教会の超自然的な目的

1972年5月28日 三位一体の祭日


黙想を始めるにあたり、聖チプリアヌスの言葉を思い出しましょう。「普遍教会は、自らの一致を御父と御子と聖霊の一致から受ける一つの民として姿を現します」というわけで、三位一体の祝日の説教で、教会について考えても不思議ではありません。教会は、カトリック信仰の根本的な教義、すなわち本性においては一であり、ペルソナにおいては三位である神に根を下ろしているからです。

 三位一体を中心とした教会、教父たちは教会を常にこのように考えてきました。聖アウグスチヌスの明解な言葉を味わってみましょう。「神はご自分の神殿にお住まいになる。聖霊だけでなく、御父も御子もお住まいになる。従って、聖なる教会は神の、つまり三位一体全体の神殿である」。

 次の日曜日に再び集まるときには、聖なる教会のもう一つの素晴らしい面について、すなわち、間もなく信仰宣言の中で御父と御子と聖霊に対する信仰を告白した後で唱える、教会の特徴について考えることにしましょう。私たちは、「聖霊を信じます」と言った後、続いて「一、聖、公(カトリック)、使徒継承の教会」と唱え、聖にしてカトリック、使徒継承の唯一の教会に対する信仰を告白します。

 本当に教会を愛する人々は、この四つの特徴を私たちの聖なる宗教の名状しがたい秘義、つまり至聖なる三位一体の秘義と関連づけてきました。「私たちは、一、聖、公(カトリック)、使徒魅承の、神の教会を信じ、そこで教えを受けます。私たちは御父と御子と聖霊を知り、御父と御子と聖霊の御名によって洗礼を受けています」。

困難な時代

 忘れてしまわないように、教会とは偉大で深遠な秘義であることを頻繁に黙想しなければなりません。この世に生きている間に、この秘義を理解することはできません。理性の働きだけでみるならば、教会はある種の掟を守り、同じような考え方をする人たちの集まりとしか見えないでしょう。しかし、これは聖なるカトリックではありません。

 カトリック教会の中でカトリック信者が見出すのは、私たちの信仰と行動の規範、祈りと兄弟愛、また、この世を去り、今は練獄で清めを受けている(清めの教会の)すべての兄弟たち、ならびに至福直観を(勝利の教会で)楽しみつつ、三重に聖なる神を永遠に愛する兄弟たちとの交わりです。この地上に留まりながらも歴史を越えているのが教会です。聖マリアの庇護のもとに生まれた教会は、この世と天国でマリアを母と讃え続けています。

 教会は超自然的な存在であることを宣言しましょう。必要ならば大声を挙げてでも(信仰)告白しましょう。最近は、教会の内部で、上層部でも、この重要な真理を忘れ去った人が大勢いるからです。この人たちが提案する教会は、聖でも一でもなく、ペトロという岩を支えにしないので、使徒継承でもない。また、不当な排他主義や人々の気紛れによって切り刻まれているので(カトリック)でもありません。

 別に新しい現象ではありません。主イエス・キリストが聖なる教会を創設されて以来、私たちの母なる教会は常に迫害の苦しみを忍んできました。昔ならば、公然と攻撃したでしょうが、今は、陰湿な攻撃が多くなっています。昨日も今日も、教会への攻撃は続きます。

 繰り返しますが、私は気質も性格も悲観的ではありません。主が世の終わりまで共にいると約束されたのですから、悲観論者であることなどできません。高間に集う弟子たちに聖霊が降り、初めて教会が公に姿を現したのでした。

 私たちがよく分かるよう、聖書は生き生きした表現を使っています。「ご自分の瞳」のように私たちの世話をしてくださる優しい父なる神は、愛する御子が建てられた教会を絶えず聖霊によって聖化なさいます。しかし、教会は今、困難な日々を過ごしています。人々にとっても大変困難の時です。様々なところで混乱を撒き散らす叫びが起こり、昔の誤謬がすべて生き返って大声をあげています。

