリック)でした。聖霊が燃え上がらせる火のように、教会はイエスの傷つけられた聖心からカトリックとして生まれたのです。

 二世紀の信者はキリストの御名を使いながらも、教えの一部を裏切る異端からはっきり区別するため、教会はカトリック・普遍であると明確に定義しました。聖チリルスは次のように説明しています。「教会をカトリックと呼ぶのは、地の果てから果てまで広がっているという理由からだけでなく、見えるものと見えないもの、および天と地に関して人間が知っておくべき事柄すべてを余すところなく普遍的に教えるからである。さらに、為政者か市民か、博学か無学かを問わず、あらゆる階級の人々を正しい礼拝に向かわせるからでもある。最後に、霊魂の罪であろうと体の罪であろうと、あらゆる種類の罪を癒すだけでなく、呼び名はともあれあらゆる種類の徳を、行いか言葉か、あるいは何らかの霊的賜物の形かで所有しているからである」。

 教会の普遍性は、カトリックでない人がそう認めるか否かにかかっているわけではありません。また時には、現世的な事柄について教会権威者の述べる意見が利用されていますが、それが、近い考え方をする世論によって受け入れられているか否かということも、教会の普遍性とは何ら関係がないのです。人間的イデオロギーの支持する部分的な真理が往々にして教会の普遍の教えの中に共鳴点や根拠を見つけることはあるでしょう。それも、教会の教導職が保管する啓示が神から来たことをある程度まで示すしるしです、しかし、多くの人たちから故意に無視されたり、残念ながら今日多くの所で起こっているように傷つけられたり迫害されたりしても、キリストの花嫁は依然としてカトリック・普遍なのです。

政党や社会思想、協調や物的進歩を目指す国際組織、その他が、高潔な性格を有することは認めますが、教会はこれらのいずれでもありません。教会は貧しい人や苦しむ人、唯一絶対の悪である罪の結果を何らかの形で被る人々のために、膨大な仕事を推進し、今もそれを続けています。そして、因窮状態にいる人々にも、地上の富を充分に享受していると考えている人々にも、すべての人々に、教会はたった一つ決定的に大切なことを確認してきました。すなわち、私たちは永遠の超自然的な目的に向かっており、キリストによってのみ永遠の救いを得ることができ、キリストにおいてのみすでに現世で本物の平安と幸せを得ることができるという事実です。

 私たちカトリック信者が以上の真理を決して忘れず、それを実行に移す決意を固めることができるよう、今、私と共に主なる神にお願いしてください。カトリック教会は人々から認められなくても良いのです。教会は神のみ業ですから。

 私たちは自らの聖性の実によってカトリック信者であることを示します。聖性は国境を越えたものであり、特定の人間の排他的な財産ではないからです。私たちが祈れば、絶えず神に向かう努力を続ければ、また最近は、唯物的な意味合いや誤った意味で使われていますが、最も広い意昧ですべてにおいて正義の人になるよう常に努力を傾ければ、自分以外の人々の個人的自由を愛し弁護するならば、その時こそ、私たちがカトリックであることを示すことができるのです。

 教会が普遍的であることを示すもう一つの明らかなしるしを思い出してください。それは、教会が秘跡を歪曲し、心理学的あるいは社会学的に条件を付けるがごとき邪な試みをせずに、イエス・キリストが制定された通りに保存し、授けてきたという事実です。「人間は、他人の権限のもとにあることでなく、自らの権限のもとにあることのみを決めることができる。ところで、人間の聖化は、聖化なさる神の権限のもとにあるのだから、人間は自分が何によって聖化されるべきかを自分の判断で決めることはできない。これは神がお決めになることである」。秘跡の本質から普遍性を取り去ろうと試みる態度が、万一正当化されるようなことがあれば、その時、秘跡は理解と理性の自然の法則によって働く単なるしるしか象徴に成り果ててしまいます。しかし「新約の秘跡は原因であると同時にしるしである。それゆえ、秘跡はその意昧することを実現させる、と常に教えられるのである。従って、しるしとしてだけでなく原因として、聖なるものに秩序づけられている秘跡の根拠が保持されなければならない」。

教会はカトリックであるだけでなく、ローマ・カトリック教会です。私はこの〈ローマ〉という言葉を味わい、私自身ローマ的であると思っています。ローマとは普遍(カトリック)を意味するからであり、私の愛すべき友であるシエナの聖カタリナが繰り返したように、地上における甘美なキリスト、すなわち教皇様を愛するように仕向けてくれるからです。

 第二バチカン公会議の閉会にあたり、教皇パウロ六世はおっしゃいました。「理論的には、このローマ・カトリックの中心から手の届かない人はいません。すべての人々に届くことができます。また実際にそうでなければなりません。カトリック教会にとって、遠くかけ離れて届くことのできない人などいないのです」。殉教者の血に浸されたペトロとパウロのローマ、キリストの救いをもたらす言葉を世界中に広げる大勢の人が輩出したこの中心地を、私は全力を挙げて愛します。ローマ的とは、排他的な態度をとることではなく、真のエキュメニズムを示しています。それは心を大きくする望み、贖いに対するキリストの熱意をもって、心をすべての人に開く望みのことです。キリストは、すべての人を最初に愛されました。すべての人を探し求め、すべての人を受け入れられたのです、聖アンブロジウスは簡潔ではあるが喜びに溢れた賛歌を残しました。「ペトロのいるところに教会がある。そして教会のあるところ、死は支配せず、永遠の生命が支配する」。なぜなら、ペトロと教会のあるところにはキリストがおられ、そのキリストこそ救い、唯一の道であるからです。

教会は使徒継承である

 聖霊の絶え間ない援助を約束されていた少数の人間・使徒たちの弱さと忠実という土台の上に、私たちの主は教会を創立されました。周知の箇所ですが、常に新しく常に今日的な聖書のテキストをもう一度読んでみましょう。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

 パレスチナで始まった福音宣教は、数名の熱心な人の個人的なイニシアチブによるものではありません。使徒たちに何ができたというのでしょう。当時、当てにできるものは何もなかったのです。金持ちでもなく教養もなく、人間的にみて英雄でもなかった、イエスはこの一握りの弟子たちの肩に巨大な神的仕事を負わせられました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」。

 二千年の歴史を通じて教会には使徒継承が守られて来ました。トリエント公会議は「司教は使徒の後継者であり、同じ使徒(パウロ)が言うように『聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさった』(使徒言行録20・28)」と宣言しています。そして、キリストご自身が使徒たちの中からペトロを特別に選ばれ、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と仰せになりました。

 ペトロはローマに移り、そこでキリストの代理者・首位権者として教座を定めました。これが、使徒継承が最も明らかにみられるのはローマにおいてであり、ローマが使徒座と呼ばれる所以(ゆえん)なのです。第一バチカン公会議は、フィレンツェ公会議の言葉を引用してこれを宣言しました。「すべての信者は次のことを信じなければならない。すなわち聖なる使徒座とローマ教皇は、全世界に対して首位権を持ち、教皇は使徒たちの頭・聖ペトロの後継者であり、キリストの真の代理者・全教会の頭・全キリスト者の父・教師である。教皇には、私たちの主イエス・キリストが聖ペトロに与えた教会全体を司牧し統治する全権が与えられている」。

ローマ教皇の最高の権限と〈エクス・カテドラ〉つまり教座から話すときの不可謬性は、人間の考え出したものではなく、キリストの明白な教会創設の意志によるものです。教皇の統治を司教の統治と対立させたり、教皇の教導職が有効か否かを信者の同意で決めたりする考えは、およそ意味のないことであり、権力の均衡などとも全く無関係です。いくら魅力的で機能的であるといっても人間的な図式は役に立ちません。教会の中では、人間が自ら絶対的な権限を持つことなどあり得ないのです。教会にはキリスト以外の頭は存在しません。そして、キリストはこの地上を旅するご自身の花嫁のために、代理者すなわちローマ教皇を定められました。

 教会はその構成からみても使徒継承です。「教会はカトリックであると同時に唯一、聖、使徒継承でなければならない。従って、全世界と全民族の明白で完全な一致によって、カトリック教会は唯一である。この真実の一致の本源、根、起源は、使徒たちの頭・聖ペトロと教座の後継者の最高権威と最高主権である。唯一のペトロの上に建てられ、信仰と愛の一致によって一つの体に結ばれ、構成されたカトリック教会以外の教会はない」。

 ペトロとの一致、すなわち教皇との一致を繊細な心で忠実に保てば、この使徒継承という特徴をすべての人の目に、より明らかにするのに貢献できます。ローマ教皇のうちにキリストを見ているからです。祈りの中でキリストに接すれば、時には理解に苦しむ出来事や嘆きと悲しみを誘う出来事が起こっても、聖霊の働きを識別できる澄みきった目で歩みを続けることでしょう。

全カトリック信者の使徒職への使命

 教会は、洗礼を受けてその懐に入った私たちを聖化します。自然の生命をもって生まれて間もなく、私たちはすでに聖化をもたらす恩恵を受けることができます。「一人の信仰は、そして教会全体の信仰なら尚更のこと、教会に一致をもたらし、一方の善を他方に伝える聖霊の働きによって幼児に恩恵を与える」。聖霊から付与され、教会に備わっているこの超自然の母性は真に素晴らしいとしか言いようがありません。「洗礼によって実現する霊的な再生は、ある意昧で体の誕生に似ている。母の胎内にいる子が自分で食物を摂取できず、母から栄養を摂るように、まだ理性の働きを持たず、母なる教会の胎内にいるがごとき状態の幼い子供は自分の力でではなく、教会の働きによって救いを得る」。

 教会の司祭的権能の偉大さが際立って見えます。ところでこの権能はキリストから直接に出るものです。「キリストはすべての司祭職の源である。旧約の司祭は前表であったが、『あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです』(2コリント2・10)と言うように、新約の司祭はキリストのペルソナにおいて働くのである」。