信仰、そう信仰が必要です。信仰の目で見れば「教会は護教だけでなく、積極的にまわりにその教えを広めています。真理を愛する目で教会を眺め、またそれを研究する人は、教会を構成する人々や教会が実際にどのような印象を与えるかとは無関係に、教会の中に唯一普遍で自由をもたらす必然的神的な光のようなメッセージのある」ことを認めるはずです。

 遠回しな言い方は好むところではないのではっきりと申しますが、異端の声を耳にすると、また婚姻や司祭職の聖性、聖母の無原罪の御宿りと終生処女性、神が聖母にお与えになったすべての特権と卓越性、さらに聖体におけるイエス・キリストの現存という永遠の奇跡、ペトロの首位権、主の復活そのものまでが、平気で攻撃の対象にされているのを見ると、悲しくなって当り前でしょう。しかし、安心してください。聖なる教会は不滅です。「教会はその土台が揺らぐならぐらつくだろう。ところでキリストが揺らぐことがあり得るだろうか。キリストが揺らがない限り、教会は世の終わりまで決してぐらつかない」。

教会の人間的な要素と神的な要素

 キリストに人間性と神性があるのと同じように、教会の人間的な要素と神的な要素に言及することができます。その人間的な部分は誰の目にも明らかです。この世の教会は人間が構成する人間のための教会です。そして、人間といえば、自由、偉大さと卑しさ、英雄的な態度と卑屈な態度について話すことになります。

 万一、教会の人間的な面のみしか受け入れないなら、教会を理解することはできないでしょう。秘義の戸口にさえ近づくことができないからです。聖書は現世の経験から得た数々の喩えを使って、天の国そのものと、私たちの間での天の国、つまり教会の現存について説明しています。家畜を囲む棚や家畜の群れ、家、種、ぶどう畑、神が作物を植えたり建物を築いたりなさるというのが、喩えの中でも最も傑出した表現です。

「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆく」。聖パウロは次のようにも書いています。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。私たちの信仰はなんと輝かしいことでしょう。私たちは皆キリストのうちにいます。「御子はその体である教会の頭(である)」からです。

これこそ、キリスト信者が常に告白してきた信仰です。一緒にアウグスチヌスの言葉に耳を傾けましょう。「その時以来、キリスト全体は頭と体から形成されていることは、あなたたちがよく知っている真理であると確信している。頭とは私たちの救い主ご自身であり、ポンティオ・ピラトの管下で苦しみを受け、死者のうちより復活されたのち、今は御父の右に座しておられる。そしてその御体は教会である。あの教会この教会というのではなく、世界中に広がった教会のことである。生存する人々の間にある教会だけではない。この教会には私たちよりも前に生きていた人たちと、これから先、世の終わりまで、この世に来るであろう人たちも属しているからである。従って、すべての信者はキリストの肢体であるから、信者の集いからなる教会全体は、天からその体を治めるキリストを頭として持っている。そして、この頭は目の届くところにはおられないが、愛によって体に一致してくださっている」。

可視的(目に見える)教会と不可視的(目に見えない)教会を分けることのできないわけがもうお分かりでしょう。教会とは神秘体であると同時に法的な体なのです。「教会は体であるため、目に見えるものである」と、レオ十三世は教えておられます。教会の目に見える体、言い換えればこの地上の教会を構成する人間の振舞いには、惨めさや迷いや裏切りが現れます。しかし教会はそれだけで終わるものでも、そのような誤った行為と同一視されるものでもありません。それどころか、今この地上において、物惜しみしない態度や英雄的な信念、聖なる生活がたくさん見られます。ただ、彼らは騒ぎ立てず、信仰における兄弟やすべての人々に仕えるために喜んで骨折っているのです。

 次のことも考えてください。仮に、義務を果たさない人やすぐに屈伏する人の方が勇敢な人々よりもずっと多いとしても、感覚で捉えることはできないけれど明白で否定しがたいこの神秘的な現実、すなわちキリストの体、私たちの主ご自身、聖霊の働き、御父の慈しみ深い現存が依然として残っています。

 従って、教会は人間的であると同時に神的なものです。「教会はその起源から見て神的なもの、その目的と目的に向かうための手段から見て超自然的なものである。しかし、人間によって構成されているので人間の共同体である」。この世界に生き、活動するけれども、その目的と力は、この世にではなく、天にあるのです。