 神と人間の間の仲介役として救いをもたらす働きは、教会の中で、叙階の秘跡を通じて永続します。この秘跡は、固有な印章と恩恵の作用によって、すべての人のためにイエス・キリストの聖務者(役務者)として働くことができる司祭を作ります。「ある事柄についてある人にはでき、他の人にはできないと言うとき、それは悪か善かの違いに由来するのではなく、一方が所有し、他方が所有しない権能からくる問題である。それゆえ、信徒は個人的にいかに良い人間であっても、聖別する権能を受けていないわけだから、聖別を実現することができないのである」。

教会には色々な種類の役務がありますが、その目的は一つ、つまり人々の聖化です。そしてこの聖化の仕事には、洗礼と堅信の秘跡で受けた印章によって、すべての信者が何らかの形で参加します。私たち全員がキリストの使命であるこの教会の使命に対して責任を感じていなければなりません。人々の救いを熱心に望まない人、キリストのみ名と教えが知られ愛されるように全力を挙げて努力しない人は、教会の使徒継承という特徴を理解できないでしょう。

 何もしないキリスト者は、キリストが私たちに期待しておられることが分からずじまいと言えます。自分のことだけを考えて、人々の救いについては何も考えないキリスト者は、イエスの聖心で人々を愛しているとは言えないのです。使徒職とは、位階制に属する人や司祭や修道者だけの使命ではありません。すべての人は、模範と言葉で、永遠の生命に至るこの恩恵の流れを伝える道具になるよう、主の招きを受けています。

 使徒言行録を読む度に、キリストの弟子たちの大胆さ、使命に対する信頼、犠牲をものともしない喜びを知って感動します。人々を十把一絡げに扱ったりしません。大勢の人がやって来ても、使徒たちは個別に一人ひとりに接します。フィリポはエチオピア人に、ペトロは百夫長コルネリオに、パウロはセルジオ・パウロにという風に。

 彼らはこういうやり方を先生であるキリストから学びました。村の広場で仕事を待っている労働者の喩え話を思い出してください。そろそろ夕暮となり、ぶどう畑の主人が出かけてみると、未だに手持無沙汰で立っている日雇い労働者を見つけました。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と聞くと「だれも雇ってくれないのです」と答えました。こんなことはキリスト信者の生活にあってはなりません。誰も話してくれなかったのでキリストについて何も聞いたことのない人が、信者の周りに居るようなことがあってはならないのです。

 人々はしばしば神を度外視しても構わないと考えていますが、騙されています。自分では気づいていないが、ベザタの池の回廊に横たわっていた中風の人と同様、救いの力を持つ水、心に喜びを与える教えに近づくことができないのです。このように「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」、手を貸してくれる人がいないのです、と言う人のいる事実は、多くの場合、キリスト信者の責任です。すべてのキリスト信者は使徒でなければなりません。神は実際には誰をも必要とされませんが、それにも拘わらず、私たちを必要としてくださいます。救いをもたらす教えを広げるために、主は私たちの働きを頼りにしてくださるのです。

私たちは今、一、聖、公(カトリック)、使徒継承の教会の秘義について黙想しています。自らに問いかけてみましよう。キリストと同じように、人々の救いを熱望しているでしょうか。私には代わってもらうことのできない特定の使命があり、それを教会の中で果たすべきだが、その教会のために祈っているだろうか。教会に属しているということ自体素晴らしいが、それだけでは充分ではありません。私たち自身が教会になりきらなければならないのです。母なる教会は、私たち自身の思いや考えとは異質で無縁で外部的なものではないからです。

 教会の特徴に関する考察はこの辺で終わりましょう。教会は、恩恵の生活を与え、日々の尽きない心遣いで私たちを養ってくれますが、その母なる教会をもっと愛するという明確で確実な神的基準は、主の助けを受けて、心に刻み付けられ、確信となったことでしょう。

 万一、教会を侮辱するような言葉や叫びを耳にした時には、愛徳に溢れた謙遜な心で、その無情な人たちに言ってあげなければなりません。こんなに素晴らしい母親を酷く扱ってはならない、と。今、教会は、罰を受けないのをいいことに平気で攻撃する人々の標的になっています。この国は、師にして創立者である御方の王国であって、この世のものではないからです。「藁の間で麦が呻き、毒麦の間で穂が溜息をつき、怒りの器の間で慈しみの器が嘆き悲しみ、茨の間で百合が涙を流している間、敵は言い続けることだろう。いつ、その名が死して滅びるのだろう、キリスト信者が姿を消し、誰一人いなくなるのはいつのことだろうか、と。しかし、そういう彼らこそ必ず死んでしまう。そして、教会は存在し続ける」。

 何が起ころうとも、キリストがご自分の花嫁を見捨てられることはありません。凱旋の教会はすでに御父の右に座す御方の傍にあります。すでにそこに居るキリスト信者・私たちの兄弟は、澄みきってはいても薄暗い信仰という光の中で(この世に生きる)私たちが見ている一、聖、公(カトリック)、使徒継承の教会を眺め、神を賛美しつつ、私たちを招いているのです。

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