 俗に言う、真にキリストによって設立されたと称されるカリスマ(賜物)的教会と、人間の業と歴史的偶然の結果と称される法的あるいは制度的な教会とに分けて考えるのは大変な間違いです。教会は一つだけです。キリストは唯一の教会を建てられました。すなわち見えると同時に見えない教会、位階的に組織された一つの体としての教会、神法を基礎構造に持ち、生気を与え、支え、生かす力を持つ秘められた自然の生命を有する教会です。

 また次のことを思い出さないわけにはいきません。主は「分離した数多くの集団から成り立つ教会を計画し、創立されたのではない。類似してはいるものの、唯一で不可分という一致の絆には結ばれていない教会を建てたのではない。…イエス・キリストがこの神秘的な建物について話したとき、一つの教会だけを自分の教会と呼び、『わたしはわたしの教会を建てよう』と言った。従って、この教会以外の教会はイエス・キリストによって建てられたものではないことになる。他の教会をキリストの真の教会であると考えることはできない」のです。

 繰り返します。信仰が必要です。今日祝う至聖三位一体の神に願って、私たちの信仰を増していただきましょう。何が起ころうとも、三重に聖なる神はその花嫁をお見捨てにはなりません。

教会の目的

 聖パウロはエフェソの信徒への手紙の中で、キリストが告げられた神の秘義は教会の中で実現すると主張しています。父なる神は、「すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。神の奥義(秘義)は「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられ(る)」というのです。

 計り知ることのできない秘義、愛から出る無償の秘義です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びに(った)」からです。神の愛は無限です。聖パウロ自身も、救い主は「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられ(る)」と告げています。

 教会の目的は一人ひとりを救うこと、これ以外にありません。このために御父は御子を遣わされたのです。そして主は、「わたしもあなたがたを遣わす」とも仰せになりました。そこから、恩恵によって至聖なる三位一体の神が霊魂にお住まいになるように、教えを告げて洗礼を授けよという命令が出てきます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

 これは聖マタイ福音書の終わりにある簡潔で崇高な言葉です。そこで示されているのは、信仰の真理を告げる義務と秘跡にあずかることの重要性、教会に対するキリストの絶え間ない保護の約束です。信仰とキリスト教的倫理道徳教育、そして、秘跡の実行という超自然の現実を軽んずるなら、主に忠実を保っていないことになります。キリストは、この命令を与え、そして教会を建てられたのです。これ以外のことには二義的な意味しかありません。

教会にこそ私たちの救いがある

 忘れてならないことは、教会とは、救いの一つの方法以上のもの、つまり救いの唯一の道であるということです。教会は人間が考えたものではなく、キリストがお定めになったものです。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。それゆえ、救いを得るための手段として、教会が必要だというのです。すでに二世紀にオリゲネスが書いています。「救われたい者がいれば、それを手に入れるために、この家に来なさい。騙されてはならない。この家の外、つまり教会の外では、誰も救われない」。

 聖チプリアヌスはこう教えます。「ノアの方舟の外で大洪水を逃れた人が万一いたとすれば、教会を捨てた人も永罰から逃れ得ると私も認めよう」。

 「教会の外に救いなし」。これは教父たちが繰り返す絶え間ない警告です。聖アウグスチヌスの言葉を考えてみましよう。「救い以外のことであれば、すべてをカトリック教会の外でも見つけることができる。名誉を手に入れ、秘跡を有し、アレルヤを歌い、アーメンと答え、福音書を手に持ち、御父と御子と聖霊を信じ、その信仰を告げることもできる。しかし、カトリック教会の中でなければ、救いを見出すことは決してできない」。

 ところが、ピオ十二世が二十年余り前に嘆いておられたように「永遠の救いを得るために真の教会に属する必要があるという教義を無意昧とする人々がいます」。この信仰の教義は教会の贖いの協力者としての活動の基礎となっています。これこそ、キリスト信者は使徒職に従事すべきであるという重大な義務の根拠なのです。キリストの明白な命令の中には、洗礼によって神秘体に加わるべきであるという明白な命令があります。「救い主は、すべての人が教会に入ることを命じただけではなく、教会は救いの手段であって、教会がなければ、誰一人、天の栄光の王国に入ることができないと定められた」。

 教会に属さなければ救われず、洗礼を受けなければ教会に入れない。これは信仰箇条です。「福音が宣べ伝えられた後は、『再生の水洗い』なしに、あるいはそれについての望みなしに」義化(救い)はあり得ないと、トリエントの公会議は定めました。

これは教会の絶えざる要請です。それは、一方では、私たちに使徒職への熱意を奮い起こさせる刺激であり、他方、被造物に対する神の無限の慈しみの明らかな表れです。

 聖トマス・アクィナスの説明を聞いてください。「洗礼の秘跡の無い場合が二つある。一つは、実際に望みの上でも秘跡を受けなかったときで、この場合、本人は洗礼の秘跡を受けていないし、受けたくもないわけである。理性の働きを有する(分別のある)人の場合、これは秘跡を蔑むことになる。従って、このようなかたちで洗礼を欠く人は天の国に入ることができない。救いはキリストからしか来ないのに、秘跡的にも霊的にもキリストに一致していないからである。もう一つは、秘跡を欠いているが望みの欠けていない人で、洗礼を受けたいと望みながら、そうする前に突然この世を去った人の場合である。このような人なら、実際に洗礼の秘跡を受けたのではないが、洗礼の望みだけでも救われる可能性がある。この望みは、愛によって働く信仰から出た望みで、それによって、御力を目に見える秘跡のみに縛ること(限ること)をなさらなかった神は、内的に人を聖化なさるのである」。

 私たちには超自然の永遠の幸せを要求する権利はありません。罪を犯した私たちなのですから尚更のことです。しかし主なる神は、何人にもその幸せを拒むことなく、無償でお与えになります。主の寛大さには限りがありません。「やむを得ない事情によってカトリックの聖なる宗教を知らずにいる者も、神がすべての人の心に刻まれた自然法とその道徳律を忠実に守り、神に従う用意があり、正しく生きるならば、神の光と恩恵の働きによって、永遠の生命に達することができる」。一人ひとりの心の中で起こることは神のみがご存じです。しかも、神は人間を十把一絡げではなく、一人ひとりを相手にしてくださいます。この世では、何者といえども、他人の救いや永罰に関して個々の場合を取り上げて判断を下す資格はありません。

しかし、忘れてならないのは、自分の責任で良心を歪め、罪に凝り固まり、神の救いの業に抵抗することもあり得るということです。そこで必要になるのが、キリストの教えと信仰の真理、倫理道徳の基準を説くことであり、同時に必要なのが、恩恵を与えるための道具因として、ならびに堕落した私たちの本性に付きまと惨めさに対する薬として、キリストが定められた秘跡なのです。さらにその結果、悔俊(告解、ゆるし)の秘跡と聖体の秘跡を頻繁に受けるのが望ましいということになります。

 というわけで、教会に属するすべての人、中でも牧者の大変重い責任が聖パウロの次の言葉に具体化されています。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」。

試みの

 使徒のこの言葉がどの程度現実に起こったのか、私には分かりません。しかし、盲目でない限り、現にこの言葉通りに起こっていることはよく分かるはずです。神と教会の掟に関する教えは拒否され、至福直観の中身は政治的・社会的なキーワードで解釈され歪曲されて、謙虚で柔和で心の清い人間であろうとする者は、無知か、あるいは古色蒼然たる過去の支持者であるかのように扱われています。貞潔のくびきに耐えられないので、キリストが与えられた神の掟をあらゆる手を使って愚弄しています。

 これらすべてを含む兆候があります。つまり、教会の超自然の目的を変えてしまおうという試みです。正義(義)とは聖性の生活ではなく、キリスト教信仰とは相容れない、多少ともマルクス主義に染まった特定の政治闘争であると考える人がいます。解放とは、罪を避けるための個人的な戦いではなく、ただ人間的な課題と考えられているのです。このような考え方も高貴で正当であるとはいえ、ただ一つ必要なこと、すなわち一人ひとりの霊魂の救いをおろそかにするなら、キリスト信者にとって全く無意味なことになります。

神から離れて盲目になった結果、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と言うように、キリストが創立された教会とは似ても似つかない教会像を作り出します。祭壇上の聖なる秘跡、カルワリオの犠牲の更新までもが冒涜され、いわゆる人間同士の交わりの象徴に変えられています。万一、主が私たちのために聖なる御血の最後の一滴までも流してくださらなかったならば、いったい人間はどうなっていたことでしょう。聖櫃内のキリストの現存という絶え間ない奇跡を軽んじることなど、どうしてできるのでしょう。そこに残ってくださったのは、私たちが主と付き合うため、礼拝するため、将来の栄光の保証として、その足跡を辿る決心をするためです。

 今は試みの時ですから、「喉をからして(び)」、主にお願いしなければなりません。この試みの時を短くしてください、慈しみの目で教会をご覧ください、牧者とすべての信者の心に再び超自然の光をお恵みください、と。教会が人々を喜ばせることに腐心すべき理由はありません。人間は、個人としても共同体としても、永遠の救いを与えることなどできません。救いをもたらされるのは神なのです。

子として教会を愛する

今日こそ声を上げ、聖ペトロのエルサレムの長老たちへの言葉を繰り返さなければなりません。「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石です。ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。

 キリストがその上に教会を建てられた岩、すなわち初代教皇は、主に対する孝愛に動かされ、自分に委託された小さな群れに対する心遣いから、こう話しました。初代の信者は、ペトロとその他の使徒から愛情をもって深く教会を愛することを学んだのです。

 ところで、日々およそ孝愛の念を欠いた態度で、母である聖なる教会について話す人がいることはご存じでしょう。教父たちがキリストの教会に投げかける、燃えるような愛の言葉を読むと心が慰められます。聖アウグスチヌスの言葉を読んでみましょう。「私たちの主なる神を愛そう。その教会を愛そう、神に対しては父に対するように、そして教会に対しては母に対するように。『そう、私は今も偶像を拝み、霊に憑かれた人とまじない師に相談するが、神の教会を離れてはいない。私はカトリック信者だ』などとは言わないように。そのような人は、母なる教会に属しているとはいえ、父なる神を侮辱している。また、こう言う人もいる。『神がこんなことをお許しになりませんように。私は占い師に相談しないし、悪魔憑きにものを尋ねたりもしない。汚聖の占いをせず、悪魔を礼拝せず、石の神々に仕えることもない。しかし、ドナトの仲間だ』。神は母なる教会を侮辱した者に復讐される。それなら、父なる神を侮辱しないといっても、それが、一体なんの役に立つのか」。聖チプリアヌスは簡潔に宣言しています、「教会を母として持たない者は、神を父として持つことができない」。

 最近、大勢の人は母である聖なる教会について本当の教えを聞くための耳を持っていません。なかには、制度を作り直そうと望む者もいます。キリストの神秘体の中に社会で言う民主主義、はっきり言えば、すべての人はすべてにおいて平等という自分たちの望み通りの民主主義を取り入れようという愚かさを主張しているのです。この人々は、教会が神の制定により、教皇と司教、司祭、助祭、信徒、その他の信者で構成されていることが納得できないのです。これがキリストの望まれた制度であるにもかかわらず。

教会は神のみ旨によって位階を有する組織として制定されています。第二バチカン公会議は、教会を「位階的に組織された社会」と呼んでいます。教会では「役務者(聖職者)が聖なる(神的な)権能を持っているのです」。位階制は自由と両立するだけでなく、神の子の自由に役立つためのものです。

 教会では、民主主義という言葉は無意味です。繰り返しますが、教会は神のみ旨によって位階的に組繊されています。しかし、位階制とは、人間的な思いつきや非人間的な専制ではなく、聖なる統治と聖なる秩序を意味します。主は教会の中に位階的な秩序(叙階)を定められましたが、それが圧政に変わってはなりません。なぜなら、権威そのものは、従順と同じように、仕えるためにあるのです。

 教会内では皆が平等です。洗礼の秘跡を受けた人はすべて同じ父なる神の子であるからです。教会に加わったばかりの人と教皇との間にも、キリスト信者として何ら違いはありません。しかしこの根本的な平等も、教会の構成に関してキリストが定められた事柄を変えることはできないのです。神の明白なみ旨によって役割(職務)の相違があり、聖職者(役務者)は叙階の秘跡が刻み込んだ消えない印章によって、職務を果たす権能が与えられます。この職務の頂点にペトロの後継者、そして彼と共に、彼の下に、すべての司教が聖化と統治と教導という三重の使命をもって存在します。

どいようですが、重ねて申し上げます。信仰と道徳の真理は多数決で決めるものではありません。これは、キリストがすべての信者のために与えられた〈信仰の遺産〉であって、それを提示し、権威をもって教える仕事は教会の教導職に委ねられています。

 人間は自分たちを互いに結びつける連帯の絆を昔以上に自覚するようになったから、時代に見合った教会を作るために、教会の組織を変更すべきであるという考えは間違いです。時とは、聖職者であろうとなかろうと、人間のものではなく、歴史の主である神のものです。そして、教会が人々に救いをもたらすことのできるのは、教会自らがその組織と教義と道徳においてキリストヘの忠実を保つときだけです。

 ですから山上の説教を忘れて、教会の使命は地上における幸せを求めることであるなどと考えてはなりません。人々を天国の永遠の栄光に導くことこそ、教会の唯一の仕事であることを私たちは知っています。神の恩恵の働きが最も大切であることを認めない自然主義的解決は、いかなるものであっても拒絶しましょう。人間の生活における霊的なものの重要性を見失わせる唯物的な考えを退けましょう。同時に、神の教会の目的を、この地上の国家の目的と同一視しようとする世俗化傾向を拒みましょう。教会の本質と制度と活動を、現世のそれに似たものと混同してはなりません。

神の知恵は深淵である

 いま朗読した聖パウロの考えを思い起こしましょう。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか』。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。神の言葉に照らしてみると、主が定められたことを変えようとする人間の企てのなんとちっぽけなことでしょう。

 しかし、今どこにでも見られる人間の奇妙な能力について話さないわけにはいきません。神に反抗しても何もできなかったので、執拗に人間を攻撃しています。悪の恐ろしい道具となって、罪の機会を与えたり、勧誘したり、混乱の種蒔き人となり、内在的に悪い行いを善い行いとして実行させます。

 いつの時代にも無知はありました、しかし今日、信仰と道徳に関する粗野な無知は、時として、見たところ神学的で勿体ぶった名前のもとに姿を隠しています。そこで、いま朗読された福音書にあるように、使徒に対するキリストの命令は差し迫った現実性を帯びてくると言えるでしょう。キリストは「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と仰せになりました。知らん顔をしたり、腕をこまぬいていたり、自分の殻に閉じ籠ったりすることはできません。神のために、平和と落ち着きと教えの偉大な戦いに出ていきましょう。

広い心で人を理解し、愛徳の優しいマントで覆ってあげなければなりません。一部の人たちが主張するような教会は、真の教会ではないとはっきり言えるよう、信仰を確信させ、希望を増し、私たちを強める愛徳で人々を覆うのです。教会は神のものであって、その目的はただ一つ、人々の救いです。主に近づき、祈りの中で顔と顔を合わせて主と話し合い、自分の惨めさの赦しを乞い願い、私たち自身の罪、そして、今のように混乱した状況の中でどれほどひどく神を侮辱しているかに気づいていない人々の罪の償いをしましょう。

 カルワリオでの流血を伴う犠牲を、流血を伴わずに更新する聖なるミサにおいて、司祭であり犠牲であるイエスは、人々の罪の赦しを得るためにご自分をお捧げになります。イエスを独りぼっちにしてはなりません。十字架の傍らでイエスと共に居たいという、燃えるような望みを持ちましょう。世界に、教会に、人々の良心に、平和を取り戻させてくださるよう、慈しみ深い父なる神に向かって私たちの祈願の叫びをあげましょう。

 このようにするなら、十字架の傍らにおいでになる神の御母にして私たちの母、いとも聖なるマリアに出会うことでしょう。聖母の祝福された御手によってイエスのもとへと導かれ、イエスを通して、聖霊において、御父のもとへ行くことができるでしょう。

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